夕立ち
はじめ次郎
第1話 衝突
窓の外は雨のためにすでに薄暗い。向かいの歯科医院から男子学生と勤務を終えた歯科助手の女性がほぼ同時に出てきたのが見えた。
その一時は地面に叩き付けられた雨の雫が跳ね返り、もやがかかるほどの豪雨で
通りを走る車がシャーっという小気味よい音を立てて水の表面をかき分けて通り過ぎるのが窓越しからでも確認できるほどだった。
大雨の中、医院の玄関先に狭く突き出したひさしの下で二人は別の方向を向きながら雨の勢いが弱まる瞬間を見極めようとしている。
わたしが彼らの立場だったなら喜んで雨に打たれるだろう。仕事帰り、学校終わりに思いっきし派手に濡れる事に何をためらう事があるのだろか。
髪の毛から滴る雨の雫が頬をつたり、着ている服が肌に張り付くほど思いっきり雨に濡れて街を歩くことはこの瞬間だけに許される行為であって、それに対して誰にも後ろ指を指されることはない。
二人はしばらくひさしの下で雨の勢いが弱まるのを待っていたが、そのうち男子学生の方は背負っているかばんを前に抱きこむように持ち直し、覚悟を決めて雨の中を突っ切って走り去っていった。
その覚悟と行動がイライラして見ていた私を少しだけ爽快な気持ちにさせた。残された女性は走り去る学生のその姿を見て完全に帰宅を諦め、また歯科医院の扉の奥に戻って行った。
歯科医院の青いネオンサインが窓ガラスにたたきつけられた雨の雫によってきらきらと青い光をまき散らしているのを眺めながらお弁当をつつく。
家を出る前に急いで握ったおにぎりと冷蔵庫の中にあった常備菜を適当に詰めた弁当箱だった。その堅くて冷たい弁当を窓際のテーブルに腰かけて早めの夕食として摂るのがいつもの夕方のルーティンだ。
今日の午後、嫌な出来事があった。食材の配達業者の若い男と揉めた。その男は先週からうちの担当となったが前任の男性に比べて愛想がなく、仕事が雑で投げやりだった。
冷めた表情で人を見降ろし、自分の仕事に愛着がない事をわざわざ周りの者に見せつけるような態度をする。すさんだ目は自らトラブルを引き寄せたがっているようにも見え、こちらからしゃべりかけても迷惑そうにぼそっと返事をする。聞こえない振りをして返事をしない時すらあった。
注文した食材がすべて完璧に揃って配達されることはほとんどなく、また食材の取り扱いが雑で柔らかい青果などを傷つけられた。
うちのような小さな飲食店では少ない経費をできるだけ有効に活用するために食品の鮮度はかなり気を付けている。大量に仕入れて消費できなかった食材を容赦なく廃棄処分するような大きなお店ではないのだ。
今まで仕事をしてきた中でこういった仕事に対しての意欲が感じられない若者にたくさん出会ってきた。彼らを指導する立場にあったために彼らのような人間を熟知はしていたがそういった人との付き合いで神経をすり減らして仕事を辞めた。出来ればもう関わりたくないタイプの人間だった。
今日は雨の中での配達だったため、注文した食材がかなり濡れていた。前任者の中年の男性は雨の日には必ずビニール袋を上に乗せてくれていたのだがこの若者にはその配慮がなかった。その上、道路の水の溜まっている場所に配達の箱を乱暴に置いたせいでプラスチック製の箱の底から水が浸水し、湿気を嫌う粉物の袋やパスタの箱がかなり濡れていた。
最近こちらの都合で無理を言って配達時間を変更してもらったものだからできるだけ穏便に話をつけたかったが返ってきたのはあからさまなため息と配達ケースを乱暴に折りたたむ音だった。
彼は言葉ではなくその行動で自分の苛立ちを表現した。
長年、荒くれた料理の世界で仕事をしてきたせいで女にしては頭に血ののぼりやすい性格になっていた。大好きな料理の仕事だったがそこで働く人たちと必ずトラブルになる。頑固で真面目、そして負けず嫌いの性格はプライドが高く自己肯定感の強い料理人たちといつもぶつかってどの職場でも敵を作った。
だけど本当は心の中ではこの荒んだ眼をした男のように自らトラブルを望んでいるのかもしれない。
ケンカをする覚悟はいつでもできている。ここで引き下がれば一度出来てしまった関係性を覆すことは容易ではない。自分の仕事のスタイルを守るためには時にはケンカが必要な事を知っていた。
