再起と覚悟
9
景色の奥行きにも果てがあります。
意識の裏に思い描いた景色は明確な輪郭を持たず、ある程度中心部から遠ざかるとあやふやな場所が出始めます。空間としての体をなさないあいまいさが視覚的に棚引いているので分かりやすいです。
そこに目印が一つありました。短い間隔を置いて並んだ花の列です。赤く地面を染め上げるその強かな色彩は、まるで足跡のように残されていました。いえ、事実として足跡なのでしょう。
思い返せば花は至る所で見ることができました。これよりはずっと希釈されて小さい咲き具合でしたが、ここに来るまでの間、視界から花がなくなったことなどありません。意識しなければ気付けず、仮に気付いてもその意図にはほとんど達せないくらいの存在感です。
「ここにいたのですね」
輪郭も薄まり、ほとんど白黒に近い景色の果てに、これでもかと鮮烈な赤を以て鎮座する鳥居がありました。そこにいるだけで周囲を赤く染めるような、異様な重量感と威圧感を放っています。ずっと見ていたら目が焼けてしまいそうです。
そして、その奥に赤い花が咲いていました。メラメラと花びらを揺らめかせ、火花を放つ後ろ姿に、そっと話しかけても返事は来ません。
近くの岩に座って待っていると、赤い花が立ち上がる気配がしました。途端に張り詰めた空気は解放され、熱気が散り散りに滲んでいきます。花が口を開けました。
「あれ、ユキ?」
「はい。私ですよ、サキ」
頬を火照らせて熱っぽい息を吐くサキは、一直線にこちらを見つめて動きません。
じりじりと意識を焼かれる感覚に耐えかねて私の方から質問を投げかけます。
「何を、されていたのですか?」
何よりも目を引くのは、四角い瞳に縁取られた、その獰猛な絶佳。燃え盛らんばかりの深紅の景色の深みを、私は測り知ることができません。
「見て、目に刻んでたんだ、全部」
赤い花は笑います。
「……本当に、この景色を、全て?」
「うん。だって、約束したから」
あいまいな景色のなかで、それだけが鋭く己の輪郭を切り取って佇んでいました。おそらく誰もそれを乱すことなどできず、また独りでに乱れることもないのでしょう。
だからこそ、紫の子は身勝手に頼ったのです。滑稽な空想が全て真になることを知っていたから。
しかし、知っていることと信じることの間には天と地ほどの距離があります。
「皆は、大丈夫?」
「躓くようなものはもう何も。あとは、それぞれの道を征くだけです」
「そっか。よかった」
それだけ聞いて、サキは背を向けました。思い切り腕を広げ、空気を吸い込みます。
「すぅー……ふー……よし!」かと思えばがばっと振り向いて駆け寄って来ました。「時間ある? ちょっと散歩しましょ」
私が承諾すると、サキは嬉しそうに頷きました。
一緒に並んで鳥居を出ます。
私の辿って来た花の列が外から繋がっているのをサキが一瞥します。
「あ、そっか。跡が残ってたんだ」
「……気付いていなかったのですか?」
「うん。
てっきり意図したものかと思っていましたが、予想が外れたようです。良い意味で、この子には定石といったものが通じないのかもしれません。
「そういえば、ユキは今までどうしてたの?」
「独りでこもって考え事をしていました。迷惑をかけるわけにはいかないので」
「オトナになりたいってやつ? あれって、どういうこと? オトナってあの白黒のことだよね?」
「さて、なんでしょうか……サキは、どう思いますか?」
「う~ん……そうだなぁ」
答えをはぐらかすような返事に、サキは真剣な顔で考えてくれました。この子がどのような答えを出すのかは私も気になるところでした。
「あっ、オトナが未知の存在だから!」
「私は幼い頃の記憶を持っているので、オトナについてはそれなりに知っているつもりです」
「えっ、そうなの? じゃあ、オトナが好きだから?」
「好き、とは思っていません。彼らはそれほど立派な存在ではないので」
「うむむ……オトナになって、やりたいことがある、とか?」
「やりたいことですか。やりたいこと……ああ、それは……なるほど」
「やった、正解だ!」
「違います」
「えーっ⁉」
大げさな反応でがっかりした感じを全身で表すサキに、私は苦笑します。今の話を聞いて得るものがありました。いえ、見方によっては失ったもの……言葉の綾ですね。
