無色永久
洞窟の外は相変わらず暗い。真っ黒に塗られた空の下に色の区分はなく、あらゆる地形が闇に溶けて一体となっている。巨大な物体も、時間の変化をまるで感じさせない動きでゆっくりと回り続けている。
オトナの姿は海のほとりにうっすらと見えた。凪と静まり返った水面を眺めながら、己もじっと動かずに立っている。いや、立っていると言っていいのだろうか。その輪郭はとてもあいまいで、足が溶けて浮いているように見える。
岩陰から顔だけ覗かせてオトナを探索する。いや、観察する。外見、仕草、言葉、表情、とにかく様々な要素を見極めようと必死に見つめるけど、一向に変化は訪れない。
オトナの持つ言語はあまりにも少なかった。茫とした佇まいは見るものに何も教えてくれない。時間が深い水底に淀み、感覚すらも言葉を忘れてなくなりかけていた。
あのしゃがれた声でしか、意図を知るすべはないのだろうか。一縷の可能性に賭けて対話を試みるべきかと悩み始めた時、ようやくそれはやって来た。
影が動く。オトナの頭が傾いた。どこかへ視線を移したのだ。
「おい……
青の声が耳元に囁かれる。聞くまでもなく、私はオトナの横顔を凝視していた。あるはずのない、
その目と鼻と耳と口は、水面と同じく固まって微動だにしない。
無色永久。
色を模倣し、しかし色を持たない空虚の存在。私と決定的に異なる在り様の片鱗をそこに見出せる気がした。
「いや、それよりもあっち! 誰かいるじゃない! わっぷ……ごめん」
慌てて口を押さえる黄だが、オトナがこちらに気付いた素振りはない。ただし、その視線を辿った先に何か闇を駆け抜ける気配があるのは事実だった。この濃密に漂う闇にも解かされず目視が叶ったのは、それが色を発露する特異存在だったからに他ならない。というのも、その色には見覚えがあった。
「茶と橙だ。オトナから逃げてる」
「オトナならあそこにって……え、オトナが二つ?」
ここからはかなり離れた海の畔に、逃げるように走る茶と橙、そして追いかけるオトナの姿形が見える。今しがた頭を動かしたオトナとは別だ。赤の言う通り、二つある。
このような事態は想定していなかった。黙って納得いくまで探索する、空想を投げる、私たちの姿を見せる、対話を試みる、物体もろとももう一度色を塗り潰す——事前の作戦が全て霧散しかける。どれもこの状況では不適切だ。
茶と橙の足取りは安定していない。空想が制限された環境であの追っ手を振り払うのは困難だろう。
「助けないと」
紫が立ち上がった。助けるという言葉は私の心を揺るがし、強く打ち付けた。
「そうだね。助けよう、私たちで」
折り畳まれた空想を開いて上体に羽織る。赤色の外套は鬼ごっこに強い衣装だ。これで私も皆の役にきっと立てる。
隠す気がない外套の翻る音を聞かれたのか、オトナがこちらを認識した。枠のない瞳が闇の中でなお空虚に窪んで見える。
「第二回新生鬼ごっこだ! 茶と橙を解放するぞー!」
「おー!」
「あ、そゆこと? なら私と赤が最強じゃん!」
「黄。今は逃げる側だから、立場逆だよ」
「ふっ……」
「ちょっと勘違いしただけでしょ⁉ そこ、笑うなぁ!」
全員で騒がしく飛び出し、暗闇のなかに身を投じる。視界の利かないこの場所では、互いの色だけが目印だ。少しずつ距離を空けて岩場を駆けていく。
虚空からオトナの手が浮かび上がってくる。この前のように巨大な一本の手が追いかけるのではなく、無数の小さい腕が伸びて絡め取ろうとする。場所や角度が自由自在な点を見るに、一帯に立ち込める暗闇、その全部が手の届く範囲なのだろうか。
「触れるのと捕まるのは別だよね!」
迫り来た手を、赤は火花を纏った手のひらで叩き返す。そのたびに赤い閃光が弾けて周囲を照らす。
「うーん、直接見られてるとさっきより空想しづらいね」
口ではそう言いながら、避けることも速度を緩めることもなく突き進んでいくので、オトナの手は赤の残像を掻き乱すことしかできない。赤の後ろを付いていくのがよさそうだ。
「「あっ」」
どうやら黄も同じことを考えていたようで、肩がぶつかった。姿勢が崩れ、黄が転びかける。下から伸びる手は眼前まで迫っていた。
「——っ、なんの!」
咄嗟に赤い外套を掴んで振り下ろす。ばさりと広がった赤い生地が私と黄を暗闇から完全に遮断し、それが消えると身体は別の場所にあった。
「あれっ、空虚に黄まで! おっとと」
赤い火花から現れた私たちを両腕で受け止めた赤が驚きの声を漏らす。なるほど。赤色に紛れて別の赤色と場所を行き来できるのか。確かに鬼ごっこにつよ……いや、これは赤が鬼だったら一瞬で捕まるのでは?
