第2話 中年



 次の日は意図的に配達業者を使わなかった。

 昨日のあのことが気にかかっていたし、在庫の食材で2,3日は営業ができる。少し足りないものがあれば近くのスーパーか商店街の店を利用すればよい。昔は業者から仕入れる食材が圧倒的に安価だったが最近はそれほど差がなくなってきていた。


 今日の定食はオムライスだ。オムライス用のドミグラスソースを大型冷凍庫から取り出す。冷凍庫には事前に作っておいたソースやコロッケ、エビフライなどの食品が丁寧に詰め込んである。

 どの食品にも手書きで商品名と作った日の日付を書いて色別でラベルを分けており、一目で見分けれるようにしてあった。  


 この冷凍庫がきちんと整理されていて簡単に探して取り出す事が出来ると自分でも不思議なくらい気分が昇った。この大型冷凍庫のあるパントリーにはこの他にスパイスや調味料の大きな棚や調理器具や特別仕様の食器や備品の棚があり、人の目が届かない場所にもかかわらず自分の好みの壁の色にして気に入った絵を飾り、明るく簡素で清潔に保つように心掛けていた。


 壁には絵の他に衛生管理や温度管理の表のクリップボードが掛けてあり、事業計画書や業者や役所関係の書類のファイルと手書きのレシピノートなどを収める小さな書類棚が置かれており、ここがちょっとした事務所の役割もする。

 こういった暗くて埃が立ち易くなりがちな所を自分の気に入った空間にすることで頻繁に出入りするようになり、隅々まで目が行き届くようになるのだ。


 大型冷凍庫からソースを出したついでに壁にかかっている絵と書類のボードの傾きを直し、書類を書類棚の適切な位置に整頓して戻す。

 自分一人で仕事をしているため、一度気が緩んでしまうと再び引き締め直すことは大変だ。なので時には自分自身を叱咤し、時には褒めてあげることが必要だった。

 昨日のようなことがあった後では特に自分自身を鼓舞していかなければ仕事意欲に影響がでる。

 

 大きな鍋で大量にオムライス用のチキンライスを作っていると裏口から大家さんが入ってきた。大家さんはこの店のオーナーでもあり、この店の上に住んでいる。  

 今日の午後の商店街組合の会合で話し合った事を報告しに来たのだ。店内から彼女が座るための椅子を持って来てキッチンの作業台のそばに置く。開店時間が迫っているので作業しながらでしか彼女の話を聞くことが出来ない。


 議題はいつもこの街の商店街店舗の生き残りについてだったが何度会合を重ねても先が見えない問題で時間が経つと共にゆっくりと各店舗が衰退していくのが見て取れる。誰もが解決策を持たない会合はお互いを慰め合うだけの時間になっているようだった。

 この店は商店街の賑やかな通りから一本路地を隔てた場所にあるので商店街全体の景気とはあまり関係がないのだがオーナーは商店街が活気がある時に恩恵を受けた事を大切に思っており、自ら組合の役員を引き受けて自分の残りの人生をこのお世話になった街のために尽くそうと努力している人だった。

 そして彼女はいつものメンバーだけの会合では意見の堂々巡りになるために幅広い意見を求めていた。何かいい解決法があれば意見が欲しいと言い残して裏口から出て行った。


 オーナーは一人暮らしで近くに家族も親戚もいない。この喫茶店を辞めてからは昼間は公民館の講義に出掛けたり、商店街組合の仕事を引き受けて毎日忙しそうであるが夜は寂しいのかいつもこのお店の本棚の隣の席で夕食を取り、適当に時間を潰してから上の部屋にあがっていく。

 高齢の割には全く口うるさくないし、詮索をしない人なので近くで毎日顔を付け合わせていても全く気にならない人だった。


 

 一通りの準備が整うと冷蔵庫からケーキを出して切り分けた。

 今日はチーズケーキをサービスとして出す。時々、気が向くとケーキを焼いて自由にお取りくださいのスタイルでカウンターに置いていた。

 そうするとお客さんが勝手に小皿にケーキを取りに来る。たまにそれが知り合いから頂いた地方のお土産になる事もあるのだが誰もが黙って静かに取りに来て、自分の席に戻って行く。それを見るのがとても好きだ。体の大きな男性やむすっとした老人などがカウンターのお菓子を気にしてる様子が愛らしかった。


 この店のただ一つのルールは他のお客さんに迷惑をかけないように静かに過ごすことであった。それさえ守ってもらえるのであれば何時間居座ってもらっても構わない。客のほとんどは一人暮らしで身近に親しい友達のいない人たちだ。 

 その人たちの孤独を少しだけ癒すためにこの店が存在する。寂しくても苦しくても明日が今日と同じ一日になると分かっていながらも次の日の朝を迎える心の準備をしなければならない。

 寂しい夜を過ごすのが自分だけではないと確認できるのがこの場所の存在意義だった。その事実を知るだけで誰もがほんの少し孤独が癒えた。

 

 私自身、昔の知人や知り合いと顔を合わせる事が苦痛だった。実家がこの近所で小さい頃から育ってきた街なので離婚して独り身でこの土地に帰ってきたことが少なからず町の住民のうわさになったと思う。誰もがあからさまに事情を聴いてはこなかったが私の今の環境を見れば大体の事は察しているらしかった。


 以前の私とは違う生活に疲れて無口になった中年女をどこかで演じていた。そうすることで誰もが話しかけにくい雰囲気を作った。そうやって見えない壁を作ることをどこで学んだのだろうか。以前の自分とは違えば違うほど周りは遠慮して私から距離を取ってくれた。


 若い時に親や周囲の反対を押し切った末に結婚し、子供をたくさん作って街を飛び出したが離婚してひとりで地元に帰ってきて、父の介護をしながら薄暗くて寂しい喫茶店を営んでいる疲れた中年の女、と言う肩書でこの町はもう一度私を受け入れた。

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