むしろ、どうして今までわからなかったのか甚だ疑問に思えてなりません。
自分の情けない正体に気付いて、内心失望しました。
私は半端モノ。夢を抱くには多くを知り過ぎていて、現実を見るにはあまりにも公界知らずの存在だったみたいです。
「ユキ、大丈夫?」
「……ええ。あなたのおかげで答えに辿り着けました。ありがとうございます」
「え? 私はわからないのに? すごい!」
サキがそれ以上の詮索をしてくることはありませんでした。
しばらくは景色の変わらない場所を歩きました。特に話すこともなく、余韻を楽しむような心地好い沈黙の時間でした。
なだらかな坂を下り、渓流に挟まれた枝道へ。紫色の大樹が見え始めました。きっと皆あそこで顔を合わせるでしょう。散策もそろそろ終わりです。
細い足場を両腕で均衡を保ちながら進むサキの背には不思議と郷愁を覚えました。このような場面は見た記憶がないのですが……いえ、そういうことではないですね。
この子の在り方が、私が最後に見た時から何も変わっていないだけなのです。
時間は変化をもたらします。未来への道は一方通行で、時には新しい道を見つけたり方向を見失って迷ったりもします。そこから進むにしろ回り込むにしろ、今いる位置を自覚し、進路を決めることが成長だと私は思っています。
しかしこの子はどうやら違うみたいです。知らない道に迷い込もうものなら、飛び越えたり突き破ったり、ともすれば他の道にいる色に話しかけてでも進み切ってしまうのです。驚異的な可塑性。柔軟な対応力。どのような絶望が降りかかろうと、きっと振り切った後にこう言うのでしょう。
「——あー、楽しかった。もう終わりかぁ」
大樹への丘に立ち、サキは満面の笑みを浮かべます。
空想を制限され、地上に放り出され、仲間を失っても、なお。その全てを推進力にして未知の先へと突き進むのです。
「羨ましいです。私の征くべき道は、すでに全部見えてしまっているので」
それは、とても退屈で意外性のない景色でした。
「見えてるのって、ダメなこと?」
「そこ、踏むと崩れますよ」
「え——きゃっ⁉」
水を吸って柔らかくなった土を踏み抜き、サキが勢いよく滑り落ちました。渓流に半身を突っ込んで項垂れる姿は萎れた植物のようです。
しかしすぐに立ち上がり、苦笑いをしながら踏んだ箇所を乾いた土で固めました。直接踏んで確認までし終えてから移動を再開します。少ししてサキが不意に振り返ります。
「よくわかんないけど、ユキがいてくれて良かったって私は思うよ」
「え?」
「だって、先がぜーんぶ見えてるなら、思いっ切り走り回ったり途中で寝転んだりする余裕があるんだよ。他の子の前に石があったら教えれるし、段差を一緒に飛び越えることもできる。実際にそうやって私たちをここまで導いてくれたんでしょ? ユキはそういうの、イヤ?」
「……いえ」
「ほら、なら最高じゃん!」
先ほどの会話を思い出して、私は目を伏せました。
正直なところ、胸に刺さるものがありました。私にはやりたいことというものがないような気がしたのです。空想にこだわりを持っているわけでもなければ、最終的に成し遂げたいと願うことがあるわけでもありません。
ただただ、独りになることを目的としてきました。望んだ景色へ近付くのではなく、望まない景色から逃げ続けていたのです。
私は知ったかぶりをしていただけの馬鹿に違いありません。
「最初から皆と一緒に、地に足を付けて歩くべきでしたね」
「ん? なんか言った?」
「前に穴がありますよ」
「え、うそ⁉ ……あれ、どこ? どこ⁉ 全然見えないよ!」
「はい、嘘です。実はオトナになりたいという言葉も……ふふっ」
サキが信じられないものを見る目で私を見つめます。そこには身を焼くような熱さも、優しさを湛えた淡い光もありませんでした。
それでも、私は目を逸らしました。どちらかというと吊り上がった口の端を隠すためですが。
「あー! いや、ちょ……は、はぁぁ~! まさかユキがそんな……へ~、ふ~ん? そういうことするんだ? あっそう? へー……と、今だ!」
呆れているような感心しているような雑音を立てていたサキが急に私の足元を指差しました。土から伸びて足首に絡み付こうとする蔓は、それほど速くもありません。視認してからでも簡単に避けることができます。
「わぶっ」
「ふふん、仕返しだ!」