覚悟を決めた途端に頭が覚醒し、短く簡潔な言葉で相手の急所を大胆に狙って攻撃した。
男の目が苛立ちの目つきから怒りの目つきになったのが即座に読み取れた。その眼に一瞬ゾクっとするような快感を味わう。しばらくはどちらも眼をそらさず、その場でにらみ合った。そしてその男と眼を合わせながら男の次の言葉と行動を予測した。
男は結局何も言わなかった。ふっと視線を外し、無言で配達用の箱を担ぎ、裏口から出て行った。
男が帰ると急にすべてが嫌になった。いつまでも若い者と対等にやり合おうとしている自分が心底嫌になったのだ。
気を取り直そうとお店のBGMの音量をめいっぱい上げて開店準備に取り掛かる。
雨のために濡れてしまったデリバリーのパッケージを丁寧にタオルで拭いて、
トイレと洗面所の衛生を確認し、床を掃いた。
気持ちを切り替えようと出来るだけきびきび動いてはみたが胸をずっしりと押さつける鉛の感情は消えなかった。
天気と同じで今日はそんな日なんだとあきらめてしまおう。そう思うと少しだけ肩の力が抜けた。
音楽に意識的に集中し、丁寧にテーブルと椅子を拭いて回った。
振り向くとすぐ真後ろにあの男が立っていた。
男が自分一人のところを見計らって仕返しに戻って来たのだと思った。
だからとっさに近くにあった箒を手に取った。
男は一瞬、箒を持った私の手に視線を落としたが彼は手に持った配達伝票を無言で差し出した。
そして何も言わずにまた静かに出て行った。
とっさに手にした箒のプラスチックの柄の部分が生ぬるく感じられるほど強く握っていた。
首筋は冷風をあてられたように冷たく、後頭部がかすかに痺れている。久々に泡立つような緊張と興奮を同時に味わった。
緊張が少し緩んでくるとお店のBGMの音がかなり大きかった事に気付いた。だから男が入ってきたときの気配を感じ取れなかったのだ。
誰とも顔を合わせたくない、だけど一人で家にいるのは辛いという人たちが集まる夜だけ営業する喫茶店を始めて一年が経つ。
以前は高齢の独身女性が昼間の営業時間で喫茶店を営んでいたが一度体を悪くしてからは商売の意欲がなくなり、この場所を引き継ぐことになった。
毎日、日替わりで一種類だけ定食を提供する。それ以外のメニューはコーヒーと紅茶、ソフトドリンクだけの店なので一人ですべて賄う事ができた。
店内のよく見える場所に「大きな物音と会話はご遠慮ください」という注意書きを張っており、ここに来る常連さんたちは静かなのを良しとして通ってくれていた。
会話がないので毎日来てくれる常連の素性は誰一人としてわからない。それが誰にとっても都合がよかった。ここに通う客は寂しいけど人嫌いなのだ。
中年に差し掛かり自分の将来の心配を少しずつ始めたころにいくつかの不幸が重なり、ずっと避けていたこの地に戻ってくることになってしまった。
飲食店の経験者ということでオーナーに喜んで迎え入れられたが特別な料理経験が必要とされる仕事ではない。だけどこの仕事は気に入っていた。
メニューに選択肢がなく、みんなに同じものを提供するので材料費は抑えられるし、廃棄食材も少なくて済む。そして調理時間や仕事量も最低限に抑えれるので一人で切り回すことが出来、誰とも仕事を共有しなくてもいいということが嬉しかった。
勤務時間も短く、自分の好きな時間で働けるが定休日はない。
一人暮らしの人たちに自宅の居間のような感覚で利用してもらえるように内装はできるだけ簡潔にしてその分、本をなるべくたくさん置けるように壁を工夫して本棚を設置した。
照明は周りの客の顔が判別しにくいほどの暗さで各テーブルに読書用のスタンドを置いて店の雰囲気に合った音楽を小音量でかける。
本棚の本は自由に読んでもらえるが持ち出しは厳禁だった。本はいろいろな人たちからの寄付がほとんどで実用書から漫画本まであり小さな図書館程の品揃えが自慢だ。
この喫茶店は長年の自分の理想の空間だった。この空間が心地よすぎてお店を閉めた後もしばらく一人でここでワインを飲みながら本を読んだ。そして心地よくなってから自宅まで歩いて帰るのも楽しみだった。
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