第3話 来店


 

 カレーはいつも大鍋で作る。サラダ油に5種類のホールスパイスを入れ、色が変わるまで弱火で丁寧に香りを引き出す。その横で玉ねぎのスライスを黒くなるまでゆっくり時間をかけて炒め、すべての野菜と炒めた玉ねぎをミキサーにかけてペースト状にした。


 結局あれから1週間、業者を利用しなかった。時間が経つほどに気まずくなってきっかけを失い、その事を考えれば考えるほど逃げ出したくなった。たかが一社員とのトラブルでその業者との契約を解約するには大人げないと思いながらも顔を合わせなくてもよいのであればそうしたかった。


 昔から一度でも大きな諍いをした人間とはその後、関係を修復する努力をせずに頑なに関係を断ってきた。一度でも相手に対して悪意を持つと取り繕ったり何もなかったかのように接することができない性格だった。

 配達業者はオーナーが店をしていた時からの古い繋がりがあるらしいから、ただ簡単に業者を変えるというわけにもいかず、変えるのであればそれなりの理由説明も必要だったし、担当者を変えて欲しいという事もなぜか言いたくなかった。


 今日は割と早い時間から店が忙しくなり、8時を過ぎる頃には定食の野菜カレーをすべて売り切った。定食が完売した時には表に出しているネオンサインの点灯を消すようにしている。

 これは常連さんだけにわかる合図だった。これより後はドリンクだけのサービスですというサインだ。

 逆にこれより前はホットドリンク注文は断っている。冷たい飲み物は店内に設置されたガラスケースから客が自分で取って自己申告で支払ってもらい、カウンターには無料のお茶と水を置いていて料理に忙しい時間のドリンクは完全にセルフサービスになっていた。


 一人だけの給仕では料理と喫茶どちらもは賄えない。この店は客の自主性と善意で成り立っていた。

 そして定食のサービスが終わった後の時間は仕事と言っても気楽なもので隠れてワインを飲みながらカウンターに立って喫茶の注文を受ける。


 平日は夜更けてから人が立ち寄るが週末は早い時間から人が訪れ、8時半頃にはお客はほとんどいなくなる。今は店に残っているのは高齢の男性ひとりだけで食事が終わり、コーヒーを注文したが飲み終わる前に気持ちよくなってうとうとしている。 

 なので私も遠慮することなく堂々とワイングラスを回しながらワインを味わった。


 この店で飲むワインが一番おいしい。自宅で一人で飲むワインは渋く、アルコールを舌に強く感じる割にはなかなか酔わない。ひとり映画を見ながら飲んでも本を読みながら飲んでも全く酔えないがここではそのおじいさんの寝顔をただ見てるだけでもおいしく飲めた。


 心地よい音楽と酔いが全身を温め、とめどない空想をしていると入り口の扉のベルが静かに揺れてめずらしく常連ではない若い男性が入ってきた。

 この時間からくる新規の客にこの店のシステムの説明をするのも面倒くさくなっていたのでもう閉めますと言って帰ってもらおうとした。しかしそのベルの音でおじいさんが起きてしまい、なんとなく客を差別する事に気が咎めてそのまま何も言わずに受け入れた。

 おじいさんは初めて見る顔が店内に入ってきたことで意識がはっきりとし、若者が席についてすぐにお金を払って店を出て行った。

 

 常連客は誰もがカウンターまで注文を言いに来てくれるが初めての客はその事が分からないので席まで注文を聞きに行った。

 男はキャップを深くかぶりその上にパーカーのフードをかぶっており、顔を上げずにコーヒーを注文した。この店を訪れる人間とは全く違った空気をまとっている珍しいタイプの客だった。  

  男は窓際の奥の席で本を読むでも携帯をいじるでもなくパーカーのポケットに両手を突っ込んで椅子の背もたれに完全に体を預けた状態で窓の斜め上をずっと見ていた。


 なんとなくそれが面白くなってきて、わざとゆっくりとコーヒーを淹れた。

 コーヒーカップとソーサーは一人一人の客の雰囲気に合わせて選ぶ。若いその男には青い葉の散りばめられたカップを選んでコーヒーを注ぎ、カウンターから出た。

 カウンターに置かれた北海道銘菓のバターサンドが残っていたのでそれも小皿にのせて男のテーブルまで運ぶ。


 卓上の読書用ランプの下に置かれた男の手に自然と目がいった。大きくて分厚く、日焼けした肉体労働者特有の武骨で節くれた男らしい手だった。その手はその男の頭の大きさや体の線、服装とまったく釣り合っていなかった。

 その手から右利きだろうと推測し、カップの持ち手とミルクの小さな容器を男が手に取りやすいように置き、小皿に乗せた菓子を男の目の前に置いた瞬間、ずっと窓の外を見ていた男の視線とぶつかった。


 その瞬間、男が誰か認識した。あの配達の若い男だった。

 それに気付いた途端に無意識にため息と小さな笑いが同時に出た。男は何も言わず正面から私と目を合わせた。その眼からはこの間と同じで真向から挑んでくるような強い意志を感じた。


 その後もカウンターの内側で堂々とワインを飲み続けた。むしろ堂々として見えるようにわざとそう装った。男は窓の外を見ながらコーヒーを飲み、30分ほど滞在してカウンターにお金を置いて黙って出て行った。

 

 そしてその次の日も同じ時間に来て、コーヒーだけを注文し、同じように黙って帰った。

 

 男が帰った後、意を決して業者に月曜日の配達注文書を送った。なぜかいつもより多めに注文してしまった。

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