全景の終着点

 

 白い地面は墜ちた。黒く静謐を湛えていた海を叩き割り、水底へ沈みゆく。

 それに続くものがあった。地を失った黒い手が、オトナたちが、浮雲を追いかけて、あるいは吸い寄せられてその身を海に投じる。サキたちに襲い掛かっていたものも、新たに闇の中から出でたばかりのものも、おそらくは全て。


 まさか沈んだ浮雲を引き上げるつもりなのか。そんな荒唐無稽なことを考えるほどに無数の無彩色が雨のように篠突いていて、海へ飛び込んでいく光景は異様だった。

 結果的に凄まじい物量が海面に突撃し、衝撃で飛沫が上がる。いや、飛沫と呼ぶに相応しいかはいささか疑問の余地があった。


 海は溢れ出し、波濤が起き上がる。

 全貌が視界に収まり切らないそれは、空の転落を彷彿とさせた。


「ユキ!」

「皆、私の空想に色を絡めて!」


 ユキが両手を振り上げると、海の手前に広がっていた砂場が蠢いた。巨大な灰色の手に掬われるようにして、轟音と黄埃を立てながら砂が舞い上がる。そこに六色の彩りが加わり、壁、柱、地盤が形成されていく。

 だだっ広い草原の上に、数回の瞬きの間に砂の城が出現した。最初からそこにあったと表現する方が納得できそうな規模と速度だった。

 少し遅れて地の底を突く鳴動が到来した。立っている大地そのものが波打ち、両足を宙に浮かせる。


「「「わあああああ——‼」」」


 強烈な潮の匂いが押し寄せる。砂の城は所々に穴を開けられながらも、しぶとく踏み留まっていた。

 ひとたび波が去ったあと、水に浸かった城の外殻が下から崩れ落ち始める。次に柱、壁と続き、順番に天井までどろどろに溶け出す。辺りの背が低い地帯は水面下に沈み、城は砂地の孤島へと姿を変貌させていた。


「ぷはぁー! 埋められるとこだったー!」

「よいしょーっ!」


 砂にはまった色々を引っこ抜く。見たところ、誰も流されてはいないようだ。

 全員を無事に引っ張り上げたところで水音が響いた。微動する地面。まさかまた、と警戒する私たちをよそに、海水が時間を遡るように引いていく。もはやそれは一つに溶け込んだオトナたちの大きな胎動だった。海は元の中心部でもごもごと纏まり、なんらかの形を作り始める。


 そして現れたのは、山と肩を並べる巨躯に、何色も映さない黒ずんだ水面の皮膚。さっき押し寄せた波と同等の海水が意思を持ったかのように自立している。

 事実、それはこちらを見た。


「げほっ……あれがオトナたちの核心です」


 口の中の水を吐き出し、マネビが言う。

 ついにここまで来た。ようやく、手が届く。


 皆は巨躯の海を目に留めて何を思ったのだろうか。私と同じ気持ちでいるのだろうか。

 高揚と好奇を織り交ぜたこの感情が、顔馳かんばせをくすぐる。サキの顔馳かんばせも明るくなったのは勘違いじゃない気がする。

 少なくとも、今までとは比べものにならないほどの相手なのは間違いないけれど、誰も臆したようには見えなかった。皆、楽しんでいる。


『コドモたちよ、なぜ、反抗するのですか』


 どこからともなく、ひび割れた声が吹き付けた。潮の匂いと風と、そして緊張感が首筋を湿らせる。

 オトナたちの言葉はもうすっかり洗練されたものになっていた。今なら可能なのかもしれない。

 言葉による、話し合いが。

 驚いたことに、最初に前に立ったのはアズキだった。その手をカカギが横からそっと包む。


「本気で聞いてんのか? そっちが私たちの征く道を塞ぐからだろ」

『アナタたちは危険分子です。現在などという狭隘な視点に陥り、秩序を乱す要因となるからです。それを、ワタシたちは許容することができません」

「だから空想を禁止するって? そのわりには、昔、私とカカギ、それにユキを利用して色を塗ってただろ。私はあんまり覚えてないが……あの大樹のことだよ。あれはなんだ?」

