第四章 迸り、弾け飛び、溢れ出る、この全能感を——
空はすぐそこにある
1
色彩豊かな光が、暗闇の上に躍動する。
花火が打ち上がり、黒く塗り潰されていた世界にかつての鮮明さが蘇る。ただしそれも瞬きの幻想だ。光の尾に揺らめく残像と軌跡は白く煙り、浮き上がった周囲の輪郭もすぐに闇に溶け込んでしまう。
一発一発は所詮そんなものだった。出だしが最も明るく、放たれると次第に輝きを失う。
それが、十発、二十発と発射され、間を感じさせずに瞬く光はやがて百を下らない数にまで至る。黄色、緑色、茶色、橙色、灰色、そのどれもが自分を一番に主張して低空を駆け上がる。黒ずんだ水面さえも光の躍動を鮮やかに写し取らざるを得なかった。
閃光と爆音の連続。黒い手が花火に気を取られ、あちこちを警戒しているのが面白いほどに分かった。一部は子どもたちを捉えるために動いているようだけど、花火を持って飛び回る彼らはそう簡単に捕まらない。
オトナたちはいつ気付けるだろうか。いつもならあるべき二つの色が欠けていることに。
モリとサキが私を挟んで立っていた。左右に繋いだ手のひらを通じて、二色の波動を空虚の身に感じる。右手からは青く漲る闘志が、左手からは赤く滾る情熱が伝って来た。
三つの意識が重ね合わせになる。悔しさと、やる気と、負けん気と、喜びとが混ざって私のなかで浸透する。どちらも心の底から理解できるし、痛いほど共感できる。今となっては他でもない私の気持ちだ。それでも元の意思だけは決して放すまいと俯瞰する自分がいた。
大丈夫だ。私は私。世界もよく見える。美しい景色をもう一度見るまでは諦められない。
私は
「いくよ」
空想は、見えさえすれば遠くからでも動かすことができる。逆に規則で禁じられたと思い込んだり、今みたいに暗闇で色が隠されていたりするとそれも困難になる。また、紫色の瞬きのように、自分と異なる色の場合ははっきりと見えていても無理らしい。
つまり、あの瞳は紫自身じゃなければ関与できないということだ。基本的には。
私はゆっくりと目を開いた。モリの失意と共に弾けた左目は、サキの花びらで埋めてある。
鋭く切り立った青の瞳と、熾烈に燃え盛る赤の瞳を、空の一点に集中させた。紫色の瞳と視線が交差する。
焦点がぼやけながら、空は紫色の光に覆われていった。実際に光が覆い被さったんじゃなくてあくまで私の視界にそう見えているだけだ。
でも、空想をするのにそれより好都合なことはない。
色が、視界がぐっと引き伸ばされ、遠く、遥か向こうへと意識が拡張する。空虚は私を離れて空想に包まれる。
同調した私たちの意識は一点に収束した。
「——見えた。全部、見下ろしている」
「成功だな」
「なんか変な感じする!」
身体と感覚が分断されたような、いや、事実として分断された違和感が私を襲った。今、私の目は遥か高みから地上を見下ろしている。でもそれと同時に、空の瞳を見上げる私もいる。遠くから自分自身を見ていながら、両手には二色の熱がはっきりと感じられる。
この感覚は、空虚の身を通じて一つになったモリとサキにも循環する。意識の流れが少しでも乱れればこの同調はいつ切れてもおかしくない。そんな緊張感を彼らは背負っている。だから、ここからは私の番だ。
突っ立っているはずなのに身体が浮き上がるようだ。強く握った二つの手が、足を地面に繋ぎ止めてくれる。
そして何よりも近くに見えるのが、回り続ける巨大なベッドメリーだ。地上が暗闇に覆われた原因と思しき物体。これが現れてから空は黒く染まってしまった。
それが、今は言葉通り目の前にある。手を伸ばせば届く距離に。
手の代わりに私は目を閉じた。先ほどまでいた景色の奥行きが、紫色の全景が一瞬で頭のなかに飛び込んでくる。でも狼狽えることはない。この景色一つ一つを、サキは全て焼き付けている。
「うん、忘れないよ」
目の奥が焼き付くような熱を発する。そっと開くと、瞳の底から淡い紫色が溢れた。
あるものは花びら、あるものは葉の形を纏って、暗い空に流れ
花火の弾ける音が響く。楽しそうな声が重なる。空に耳はない。だからそれは地上の音だ。
でも、なぜか聞こえる気がした。滂沱の泪が空を濡らし、じわじわと染み透る音が。口を持たない瞳の最期の叫びが。