盛大に顔から転んだせいで、土が口に入ってしまいました。じゃりじゃりと歯に擦れる感触は気持ち悪くてすぐに吐き出したくなります。
「あっ、ごめん……大丈夫?」
傍の水で口をすすいでから、水面に映る自分の
私は立ち上がりました。頬の跡を見てびくっと怯えるサキの顔を覗き込みます。
なるほど。確かに、これはなかなか。
「……色々なことが、あったのですね」
「へ?」
「別に怒っていませんよ。さあ、行きましょう。皆すでに集まっています」
「う、うん……ほんとに? 油断させてー、みたいなのじゃなくて? ほんとのほんと?」
「はい、本当です」
「ていうか、ユキも一緒に来てくれるの? またどっか行っちゃうのかと思ってた」
「ええ。まさにそのつもりだったのですが、たった今、気が変わりました。あなたのおかげですよ」
訝しむサキの背中を押して、皆の集まる大樹の下へと向かった。
10
「えーと、いったん状況を整理しよっか」
どこかで聞いたことのある言葉とどこかで見たことのある状況の中、サキが手と火花を打ち合わせた。サキを中心に、私、モリ、アザヤギ、ムツリ、アズキ、カカギ、ユキ、そしてマネビ——白黒だと味気ないという理由でサキたちが付けた名前だ——が顔を見合わせる形で大樹の前に座っている。
「まずは、ハヒのこと。ここがハヒの
ガヤガヤと騒いでいた空気が一瞬で静まった。悲しみに暮れているわけではない。覚悟を決めた表情をしている。私は自分とモリのことで手一杯だったけど、皆はそれぞれの方法で現実を受け止め、乗り越える術を見つけたらしい。
「お互い色々あったし、集まってから大体の事情は話し合ったけど……やることはまだ残ってる。そうだよね、アク?」
「うん」サキの問いを引き継ぎ、私は立ち上がった。「今の私たちは、ハヒのおかげでオトナたちから逃れられているだけ。外に出ればまたさっきと同じことになる。だから、今度こそ空の闇を晴らそう」
そう、時間はあくまで止まっているに過ぎない。オトナたちの脅威は依然として迫っていて、今回で確実に対処する必要がある。前みたいに遊び半分で花火を一発打ち上げる、なんて余裕などないのだ。
今度こそ、全力で遊びを遂行しなければならない。
明確な返事はなかったけど、それが無視ではないことを私は知っている。無言もまた言葉の一つだ。私たちの意思は、今この瞬間、紫色を通して一つに纏まっている。
以前に比べれば見た目も随分と変わったものだ。当然、見えない部分もそうだろう。
「やってやろうじゃない! でも問題は、具体的にはどうすんのって話よね」
「花火をもっといーっぱい作るのはー?」
「もう一度火山を建て直して、最低でも三発打ち上げるのは……さすがにオトナたちも黙って見ていないと思うぞ」
「だろうな。でもユキならいけんじゃねぇのか?」
ユキの傍にくっついたままアズキが言う。反対側ではカカギが強く腕を抱き寄せていた。
「オトナたちも馬鹿ではありません。きっと優先して私を狙ってくるでしょう。それに、外は完全に向こうの領域ですよ。警戒されている今、全員が同時に攻められでもしたら準備以前の問題です。ここを出てすぐに直接的な手段を取るべきだと私は思います」
「でも、ユキの空想が手助けになるのは事実。それなりに大胆な出方が出来るはず」
「邪魔するみたいでごめん、そもそもの話なんだけど……オトナたちが暗闇の規則を一回しか呼び寄せれないって決まったわけじゃないわよね? 暗闇をどう壊すかより、暗闇の中でどう動くかを考えた方がよかったりしない?」
「いえ、あの夜をもう一度呼び寄せるにはオトナたちもかなりの力を消耗すると思います」この場では、もともとオトナ側だったマネビの意見はかなり貴重だ。「あれはおそらく、最初の命令による規則が通じなくなって、力業で無理やり色を見えなくしたのでしょう。空想の真似事とはいえ、黒色を大量に用いるのですから」
「じゃあ、すぐには戻せないってことだ」
一度きりの機会、やり直しはない。そう思って慎重に作戦を練ろうとするあまり、良い案がなかなか出てこなかった。かといって、いつまでもここに留まっているわけにもいかない。
そんな中で、サキが指を一つ立てた。
「皆、花火は好き?」
「一番はすでに決まってしまいましたが、好きですよ」
「私も好きだけど……ハヒがあんなことになっちゃって、ちょっと複雑な感じ。それに、どうせ花火を打ち上げる時間はないでしょ」