『アナタたちが時間という媒体において用いる記号の模倣実験です。全く無意味な羅列に過ぎないと、あの時結論付けました。この言葉も同じ……全て下らない遊びです』

「……ばいたい? もほーじっけん? なんかしらねぇが難しくて回りくどい言葉ばっか使いやがって、もう少し分かりやすく話せよ。要は気に入らないってだけだろ?」


 オトナたちの視線が私を捉えてからちらと横に移る。マネビはそれを真っ向から見返した。


『アナタは、同意するはずなのではないですか? かつてワタシたちだったものよ』

「……わたしは、子どもたちの色に、それが描く果てなき道筋に魅入られました。あれらが無意味だとは思いません。もう戻ることはできないでしょう。無論、そのつもりも」

『そうですか。切り離して正解でしたね』


 とん、と軽い衝撃が背中を押した。咄嗟に伸ばした手は空回る。

 いや、空回る手がなかった。


「あっ」

『やはり、アナタが一番薄っぺらい』


 無理解の中で振り返ると、マネビの体内から黒い水が棘のように突き出していた。その先端が手の形をとり、私の身体を貫いたのだ。破損した箇所の色彩が乱暴に剥がされる。

 マネビも同様だった。驚きの表情を湛えたまま、内側から白黒の身体を引き裂かれて頽れた。かろうじて顔を上げるマネビに巨躯の視線が刺さる。

 どういうことだ? まさか、利用された?


『アナタもですよ。色を幻視し、名を付けられ、幼稚に混ざれば自分がコドモに仲間入りしたとでも思いましたか? 所詮、ごっこ遊びに過ぎないというのに』

「アク、マネビ、そこを離れてくだ……っ⁉」

「なによ、これ……お腹の中が、くるしい……っ、けど!」

「やられてたまるかよ! これっぽっちの邪魔で!」


 サキたちの身にも異変が起きていた。それぞれ腕、腹、脚などの部位を押さえ、見えないなにかに抗っている。マネビのものと同じだとしたら、オトナたちが海に飛び込んだのは、波を起こすためじゃなくて波に紛れるためだったのか。

 以前とは比べものにならない狡猾さと手際の良さだ。


 ただ幸いというべきか、彼らはすぐに元の調子を取り戻した。当然だ。そう簡単に空想の子らが倒せるのなら、最初からそうしていたはずだから。

 となると私とマネビが真っ先に狙われたのにも納得がいく。色そのものを発露したサキたちならともかく、色を借りただけの張りぼては格好の的なのだ。

 想定外の状況で、頭はやけに冷静に自分を俯瞰していた。それしか出来ることがないからだろうか?


 それもそのはず、皆が駆け寄った時に、すでに私の身体はなかった。


「アクの色がなくなっちゃった⁉ うそ、そんな!」

「どこだ、アク⁉ いるんだろう⁉ 出てきてくれ!」


 ——なにを言っているんだ、皆。私はここにいるじゃないか。


 そう、私は変わらずここにいる。ただ姿かたちが見えないだけ。


 それは私の原初の状態に近かった。存在しているのに、視認されない。私は誰にも見られない。


 存在がゆらぐ。


「    」


 顔馳せを描いたのは失敗だったのだろうか。声が出せなかった。口を用いての発声に慣れてしまったせいで、いや、これはもっと根本的な——身体ありきの言語に頼り過ぎていたせいだ。

 口を開け、喉を震わせ、腕を振るい、足を踏み出そうとしても、その意思に付随する身体がなければ何の意味もない。

 この期に及んで、経験の伴わない言動で自己を表せるはずもなかった。


『塗り直す時間は与えません。これからはおしおきの時間です』


 はっとして、サキはこちらに伸ばしかけていた手をオトナたちの方へ向けた。

 暗幕が昇る。砂の隙間から黒い水が噴出し、四方に壁を形成して空間を分断した。それに抵抗するような赤色の爆発が起こる。少し離れたところからも様々な空想の輝きが漏れ出て見える。

 噴出する水は塗り潰してもすぐに湧き出てそれぞれの視界を遮る。無意味と悟り、最初に空に飛び上がったのはモリだった。次にサキとユキが同時、やや遅れてアズキが空に飛び上がった。でもそれを予期できないオトナたちじゃない。たぶん、唯一の退路をわざと設けて誘ったのだ。


 視線が上に誘導される。黒い水は高く薄く広がり、辺りの空気を淀ませていく。上空に黒い物体が現れる。見たことのある形だ。夜が、再来しようとしていた。

 マネビは、そう簡単に暗闇を作り出すことはできないと推測していた。まさかその時点から見当が外れていたのか?