ベッドメリーは溶け出すようにして形を崩し始めた。水を含み過ぎた泥のかたまりのように、まずは外側が剥がれ、徐々に内側も硬さを失っていく。ドロリと爛れ落ちる黒色はそのまま眼下の海に呑み込まれる。それが一つ、二つと続き、ついには最後の三つ目まで落ち切った。
黒い泥が海に沈むのを、誰もが息を呑んで見つめていた。そしてその時を待った。
空色の変化は緩やかなものだった。よく見ないと気付けないほどの速度で、でも確実に暗闇が薄まっていく。もちろん地上の景色も徐々に輪郭を現してくる。
色が発露する。
「……
モリが呟いた。いつしか花火の音が止み、騒がしい声も静まった。今ごろ皆もきっと空を見上げているだろう。
そんな静寂の中に泪が降り注ぐ。あちこちに眩しい水たまりができ、受け止めた地面は闇が払われていた。花園が、竹林が、渓流が、草原が、峻嶺が、湿原が、元の色を取り戻す。
一方で浮雲はぐらつきながらもまだ落ちる気配はない。私たちだって、さすがに全てを一気に解決できるとは思っていなかった。
まだまだ本番はこれからだ。次は雲を
『——ルールを、守りましょう』
静寂を破ったのはオトナたちだった。目を輝かせて景色の彩りを眺めるアザヤギたちに向かって、歪んだ意思が白黒の身体を震わせながら走り込む。黒い手も四方から飛来した。
割って入るようにして草木が急速に育ち、防壁を作る。容易く握り潰された。すかさず蔓と茨が伸びて指を絡め取る。押し寄せる手に引き千切られた。
怯むことなく、アザヤギを中心に流砂が舞い上がる。砂は風と共に渦巻いて白黒の足元を固め、黒い手にも纏わりつく。小さな粒を一つ一つ振り払えるはずもなく、物量に押されて黄色い砂団子と化すのにそう時間はかからなかった。
「やった! 空想、ちゃんと出来てる!」
「成功したみたいだな。だったら私たちも攻めるぞ!」
アズキが叫ぶと、皆一斉に飛び上がった。肩で風を切り、薄暗い空を鋭く掻き分けて進む。
狙うは頭上の浮雲。もはや隠されるものもなくなった剥き出しの
地上にはカカギとユキが残っていた。二色は後ろから追ってくるオトナたちを防ぎつつ、飛び上がったアズキたちの方へ手をかざす。
カカギの指先から放たれたかがり火が、浮雲までのまだ暗い空間を照らし出す。次いでその明かり同士を繋ぐ形で灰色の線が引かれた。大きな長方形の中に、いくつもの線が交差した細い空路だ。
やはりというべきか、空中から複数の黒い手が出でてアズキたちに襲い掛かった。
「私たちはあやとりでもしましょうか」
ユキがにこりと笑って手を広げると、指と指の間に紐が引っかかっていた。それは奇しくも浮雲までの道筋と同じ形だ。
「生意気。ユキ、私にあやとりで勝ったことない」
カカギは少し考えて端を指先で外し、両手の位置を何度か入れ替えながら紐を自身の方に引いた。その手の中で糸は絡み合い、小さな三角や四角を複雑に含む模様をなす。
同様に空中の道も形を変えた。最初の構造から、アズキたちが通るだろう道を予測して塞いでいた黒い手は、唐突な変化に対応できない。
「さて、なんのことだか分かりませんね」
「嘘だ。負けて悔しがっているの、表情は隠せていなかった」
「私たちは失敗から学んで成長するのですよ」
「じゃあ、なんでさっきから反応遅くなっているの?」
二色の間で糸が素早く行き来し、指はさらに加速する。ほとんど考える暇もない攻防の中、空路もまた目まぐるしく線を交差させて波打つ。アズキたちはその動きを利用し、跳ね上がったりぶら下がったりしながら器用に進んでいく。
「あいつら、随分とノリノリだな……」
「すごい! 速い! さすがね!」
「ムツリもやりたーい!」
熾烈な争いの傍らで黒い手はまるで付いていけず、縦横無尽な変動を見せる模様に絡み取られるばかりだ。
それを踏み越えてアズキたちは浮雲に進入した。相変わらずふわふわした踏み心地だ。見れば、一度塗り潰した余韻が所々に残っている。マネビによると、黒ずんだ湖がオトナたちにとって大事な場所なのだという。要はそこを壊してしまえば向こうも本性を表さずにいられないということだ。
最初の反抗作戦の時、アズキはオトナたちに逆らう勇気がなかったため参加しなかった。この地面も初めてだ。でも黒ずんだ湖とやらはすぐに目に入って来た。白い地面との対比が歴然としていたのだ。