「でもさ、花火を囮に使うのはどう?」立てた指から火花がぱちっと散る。「さっきユキが言ってたよね。オトナたちも警戒してるって。ユキの空想もそうだろうけど、花火にだって警戒してるはず。だから、まずはちっちゃい花火で注意を引くの」
「そういうことか。確かに悪くないかもな」
「でしょ? で、花火に食いつかせてから、さらにオトナたちを驚かせるようなことをしたいんだけど……」
言いながらちらと周囲を見渡す。次の工程までは考えていなかったみたいだ。
それに応じたのは、なんとマネビだった。
「それなら、空を叩くのは、どうですか」
「空を叩く?」
「空に浮かぶ、浮雲は知っていますでしょう。あれはオトナたちの足場です。あそこを崩せば、大きな打撃になります」
「あー、あの白い地面のことだな。そういやお前はあそこから追い出されたんだったか」
「はい。ただ、そうすればいよいよ全面対決になることは間違いないです。互いの主張のぶつけ合いになると思います」
「なんだ、じゃあ大丈夫だね」
サキの言葉に、マネビが目を大きく開けた。
「やっぱり、結局そうなるのよね」
「アザヤギは、不安?」
「ううん。むしろ今は発散したい気分なんだよね。うずうずしてた」
「ムツリもー! どっかーんってやりたい!」
サキが笑い、周囲を見渡す。皆頷きを返した。
方針というのも馬鹿馬鹿しい方向性が決まり、あるいは思い出して話が進む。
「じゃあとにかく暴れまわるってこと? 具体性の欠片もないじゃん」
「いつもどおりだねー」
「前は箱庭の中で塗ったものを解体して使ったけど、今回は地上にあるもの全部使えるんだよね」
「でも暗闇のせいでよく見えないから、まずは空を晴らしてからじゃないかな」
「いいな。空が晴れたら、皆で花火よりでけぇもん作ってぶちかましてやろうぜ」
「出来るだけ準備をしておくに越したことはないだろう。……それについて、私から一つ提案がある」
おそるおそるといった素振りでモリが手を挙げる。それから自身の計画とやらを語り出した。
モリが少し前まで自信をなくしていたことは、事前の話し合いを通して皆知っている。私とマネビの元気付けがあったとはいえ、長く苛まれてきた心の傷が完全に治り切ったわけではない。この面子の中で、明らかにモリだけ調子が悪そうだった。
声に覇気がないことも理解しているし、あまり意見を押してこないことにも気付いていた。その上で皆は黙ってモリの話を聞いた。
「——と、いう感じなんだが……」
おおかた話し終え、周囲の様子を窺うモリの目は弱々しい。否定されることを恐れながらも、そうなるだろうと自分で分かっている目だ。
それを見ていたユキが一言。
「素晴らしい案だと思います。ただし……」
「……っ」
「それを作戦として実行するには、相応の精密さが要求されますよ。もちろん失敗すればその代償も。あなたは、その責任を負えるのですか?」
モリの目が沈む。助けを求めるように、こちらを見やる。
その姿は以前の——オトナという存在を知る前の、自信家だった頃の青を思い起こさせた。
……違う。思い起こさせたのではなく、私自ら思い起こしたのだ。昔と今の姿を比べて、重ねた。私が空想したのは、自信満々な顔で期待に応えてくれる凛とした姿だ。こんなものではないだろう。
だから、私は見下ろしたまま静かに笑った。
青は目を見開き、口を開け、歯を食いしばり、そして目を閉じた。
「案自体は賛成です。ですがもしあなたに無理なようでしたら——」
「——私が、やる」
次に色を見せた瞳には、青々とした悔しさとやる気が宿っていた。
二つの姿が、完全に重なる。
「私なら出来る。だからやらせてほしい。失敗は、しない」
反対の意見は誰も出さなかった。
全員で丸く並んで中心に手を合わせる。あらゆる色の温もりが伝わって来る。
「私たちは、オトナの規則を打ち破って自由になる。そして、未知を切り拓く!
やることは何も変わらない。あの時と同じだよ。とにかく好きに遊んで遊びまくるんだ。飽きるまで、満ち足りるまで、空想で世界を塗り潰そう。……ここにいる皆で!」
「「「おー‼」」」
私たちは、まだ見えない空に向かって叫んだ。
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