邪悪な詐欺の手口はさておき、逃げることには成功した。茶と橙もすぐそこにいる。合流はできそうだ。
問題は、合流してからの逃げ道だろう。暗闇がどこまで続いているのかわからない以上、闇雲に逃げ回るのは得策じゃない。加えて数が多いと統率も難しくなる。そういえば事前に話し合ったのはオトナへの対応ばかりで、肝心の鬼ごっこに関しては行き当たりばったりの決断だった。だったらなぜ無策に飛び出したのか?
それがわかれば苦労はしない。
「よい、しょっ!」
赤の腕から降りた黄は息を吸い込んだ。直後の掛け声が地面を揺るがし、大量の砂を一斉に巻き上げる。砂は相手の視界を遮るだけでなく、迫る手の形を浮き彫りにして見やすくもしてくれる。
見れば空間が小刻みに揺れている。中心を走る黄の衣装には小さな穴がいくつも空いていて、そこから微弱な音が出ていた。音に合わせて砂が踊る。
そうか。発声器官としての口を増やしたのだ。なるほど確かに、
「ら~ららら~」
黄色い声は幾重にも反響して分厚く砂の膜を張る。それが視覚的にも聴覚的にも目立ったのか、茶と橙がこちらに気付いた。
「えっ⁉ なんでここに⁉」
「すごい……空想も使えるなんて」
「そんなこといいから早く逃げるわよ!」
二色を素早く取り込み、畔を走り抜ける。
「逃げるって、どこに?」
「えーと……どこだろうね……?」
「ないのに来たのかよ⁉」
そこを突かれては返す言葉もない。黄が目を逸らすと、茶は顔をしかめた。以前と比べて音声言語も表情言語も表現が格段に良くなっている。
「……なら私の
「え?」
「行くアテ、ないんだろ?」茶が不敵に口角を上げる。「もう少し行ったところにプラットフォームがあるんだ。そこから基地に向かえば、オトナたちは追ってこれないさ」
「へー、隠れ家みたいな?」
「んあ? 隠れ家?」
「私もあるんだ、身を隠す場所。まあ、自分でもよくわかってないんだけど。……あれ、これもしかして私たちが助けられてる?」
「そうだよ! なんも考えないで突っ込んでくる方がおかしいっつーの」
「えへへ」
どうしてここで笑うのか、と呆れた
何度か手に触れられそうになったり石に躓いたりしながらも、なんとか砂浜を抜けて山林地帯に来た。樹木がかなり狭い間隔で立ち並んでいて、身を隠すには好都合な場所だ。オトナたちの追跡も若干だが緩くなる。
「あの岩角を右に曲がるぞ!」
「待って! まだ後ろに青と紫と緑が!」
「はぁ⁉ マジでなにしに来たんだよ! とりあえず進め!」
茶の言う通りに進むと、大樹が見えた。枝が根のように突き刺さり、やや不安定に傾いている。最初に茶を発見した時のあの大樹だ。
茶は先に行けと残して枝から幹へとよじ登っていった。私たちはでかでかと口を開けた樹洞の奥に訳もわからず入り込む。内部は空想の落書きが多く刻まれていて思っていたより明るい。
「ここで待つ。真ん中は危ないから足元の線より後ろに下がって」
橙が細い声音で言った。ほどなくして青たちの姿が森の中に見えた。
橙が天井からぶら下がったものに手をかざす。中がくり抜かれた丸く小さい木の実だ。薄い皮越しにふわりと灯った燐光が周囲をわずかに照らす。
「アズキ、今!」
「おうよ!」
合図と同時に力強い声が降りかかり、キーンコーンカーンコーンと硬いものを打ち付けた音が反響した。
青たちが合流する。飛び降りてきた茶は急いで全員を線の外に引かせた。
「すぐに来るぞ、目ぇ開けてよく見ろよ! 置いてかれても知らないからな!」
樹洞全体が音に満ちて振動する。身体が異様な空気に包まれている気がした。なにか崩れ落ちでもするのか、と思った直後にそれはやって来た。
巨大な物体だ。丸太だろうか。私たちが通った入り口の先から、こちらへ向かって空気を押し出しながら突っ込んでくるものが二つと反対側からも同様に二つ。どちらかというと落ちてくると言った方が正しいかもしれない。それぞれ別の高さで吊るされているのか、その軌道は大小様々な放物線を描いている。
黒い手が追い付くより早く、丸太は物凄い速度で目の前を通り過ぎ、突風が顔を強く叩く。草いきれが香る。四つの回転する丸太が一つの大きな円型の残像を残し、その側面に一つの模様がうっすらと表れるのを、風に潰されそうな目を必死に開けて見つめた。
すぼめられた視界に浮かび上がったのは、奇怪な形の大樹だった。
いや、違う。向かい合った二つの木が、間の空洞を包み込む形で互いに枝先をくっつけているのだ。格子状に繋がった枝は上の段に行くほど短い。そして頂は両方の葉が一緒くたになって楕円形の樹冠をなしている。中央に空いた三つの穴はなぜか
風が止み、まともに目を開けられるようになる。見ていた模様はいつしか現実の風景と化し、視線を動かせば拡張した部分が目に飛び込んできた。
そこは樹洞だった。丸太の側面に浮かんだ模様がそのまま景色として丸い窓に収まっている。明らかに先ほどまでいた場所とは違う。赤の隠れ家と同じだ。
「はんっ、ここが私の
幻覚を見ているような気分で外に出ると、乾いた風が私たちを迎えてくれた。一面を埋め尽くす岩石、断崖、山脈。無骨で彩りのない峡谷が広がっている。
「うわー、広……てかなんもないじゃん」
「なんもないって言うな! 基地なんだって!」
「なにか考えがあると思って空虚たちに付いてきたはいいが……なんだここは? ずいぶんと荒れているな。赤の隠れ家みたいなものか?」
「いやだから基地だっつってんだろ! 私の
各々が不思議そうに、あるいは退屈そうに風景を眺めている。いるのはいつもの色々と茶、そして橙だけ。オトナの姿も、手も来ない。
「ったく、これだから先輩たちはよぉ……だーれも私のセンスをわかっちゃくれねぇ」
「アズキ。あなたの独特なもうそ……空想は唯一無二。私にも理解できない」
「こいつら、言わせておけば……」
ぷるぷると握り拳を震わせながら、睨み付ける茶。そこに歩み寄ったのはパチパチと毛先に火花を散らす赤だ。
「そういえば、こうしてまともに話すの初めてだね。言葉も上達してるし、元気そうでよかった」
「……ああ、確かにそうだったな。私はアズキ。よろしく頼むぜ」
「……?」
「ああ? んだよ」
「アズキって?」
「名前だよ。私の。そう言っただろ……名前、ないのか?」
「私は赤だよ?」
「そうじゃなくて、コードネームだよ!」
知らない言葉が何度も出てくる。元から造語をよく使っていたせいで時々何を言っているのかわからないことが多々あったが、またその名付け癖が出ているのだろうか。
「アズキ……って茶のこと? なんで別の呼び方?」
「なんでって……そりゃ、カッコイイからに決まってんだろ。オトナたちは知らない
ぐっと力説する茶を、橙が生暖かい目で見つめる。その眼差しには慈悲深い愛情が宿っていた。
「今までは私とアズキしかいなかったから、寂しかったんだと思うの。よかったら相手してあげて」
「ざけんな!」
その後も散々からかって遊んだ挙句、怒ったアズキが独りで基地の奥に行ってしまったため、私たちは橙に案内されて荒野を歩いていた。
周りには植物らしき色が全くない。最初に見た二つの向かい合った木以外は、どれも荒廃した環境によく似合う地味なものばかりだ。その反動なのか、地形そのものは変化に富んでいて特に縦方向の起伏が激しい。複数の台地がこれでもかと乱雑に隆起して背比べをしていたり、岩肌を露わにした山々が天を摩する勢いでそびえ立っていたりと、かなり凸凹した輪郭だ。
「私とアズキは、ユキを探していた」
「ユキ?」
「灰色の子だ」
横に並んで歩く橙——カカギはそっけない口調で今に至るまでの事情を話してくれた。箱庭の崩落後、私たちとは離れた場所に着地したカカギたちは、しばらく辺りを探し回ったという。
当時の私たちはすでに探検と称してあちこちを歩き回っていた。箱庭から落ちて山のように乱立した空想の地形やものの中で、目印もなしに出会うのは不可能に近かったはずだ。
「どこに行くべきか迷っていた時、あの子は一言だけ残して姿を消した。『私はオトナになりたい』。ちなみにユキはあの子が去ったあとに付けたものだから、あの子自身は名前を持っていない」
生憎と、ユキの失踪そのものがカカギとアズキに新たな目的を授けたのだ。そうしてユキのあとを追っていたところを、私たちが発見したというわけらしい。
「しかし、ユキの空想は私たちよりはるかに上を行っていた。この
「あっ、実は私も聞きたかったんだよね。私の隠れ家もそうだけど、この
赤の疑問に、カカギはちらと一瞥してから口を開けた。
「仕組みも知らずに入ったのなら、ユキとは正反対の……感覚派か。ではまず、オトナたちについて話そう。もっとも、これはユキの持論をそのまま聞いて覚えたものだが……」
カカギは立ち止まり、姿勢を正した。その
それを確認し、カカギが虚空に描いたのは、雄大な山を背景に草原が広がっている一枚の風景画だった。見ていて空気の爽やかさが伝わってくる良い色合いだ。そして、所々の色を区切るように配置された木と川が、全体に立体感を与えている。
「オトナたちは全てを知っている。彼らにとって、世界は横並びに繋がった一つの景色らしい」言いながら、似た風景の絵が二つ追加された。一つは川が流れる前の過去の絵、一つは木から葉が落ちた未来の絵だ。「川がなぜ流れているのか、枝に付いた葉がいつどこに落ちるのか、過去と未来、その全景が等しく見える」
落ち着いた声が荒野に響く。紫のお団子頭が揺れた。
「一方で私たちは、この景色がどう形成されたのか、これからどう変わっていくのか、正確にはわからない。予測や想起は出来るがすぐ間違えるし勘違いだってする。それでも、山がそびえ立つ崇高な印象や木が根付く力強さ、草が揺れる時の心地好さ、川が流れる音の涼しさを知っている。私たちはこの瞬間の今という世界を実感していて、その奥行きのなかにいる」
「オトナはここに入って来られないの?」
「オトナたちは空想を、今の感覚を知らない。なぜなら一度も足を動かさず、上空から全てを見下ろして満足しているからだ」
言い放たれた真実のような内容は、正直よくわからなかった。自力で隠れ家を発見した赤も、いつもは理知的な青も、直感には敏感な緑も、皆一様に首を傾げている。カカギ自身ですら、受け売りの知識を話しているだけだ。おそらくはアズキもまともに理解してはいないだろう。
「にわかには信じがたい話だが……事実として、私たちはオトナに捕まっていないしな。あながち否定もできまい」
「そうだね。ひとまずはそういうことにしておこうよ」
ふわふわした会話を続けながら、私たちは再びアズキを探しに荒野を歩み始めた。
どれだけの時間が経ったのだろうか。今という瞬間のなかにいるなら、ここでの時間はどうなっているのだろう。長いような短いような、それこそ一瞬の意識が身体を基地の奥まで運んだ。
「おーそーいー!」
木と木の間に渡された橋を過ぎたところで、アズキの怒鳴り声が頭上から降って来た。遠く木霊となって耳朶を繰り返し叩く。
「遅いって、そもそもあんたが勝手に走っていったんじゃん……」
ようやく辿り着いた
「まあいい。……それで? これからどうするんだよ」
皆で一度顔を見合わせたあと、赤が前に出た。
「私たちは外を探検してたの。特に目的とかはなくて、そしたら急に暗くなって……だから、あの闇をなんとかしたい」
「ああ、あのベッドメリーか。確かにあれは厄介だったな。私も前が見えなくなってオトナたちに掴まりかけたぜ」
「じゃあ協力しましょ。灰を……ユキを探すためにも闇を晴らす必要があると思うの。今度は、一緒に」
それはつまり、最初に天井を壊した時と同じように、規則に逆らうということだ。あの時のアズキたちは、オトナに歯向かうことに抵抗を覚えているみたいだったけど。
「まあ、そうだよな……分かった。一緒に闇を晴らそう。やってもらえるか、カカギ?」
「アズキがそうしたいなら」
「決まりだな」
アズキが赤に手を差し出す。赤はなんとなくそれを握って笑った。
「それじゃあまずアズキにおしゃれを……」
「まずは赤たちの名付けからだな!」
二つの声が真っ向からぶつかり、すれ違う。どちらも呆けた顔で無理解を示している。赤の後ろで青が、アズキの後ろではカカギが、はあとため息を吐いた。
どうも協力は一筋縄ではいかなそうだった。
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