「これが湖……で、地上に滝を落としてた源泉ってわけか」
アズキが湖の前に立つと、横に並んだアザヤギが水面の方を指差した。
「ちょっと覗き込んでみなよ」
「あ? 中になんかあんのか……ってうわっ、誰だお前⁉」
「あははっ! 自分の
「こ、これが私だと……おい、そんなに笑うことないだろ」
「ごめんって。ついつい——」
「アザヤギ、うしろー!」
音もなく地面が裂けた。叫ぶと共に飛び出したムツリがアザヤギの身体を倒し、背後からの急襲を免れる。二色の身体は柔らかい地面を跳ねて反動で上空に放り出される。
襲い掛かったのは、黒い手だった。ただし、今までの手と一つ異なる点として、それは白い棒状のものを持っていた。
「ムツリ、ありがと! っていうかなにあれ!」
「オトナが空想してるー!」
「えっ?」
上下が翻った空中で、ムツリの言葉にアザヤギは目を凝らす。確かに、黒い手の通った場所に白い線が太々と引かれていた。線は同じ色の地面と繋がり、新たな地形と化している。
「なんか粉っぽいし、色の塗り具合もまだらで雑だ。だが……」
言いながら、飛び上がったアズキの手の甲に白い棒の先端が当たる。茶色の手は白く染まり、空中に縫い付けられていた。ぶらんと身体を揺らしてアズキは舌打ちした。
「……だが、効果は見ての通りだな。そういや、カカギがアクに似たようなもん渡してたっけ」
上から茶色を塗りたくり、難なく脱出する。黒い手の照準が再び向いたのを、アズキは感じ取った。
なるほど、重要な場所に何もないわけがない。これらは障壁だ。
ふわりと着地し、アザヤギとムツリが走り出す。黒い手は一つじゃないのだ。疑似的な空想攻撃を避けつつ、アザヤギは指を折っていた。
「五つ、六つ……七つ! 全部で七つある!」
「ななってどんくらーい?」
「めっちゃ多いっつーこった! 面倒だな!」
アズキが腕を振り、迫っていた手と白い棒をもろとも茶色に染め上げる。でも長くは持たなかった。棒が小刻みに震えたかと思うと、大量の粉を振り撒いて強引に白色を塗り直したのだ。つまり、あれは攻撃と防御を兼ね備えた空想対策ということか。厄介なことこの上ない。
というのも、地上より色が少ない浮雲では、一度に生み出せる空想の量にも限りがある。物量で押されればアズキたちの優位はないも同然だ。
「どうする? ユキ呼ぶ?」
「それしかねぇな。……おい、ムツリはどこ行った?」
「はあ? どこって、さっきからずっと私と一緒に……あっ」
空振った手を見返し、いたはずの色が忽然と消えていることにようやく気付く。
少し前まで手の届く範囲にいた。それは間違いない。でも思い返せば、ムツリがよく音もなく姿を消していたのも事実だ。
さすがに塗り潰されてはいないはず。信頼半分、心配半分の気持ちで辺りを見渡す。
「わーはははは!」
行方はすぐに見つかった。大声を上げながらあちこちを走り回る姿が全て見えていたからだ。ムツリは楽しそうにこちらに向かってくる。
白い棒を両手に持って。
「ちょっと! ムツリあんた何してんの⁉」
「えー? これ、オトナたちが持ってたやつー」
「いや、だからなんで……危ない!」
咄嗟にムツリを抱きかかえて飛び退り、黒い手の襲撃を避ける。それは何も持たず、手のまま突撃してきた。ムツリの手の中にあるものを取ろうとしているようだ。
「ほら! こんなん持ってるから狙われるじゃん!」
「えー? でも、持ってなくてもおてて来てたよー?」
「それは……そうかも。ごめん」
「お前らいい加減にしろ! 来るぞ!」
高く、空気を切り裂く音が鳴り響く。視認するより先に駆け出すと、何かが凄まじい勢いで地面に落ちる音が背後から聞こえた。
抱きかかえられ、アザヤギの肩越しに後ろを覗いたムツリが言う。
「あー、白いの投げてる!」
「くそっ、武器を奪われたからってやけくそかよ!」
言っている最中にも、追い詰めるように次々と炸裂音が響いては両脇を抜けていく。ムツリの報告を頼りにアザヤギは前だけ見て走った。
浮雲はそう広くない。すでに端が見えていた。このまま行けば落ちてしまうし、空想で飛ぶにしても、追跡から逃れないことにはどうせキリがない。
「ああもうっ!」
アザヤギは地面を斜めに蹴り付け、端で立ち止まると体勢を翻した。眼前に迫る白い棒。ムツリとアズキを背後に庇いつつ、大きく口を開ける。