『見ていましたよ。あの空虚がいなければ、夜を再び壊すことはできないでしょう?』


 ひび割れた声が降りかかり、サキたちの動きが止まる。


「色が見えない! また⁉」

「ちっ……やられたかっ」

「ちょっと! 二回目はできないんじゃなかったの⁉」


 赤たちの動きが止まった。寄る辺なく彷徨うように手足を空振る。


 ……皆、何をしてるんだ?


 おかしい。

 空は全く暗くなっていないのに、どうして皆、前が見えていないのだろう?

 私は見えている。私だけが見えている。少しずつ晴れ上がりつつある空の色が。

 身体を失ったから? 目は不必要な部位だったのか? そんなわけはない。ならばどうして。


「  」


 目を見て気付いた。サキたちの眼前に、目を覆うようにして黒い靄がかかっているのだ。

 暗闇が訪れたんじゃない。それぞれの目が見えないよう細工を施されただけで、上空の物体はさっきまでの暗闇を錯覚させるための偽物だ。

 彼らは思い込みに惑わされている。自分たちの視界が間違っているとは思っていないのだろう。


 伝えなければ。誰にも姿が見えないからこそ、独りだけ暗闇を免れている私が皆に事実を伝えるべきだ。

 ただ、そのための身体が今はない。


「                 」


 剥き出しの空虚が空を切る。

 私の言葉は何も生み出せず、無に帰す。駄目だ。以前はできていたことができない。

 そのもどかしさが喉を詰まらせ、嗚咽する。どこにも響かない泣き声が響く。


 いや、まだだ。まだやりようはある。

 私の今の状態は、見えていないだけだ。動いて触れることならできる。

 じゃあ、暗幕を避けて飛び上がったサキたちに、空を飛べない私はどうすれば触れられる?


「      」


 私は倒れたマネビのもとへ向かった。粉々に砕け散った白黒の下から、微かに光を放つものを探し出す。私の身体が剥がされた際に落ちた、空想の欠片。皆が描いてくれた衣装の一部だ。

 青色のそれは着るためのものというより道具に近かった。探索に役立ててくれと言って渡された種を地面に落すと、瞬く間に発芽して急成長をし始める。やがて黒い水の暗幕を超える高さまで育ち、青々とした枝と葉を生やした。


『なんです?』


 木登りは得意な方じゃないけど、固く根付いた青の木はしっかりしていて登りやすい。唐突な色彩に目をひそめる巨躯をよそに、私は天辺まで登って手を伸ばす。手に持っていたのは紫色の花だった。

 それを両の手のひらで擦ると、花が回転しながら緩く飛んだ。ねじれた茎を伝って水滴が昇る。水は眩い光を絡ませながら花びらを濡らす。私は話しかけるようにそっと息を吹きかけた。


 もう一度、私たちを助けてほしいと。

 花びらが舞い散る。サキたちの目元に落ちていく。


「……? 目に、花びらが……ハヒ? いや、これは……そっか、分かった」サキが顔馳せの前に手をかざして黒い靄を剥ぎ取る。「アク、そこにいるんだね?」


 それは合図だった。全員が瞬時に状況を察して次の行動をとる。

 七色の輝きが空に閃き、私の全感覚が極光に溺れる。

 させるまいと海面が裂け、無数の黒い腕が飛び出す。

 波と押し寄せた腕は光を潰し、あるいは引き裂かれる。どちらかが押されるということもなく、明暗を分ける境界線を形成した。


 有彩色と無彩色のせめぎ合いの最中、空想の気配が膨れ上がる。

 誰もが分かっていた。持ちうる全てを出し切ってこそ、最大の相手に勝てるということを。

 熱気が最高潮を迎え、合わさって一つの大きな形をなす。七つの色を取り入れた空想は木を超え、山を見下ろし、かつて雲のあった高みにまで到達する。大雑把ながらも胴体に四肢を取り付けた姿は、どこか昔の空虚に似ていた。


「おいおい、少し見ない間に随分と大きくなったな」

「これ、私たちの最高傑作だから! ありがたく受け取ってよね!」

「ムツリ、まだまだ遊び足りないよー!」

「こりゃぁ見応えあるな! 興奮してきたぜ!」

「デカすぎる。これはこれでよく見えない」

「さすがに、私もこれだけの空想は初めてですね」


 私というからっぽを、皆の色が包み込んでいる。あらゆる衝動と好奇心が私を満たす。


「大丈夫だよ、アク」


 サキの腰元にある大輪が、その瞼を広げてメラメラと花開く。

 赤く縁取られた瞳に意識が吸い寄せられる。そのなかにある私の瞳も赤く染め上がっていた。

 右の瞳は青いままで、左の瞳に散らばっていた破片が溶け出し、鋭利さを失う。それは馴染みある花びらの形をしていて、燃えるように舞い散り、深紅の猛威に咲き荒んでいる。


「私たちはアクのこと、ちゃんと見てるから。私たちの空想が、あなたの空虚を証明する」

「ありがとう……」


 視点が高い。景色が、世界が小さく、けれど広く見える。

 これが私の身体? 空虚の輪郭?

 山を眼下に見る巨体は重く、動きもぎこちない。でも確かに在った。

 言い知れぬ感覚が全身を刺す。今の私は空虚だけど独りじゃない。


「マネビ、あなたのことも見ていますからね」


 オトナたちの猛攻を凌ぎながら、ユキがかろうじて空けた片手でマネビの身体を修復する。白黒の身体に灰色が継ぎ接ぎされた。


「よぉ、ユキの色で良かったな! 大きさじゃあっちに負けるが、硬さとか素早さとかなら負けてねぇからよ」

「別に、アズキが威張ることじゃない」

「あ、ありがとうございます……」


 信じられないといったふうに、マネビは自身の身体をぺたぺたと触って確認する。何はともあれ、これで状況は振り出しに戻った。いや、それ以上だ。


「やっちゃえ、アク! 一発ぶちかませ‼」

「言われなくても‼」


 私は空虚の身を捻らせる。振るった拳は、咄嗟に後ずさりしたオトナたちの眼前で止まった。

 おもむろに手のひらが開かれ、中から火花と一緒に紙吹雪が飛び出した。色とりどりの紙くずがオトナたちの顔に炸裂する。


 皆の考えていることが、感情が、発想が、全てが一緒くたになって意識に流れ込んでくる。楽しい。この身体は私だけのものじゃなくて、皆のものだ。全員の意思がこの空虚を動かしている。

 これから描かれるだろう空想の景色が、手に取るように分かる!

 例えば、紙吹雪を振り払ったオトナたちの前には、山も海もない全面の真っ白な世界が見えているはずだ。そして向かい合うのは、空虚だけ。


『なっ……』一瞬で移り変わった景色に戸惑いを隠せない様子で、オトナたちが狼狽える。『空想で惑わしても、意味はありませんよ』


 そう言い、腕を大きく振りかぶる。突き出すものが何なのかは見なくても分かった。


『殴るのは駄目だよ。遊びの規則、守ってもらわないと』


 自分の声が重なって聞こえる。これは、皆の声だ。


『じゃんけん……ぽん!』


 私はパーを出した。手のひらはオトナたちの拳を容易く防ぎ切る。そういう規則だからだ。

 両者が手を出した一場面が、景色に焼き付く。その色の分だけ、オトナたちの身体が一回り小さくなった。

 そして、足下に緑色の草原が塗られる。


『けん、けん、ぱ』


 私は落ち着いて片足で二歩跳び、次に両足を広げて着地した。


『……』


 オトナたちは何も言わず、上半身を屈めて突っ込んでくる。やはり駄目だ。そうやって真っ直ぐに両足をついては落ちてしまう。

 塗られたばかりの地面には穴や亀裂がいくつもあり、オトナたちの足は見事にはまった。勢いよくつんのめり、手を突いた。

 またしても勝ちだ。

 最後の着地の瞬間が景色に焼き付く。オトナたちの身体がさらに小さくなった。


 そして地面から灰色の大樹が生える。

 ここまで来ればさすがに気付いたはずだ。この空間が何を意味するのか。


 空虚の手は木の枝を折り、両手で握り込んだ。できるだけ形がかっこいいものを選んだつもりだ。それを腰元で構えてオトナたちへ切っ先を向ける。

 オトナたちは竹林から竹を一本手折った。細長くよくしなるそれは、簡単に壊れてしまいそうだ。

 互いに構えたまま、少しずつ、一歩よりも短い歩幅でにじり寄る。


 動いたのは私が先だった。持ちやすさと太さの優れた立派な枝だ。斜め上に振り上げると、込めた力よりも明らかに軽い手応えと、カツンと硬い音が鳴った。

 半ばで折れた枝が落ちる音だった。それを最後まで見届ける暇もなく、竹の穂先が胸を突くのを、私は驚きと興奮の中で見ていた。


『……負けちゃった』


 決定的な一振りの場面が景色に焼き付く。突かれた胸は傷一つなく、代わりに色彩を振りまきながら空虚の身体が縮んだ。


 白い雪が降る。

 次の行動は同時だった。身を屈め、足元の雪を投げ付ける。あるいは避ける。

 音を持たない声援が頭のなかに響く。皆、見守ってくれているのだ。何度も負けてなどいられない。

 身体の小さいオトナたちが先に白色に染まり、私の勝ちとなった。

 場面が焼き付く。オトナたちの身体がもっと小さくなった。


『このような茶番に、なんの意味があるのです』

『私たちは自由に空想をしていたい! 見えない道を切り拓いて、躓いたら皆で乗り越える! 今までもそうやってきた! なんで分かってくれないの!』

『それが、ただの幻想に過ぎないからですよ』


 黄色の砂山が隆起する。一瞥して互いの山を崩しに飛び掛かる。派手な山が丸く抉られてなだれを起こす。場面が焼き付く。空虚が小さくなった。


『幻想じゃない! 勝手に決め付けないでよ』

『決め付けはアナタたちの専売特許でしょう。だからワタシたちもそれを利用します』

『先に規則を決めたのはそっちでしょ!』

『はあ……無知は恐ろしいですね。誤認した事を、まるで真実であるかのように捻じ曲げてしまう。無垢、無邪気、……無秩序。透明ですら、アナタたちにとっては色の一つなのでしょう』オトナたちの虚ろな目が細められる。『間違いだらけの知識。視界を歪曲し、偏向した正解を導く色彩。結論を容易く揺り動かす情動。その思い込みフレームこそがアナタたちの身勝手な武器で、ワタシたちにはない思考回路です』


 じっと視線が交わう。視界の、四角い輪郭が熱く際立つのを感じた。

 オトナたちの手のひらがこちらを向く。大きい。最初にオトナに遭遇した時、迫って来た手を思い出した。

 それは常に何かを押し潰そうとしていた。


『理性と恐怖を忘れ、無謀さを誇るコドモたちよ。空想などというあいまいなものに縋る以上、ワタシたちとは相容れぬと知りなさい』

『秩序を乱すから? でも空想の未来は分からないんでしょ? 楽しいことも悲しいこともあるけど、悲しいことが嫌だって理由で最初から全部できなくするのは違うと思う!』

『何も違うことなどありません。そのかなしいことが起きてから後悔するのはアナタたちですよ』


 青色の海が出来る。投げた石が水面を跳ねて走っていく。場面が焼き付く。空虚が小さくなった。


『私たちは未来の景色を綺麗に描ける! 描こうとする意思がある!』

『意思! ああ、意思ほど責任を他に転嫁するものもありません。アナタたちのそれには中身がない! 所詮はその場しのぎのお遊びでしかないのだから!』

『確かにこの道の先には悲しいことだってあるだろうけど、それよりもずっとずっと楽しいことの方が多くなる! そういう未来を思い描いて、皆で進んでいくから!』

『それが不確定だから駄目だと言っているのです! どこに山があり谷があるのか知り得ない道より、最初から最後まで平坦だと分かり切っている道の方が良いに決まっている!』

『この……分からず屋っ‼』

『このっ、空想描くうそうがきが——‼』


 雲が、花が、湖が、滝が、岩が、崖が、草が彩られる。場面が焼き付く。景色が重ねられていく。

 つとめて、白む空に雲がまばらに棚引き、見えない風の征き先を示す。なだれて緩やかな砂山の斜面はいくつもの手や足の輪郭を残している。壁立は滝を遠慮もなく吐き出し、泡と凧の漂う岩場を飛沫で湿らせる。


 水の降る草原で花々が踊る。青々とした葉から露が滴り落ちれば、石はそれを表面で軽く弾いて音を奏でる。地面に引かれた直線と丸。折れた枝と選ばれなかった一朶の爪先。散らばった落ち葉の間には模様が立ち上がり、飛ばされる度に乾いた拍手を鳴らす。

 数多の景色のなかで色が戯れる。笑う。光はその一つ一つに躍動し、あるいは向かい合ったものを映し、気まぐれに神秘を隠す。


 私たちの空虚と、オトナたちの身体は元の大きさに縮んでいた。私は初めて身体を彩ってもらった時の、オトナたちは初めて出会った時の姿にそっくりだ。

 誇張のない本来の身の丈。またもや振り出し、オトナたちはそう思ったかもしれない。


『……絶対に、私たちが勝つ』

『はぁ、はぁ……その、根拠のない自信には、いつも驚かされますよ』

『そう? でも、本心だよ。負ける気がしない』


 オトナたちの色のない顔馳せが歪む。空想に満ちた世界では、彼らも過去を見るんじゃなく思い出さなければならない。それはあいまいで不確かな答えだ。きっとわからないだろう。


『さっき、あなたたちは道って言った。私たちの未来のことを』

『……それが、なにか』

『私たちが何回も繰り返して言ったからね。この言葉が、あなたたちに伝染するように。ここは私たちの景色。比喩は知覚され、私たちの秩序で全てが色付けられる』


 私たちはオトナたちの傍を通り過ぎる。空を見て、草を踏み、川の音を聞き、花の香りを嗅ぎ、風を全身に受け、景色を纏いながら。今を感じながら。


『この言葉は私たちの言語だから。最初にあなたたちが意味も知らずに喋ってた、ただの真似事とは違う。言葉が通じれば、伝えたいことはびっくりするくらい簡単に伝わる。私たちの景色を見て、私たちの言葉を聞いて、私たちの世界を感じて』


 オトナたちが振り返る。様々な遊びの場面が焼き付き、足跡となった道筋を。


『私たちは、これから先の未知に一歩を踏み出す覚悟ができてるよ』


 項垂れたオトナたちは静かに首を振る。

 意識に深く浸透した空想を、振り払うように。


『……どうせ』


 息継ぎ。


『どうせ、アナタたちが勝つことは決まっていました』

『……』


 唐突に、オトナたちはその場に座り込み、顔をうずめた。

 ひび割れた声は次第に小さくなり、か細く消え行きそうだ。白黒の身体も今はやけに縮こまっているように見える。


『ワタシたちに見える景色はもうすぐ途切れます。ここが全景の終着点。アナタたちは、それよりも遠い未来を空想できているのでしょう。だから、この遊びには意味がありません』

『意味ならある。結果が分かっていても、遊びはそれだけで楽しいじゃん』

『ああ、確かにアナタたちならそう言うでしょうね』


 低く、くぐもった笑い声が漏れる。そこにはどうしようもないほどにくっきりと諦念と失意が滲んでいた。納得したふうに言葉を吐いたくせに、何も分かってなどいないのだ。

 私たちの内に、苛立ちが芽生える。


『ワタシたちは……ゼンを知り、理解しているつもりでした。からの存在アクが全てを否定して新たな秩序を創発させられるというのなら、是非とも好きに描いてください』


 言いながらも、オトナたちは身体を起こさない。少し前までの勢いはどこへやら、うずくまったまま声だけが空気を震わせる。


『それとも……ワタシたちが「たすけて」と言えば、助けてくれるのですか?』


 少し考えてから私たちは目を伏せた。


『あなたたちの思っている「たすけ」とやらを差し伸べてあげることはできない。多分、その意味を私たちとあなたたちとでは共有してないから。でも、喧嘩の後は仲直りでしょ』


 私たちは手を伸ばす。約束を交わすための手を。


『……仲直りをしたところで、アナタたちがワタシたちの規則を塗り潰すという未来は変わらないでしょう。仲直りは所詮、勝者の自己満足です』


 オトナたちの顔がこちらを見る。

 今の私を見ている。


「私はからっぽ。でも無いわけじゃない。皆の色が、私を彩ってくれた」私は反対の手を胸に置いて笑いかける。そして私たちは言う。『世界は、思い描いた分だけ広くなる。オトナたちの知ってる全ては、いずれ全てじゃなくなるんだ』


 黒ずんだ手は虚空を彷徨っていた。あとひと踏ん張り、きっかけが足りない。


『精一杯楽しもうよ。あなたたちの最期が、輝かしいものだったって思えるような未来を創るから。それを、私たちの秩序の最初の一歩にする』

『……それは、踏み台という意味で、ですか? 生意気なことを。ならばワタシたちも全力でアナタたちを否定します』

『難しく考えすぎじゃない? それに、顔笑ってるよ』

『幼稚な詭弁ばかり聞かされたからでしょうか。上辺だけで騙すことができなくなってしまったのは、少し悔しいですね』

『もしそんなことされても、私たちは負けないし、全力で楽しんで乗り越えて見せる。本気で私たちを縛りたかったら、空想の限り、思いつくものを全部一つずつ制限するくらいじゃないとね』

『無茶を言う』

『どうかな。その言葉の意味は、これから変えていくよ』


 晴れ上がった空の足元で、からの色をした手と黒い手が固く握られた。

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