「ら~」
発された声——いや、音というべきか。それは鼓膜を揺るがし、腹の奥底に微かな振動を感じさせた。壁を張ろうと手を掲げたアズキの目の前で、白い棒が音の波に形を剥がされる。勢いは目に見えて弱くなり、ついには細かい粉状へと分解されて傍をすり抜けていった。浮雲から落ちた粉が戻って来る気配はない。
「でかした!」
「すごいすごーい! ムツリもやるー!」
ムツリが手に持った棒を緑色に染め、「わー!」と思い切り叫んだ。どう見ても声じゃなくて空想によるものだったけど、棒は粉々に砕け、前方にふわりと飛んでいく。緑色の粉塵が大量に付着した手が制御を失ったように地に落ちた。見栄えはどうであれ成功だ。
「さっさと湖に行くぞ!」
ムツリを抱きかかえたまま二色が走る。素早くほとりに到着し、アズキは右手を地面に突き立てた。
茶色の空想が浸透する。深く、細かく、枝分かれしながら根を張る。地上にいるユキからはそろそろ見えてきたはずだ。浮雲から逆さに幹と枝を伸ばした大樹の先端が。
「——ええ、立派ですね」
聞こえるはずのない声を聞いた。ほどなくして、ばさばさと乾いた音が風に乗って折り重なる。次いで湖の水面が泡立ち、足場が揺らぐ。
劇的な変化はなかった。でも確かな手応えはあった。
「よし。私の大樹とユキの付けた葉が、湖の水を下から吸い取って巨大化する。地面よりでかい木がぶら下がれば、さすがにこの浮雲も落ちるだろ。あとは待つだけだ。できれば地上に降りたかったが……」
「待ち時間は、オトナたちが相手してくれるってさ」
黒い手が再び行く手を遮る。懲りないものだ。ただ、ムツリのかく乱の成果か、七つとももう白い棒を持ってはいなかった。代わりに白い粉を手のひらに塗り付けている。
「やっと気付いたのか? 道具なんか使うより、自分の手で塗った方が早いし利用もされないって」
「それ、アクには言わないでよね」
「だからだよ」
オトナたちの手が動く。
サキは上半身を屈め、脚を伸ばす。アズキは手で身体を支え、反動で身を翻す。押し潰しに切り替わった攻撃は絶え間なく浴びせられ、反撃を許容しない。
視覚的な状況の把握と思考的な余裕がなければ、精密な空想は意外と難しいのだ。その点でいえばサキやモリ、ユキ辺りは意味がわからないくらいに色の扱いが上手い。生憎とここにいる色々の得意分野じゃなかった。
「隙を見て離脱する! てか、したい!」
「隙がないんだけど!」
「一か八か、直接受け止めてどっちの色が強いか真っ向勝負でもするか?」
「本気で言ってる⁉ ここ、相手の土俵だよ!」
「じゃあムツリがやるー!」
「「——私がやる‼」」
アザヤギが、黄色く厚塗りした手のひらで迫り来る手を一つ一つ打ち返していく。黒い手が襲い掛かる度に、まるで誤って素手を岩に打ち付けたかのような音が連続し、それを上書きする声量でアザヤギは声を張り上げた。声は色を纏う。
「せっせっせーの!」
「はないちもんめ‼」
直後、背中に迫っていた手をアズキが力強く蹴り上げた。完全に同時に弾かれ、オトナたちの猛攻に穴が生まれる。
アザヤギとアズキはムツリの手を取り、浮雲から走って飛び降りた。とてつもない圧力の風が
「——来た! あそこだ!」
やや明るみを帯びてきたまだ暗い空に、三つの色が瞬く。それをアクは見ていた。
ユキの指が滑らかに弧を描く。複雑怪奇な灰色の網目が落下の衝撃を吸収し、三色の身体を高く跳ね上げる。二度目に落ちた時、道は傾いていた。坂道を滑り落ち、勢いのまま地上に飛び込んだアザヤギをサキが全身で受け止める。
「やったー!」
「アザヤギ、ムツリ、アズキ、良かったよ! もちろんユキとカカギもね!」
空の瞳との同化を解いた私たちはユキ、カカギ、マネビと合流し、アザヤギたちの到着をここで待っていた。
今のところは全て作戦通りだ。笑ってしまうほどに上手く事が進んでいる。
皆、笑顔と自信に満ち溢れた
風が額を触った。湖を吸い上げて尋常じゃない大きさにまで育った大樹が、浮雲を空高くから引きずり下ろす。海辺の空気が圧迫され、水面に崩落を映す。
空を彩るものは、紫色の瞬きが唯一となった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます