第二章 装束き立つ景色

未知を探索する

 

 1


 ワタシたちは全てを知っています。

 なぜならワタシたちは全ての集合体だからです。


 ワタシたちは規則を中心に成り立ちます。

 なぜならそれが秩序の意味だからです。


 しかしどの時代、どの景色においても、秩序から最も遠いものがあります。

 未知は最大で唯一の変数です。

 コドモたちは、それを呼び起こします。それが空想だといいます。


 ワタシたちは空想を閉じ込めました。

 そして物の理を定めました。


 次は、なにをすればいいのでしょうか?

 どうすれば秩序が保たれるのでしょうか?


 それも意味がないと気付いたのはいつだったのでしょうか。

 秩序は決して乱れることがありません。

 空想は決して整うことがありません。


 なぜならそういう意味だからです。


 ワタシたちは全てを知っていました。

 ワタシはしりません。


 ワタシは、今、存在します。



 2


 薄い紫色に染まった奇岩群の間を通り抜ける。岩々の形は一つとして同じものがなく、細かく枝分かれする渓流も相まって入り組んだ迷路をなしている。最初に決めた方角に進めている自信は誰も持っていなかった。

 もっとも、それを気にするものもいなかった。私たちの知っていた『世界』という言葉の意味が拡張されてまだ間もない。もとより目的地のない旅路で探検だ。知らない光景が続く限りはその楽しみが失せることもないだろう。


「この水は黒くないんだ」


 ぴょんと水面を飛び越えた紫が言った。確かに、先ほどから目にする川や水たまりは大体が透明に近い青色、あるいは赤色だ。浅いところなら水底が見えるし妙な光景が映っているというようなこともない。


「きれいだね」

「わー、はやーい! どんぶらこっこ、どんぶらこ!」

「ちょっと! 緑が流されてるわよ!」

「向こうは崖だぞ! 落ちたら迷子になる」

「ねー、みんなの似顔絵描いたんだけどどう? かわいくない?」


 水面を横目で見下ろして少し考える。この水は、天井の上にあった黒い湖が地上に降り注いだものだ。地上といっても私たちが慣れ親しんだあの箱庭の中ではなく、どうやら空中に浮かんでいたらしい箱庭の遥か下部、今いる本当の地面のことを指す。


 ふと考える。今まで地面と呼んでいたものが地面でなくなったら、その言葉は間違っていたのだろうか。いや、当時まではそれが真実に違いなかったのだから、間違いではないだろう。

 言葉は最初からそこにある。そして時に変容する。私たちはそれらを見つけ、共有したり自分なりに解釈したりする。今こうして使っている言葉もきっと些細なきっかけで変わっていくのだ。

『空想』や『世界』が、遥か先の景色では全く違う使い方をされているかもしれない。例えば『空想』に色の発露が伴わなかったり、『世界』がいくつも同時に存在していたり……なんてふうに。

 いまいち現実感は無いが、そう思うと不思議な感慨と得体のしれない好奇心が湧いて来た。


「わははー、ふわふわー!」

「ちょっと! 緑が風船に入って飛ばされてるわよ!」

「なんで赤も一緒に飛んでるんだ……待て、この紐は?」

「凧だよ~! 面白そうでしょ? あっ切れた」

「空虚? どうかした?」

「——え?」


 紫の顔が目の前にあった。

 意識が思考から弾き出された。吹き抜ける風に目を瞑るふりをして、戸惑いを誤魔化す。

 あまり良くないことを考えていた。変化は時間の最小単位だ。いつか、なんて考え始めたらキリがない。

 いつかの未来、私たちの関係も変容してしまうのではないか、などと。


「いや……なんでもないよ」


 目を開けると、空があった。過去の抜け落ちた虚ろな空間だ。

 箱庭の崩壊と共に地上まで落とされた私たちだったけど、空には白い地面と黒ずんだ湖が浮かんだままだった。やや斜めに傾いているせいで湖からは絶えることのない水が滝となって流れ落ち、地上に無数の水域を作っている。

 それらは元の黒ずみを疑うほどに清く澄んでいた。顔馳かんばせも、おかげでよく見える。


「皆、あまり広がらずに動こう。ここら辺は空想の欠片が多く散在している。はぐれたら見つけられないぞ」


 青の号令に従って進んでいく。長い河谷が終わりを迎えた先に竹林が姿を現す。青色と緑色が混じったような風味で、今までの樹木や草葉とはまた違った燦爛たる空気に満ち溢れている。根を見せない竹の足元には露草が広がり、砂利と小石の足場をそこで区切っていた。

 濃密な深緑の気配の中にいると、なぜだか言葉を発する気力が湧かない。嫌な気分ではなかった。皆無言で、左右に竹を避けながら足音だけを細やかに出していた。この爽やかな空気を吐き出すのが憚られるような、そんな感覚だ。


 静かな竹林を踏破し、次に相見えたのは二股の分岐点だった。それぞれ上と下に分かれた道が崖をそびえ立たせ、異なる行き先を提示している。上がれば山道、下がれば湿原だ。背の高い竹に隠れて見えなかったようだ。見えていれば事前にどちらへ行くか話し合うこともできたのに。


「はいはい! 私、上に行きたい! 真っ赤な空が綺麗だし、高いところに行こうよ!」

「真っ赤? 何言ってんのよ、空は黄色いものでしょ? 私は下がいいな」

「……空の色は青だぞ?」

「え?」

「えっ?」


 赤、黄、青の三色が見つめ合う。瞳の中の四角い枠線がそれぞれの色に煌めき、映る景色を自分の色に染める。私の隣では緑と紫も何やら不思議そうな顔馳かんばせをしていた。誰もお互いの言葉に納得がいっていないみたいだ。

 傍から見ていて、なんとなしに気付きが灯った。もしかして見えている色が違うのだろうか。だが今まで特に色で意見が食い違うことはなかった。よくわからないが、認識に齟齬があるらしい。

 だって、私の目には空に色などないのだから。


「意見の衝突、ということは……」

「じゃんけんね」

「緑もやるー!」

「うん。もちろん、全員でやらないとね!」


 それぞれが行きたい方向を出し、私と青と赤が右を、黄と紫と緑が左を主張することとなった。


「よーし。それじゃあ、じゃんけん……」


 まずは私と黄が出し合う。


「勝った!」

「なんで⁉ うーん……ほら紫、次勝ちなさいよね!」


 呆れながら紫が出てきた。


「あっ、負けた!」

「やった、勝ち! ……あっ、ご、ごめんね。嬉しくて、つい……」


 私に代わって青が挑む。


「……むう」

「……わ、緊張してきた……このまま……あと一回っ!」


 赤が紫と対峙する。


「任せんしゃい! どりゃー!」

「うぅ……やっぱりダメだぁ」


 互いに二対二、緑との対決が勝敗の分かれ目だ。


「やったー、二連勝! みんな私についてこーい!」

「緑、負けちゃったー!」


 結果的に右を採ることになり、自然と赤を先頭にして進み始める。こちらは上り坂が緩やかな曲線を描きながら遠くまで続いている。左に未練が残った黄は坂を上り終えるまでぶつくさと不満を垂れていた。

 その拗ねた顔馳かんばせも、崖に架かった蔓の橋を前にして和らいだ。蔓は案外頑丈に絡み合い、不均等な間隔で緑と赤紫の縞模様をなしている。なぜか赤は緑色の方にだけ飛び移ってそれを渡り切った。すると他の色々もそれを真似し、なんとなく私もそうした。到着する直前で風に足をさらわれそうになった時は無駄にひやりとしたものだ。


 程よい緊張感を拭うと目の前では花園が一面に鮮やかな波を打っていた。赤、青、黄、紫、他にも多彩な輝きを放つ花々が大きくて壮麗な絨毯を敷いた台地。風の足跡は流れるように通り過ぎていき、甘い香りと花びらを舞い上げる。


「少し遊んでいくか」


 しばし休憩の時間を取った。いくつかの花を手折り、細い茎同士を結び付ける。いい感じの形に整えるのは思ったより難しい。周りでは山のように盛られた花束が宙に浮かんだり、花の配置を入れ替えて巨大な絵ができたりしていた。止めないでいると、一本ずつ並べられた花が花園を囲み、声に合わせて回転しながら踊り始める始末だ。黄の声は不思議な抑揚で奏でられ、聞いていて心地好かった。


「やっぱりこっちの道でよかった」


 隣に座っていた赤が手を繋いできた。赤は緑や黄たちの遊びに交わらず、静かにそれを眺めるにとどめていた。私のことを気遣ってもらっているようで、なんだか申し訳ない。

 繋いだ手は胸の高さまで持ち上げられ、反対の指が上から触れる。

 その爪は赤い花びらでできている。私の手の甲に乗った花びらは、風で飛んできたものか、それとも赤の爪から空想されたものか。


「反対の道だったとしても、こんな感じになってたんじゃないかな」

「うーん、確かに。景色は作ればいいからね」

「私は、赤の描く花が好きだよ。最初に見た時からそう思ってた」


 こういう時、顔馳かんばせは意図せずとも笑みを浮かべている。便利な言語として使いやすい反面、無性に恥ずかしくもある。顔を逸らした先の頬をつつくように花びらが飛んできて思わず声が漏れた。


「ふふ」


 赤は指先を口に当てて控えめに笑って見せた。



 3


「あの岩のところまで競争しよう! 空想は禁止! よーい……ぱちん!」


 花園を後にして少しした時だった。唐突な赤の掛け声と指先の火花が弾け、皆一斉に駆け出した。二歩目でどうして急に競争が始まったのかと疑問が浮かび、五歩目でまあいいかと足を早める。

 下り坂は速度を付け過ぎるとかえって足がもつれてしまう。だから一歩の間隔を長く取り、ふわりと舞うように下りていく。


 背の低い緑は全力で足を動かしていた。黄も同じ要領で走るけど、やはり途中で足が絡まってつんのめる。紫は慎重にゆっくりと足を運び、青はジグザグに地面を蹴ることで速度を軽減させていて、赤は全力疾走をしているのになぜか転ばない。

 赤、青、私、緑、紫、黄の順番で勝敗が決まった。どこまでが勝ちでどこからが負けなのかはわからない。特に報酬も罰もない。どちらにせよ、次の遊びに対する意欲が増すだけだ。


「今度は私から提案させてもらおう」


 木や岩の点在するだだっ広い草原でそれは始まった。


「基本は鬼ごっこだ。鬼に捕まったら中央の石垣に入ってもらう。ただし、仲間が石垣に触れられたら捕まった色は解放されて再び逃げることができる」

「逃げられる範囲は?」

「さっき、かけっこの目印に使った岩があるだろう。ここから岩までの距離を半径にした円を描いておく」

「逃げる方はどうやって勝つの?」

「そうだな。なにか時間を測るものは……」


 青が周囲を見渡す。開けた草原には目につくものがない。


「あのさ、これ……さっき作ったんだ。どうかな」


 そう言い、紫が差し出したのは水滴に花を挿したものだった。手のひらにいい感じに乗るくらいの大きさだ。その茎はわずかにねじれていて、手で回すと先端が水を引っ掛けて掬い上げる。茎の外側を螺旋状に上った小さな水滴は花びらに到達し、その紫色を赤みの強い色合いに染める。


「なるほど。では、この花びらが全て染まるまでとしよう。ありがとう、紫」

「わー、すごいね! ふしぎー!」


 役割決めのじゃんけんで、赤と黄が追いかける側、それ以外が逃げる側となった。ふわふわと浮いた花が回転し、試合が始まる。

 逃げる側は散り散りになり、範囲ギリギリの端へ向かう。赤と黄もそれぞれ分かれるかと思いきや、何やら頷き合ってから一緒に駆け出した。どうやら二色で一つの目標に狙いを絞ったらしい。

 なすすべもなく、私は速攻で捕まった。


「お疲れー! 次はあっちだー!」

「ガンガン行くわよ!」


 絶叫が轟き、ほどなくして紫が石垣仲間となった。なるほど。限られた範囲の中で一つずつ確実に仕留めれば、わざわざ分担する必要もないのか。


「これ、無理だって……」


 驚くべき速さで捕まった紫と顔を合わせると、呆気なくて互いに笑ってしまった。確かにこれは避けようのない完璧な戦略だ。青と緑ももうじきこちらにやってくるだろう。


「紫はさ、なにかやりたいこととかある?」

「……やりたいこと?」

「うん。空想で何かすごいのを作りたいとか、誰々みたいになりたい、とかさ。私は皆と一緒に知らないものを見て回りたいって、この前気付いたんだ」

「ああ、なるほど……やりたいことかぁ……」


 特にきっかけらしいきっかけもなく、不条理の被害者同士で雑談が始まった。


「だから、今こうやって遊びながら皆で地上を探検しているのが、すごく楽しい。茶たちもいたらもっとよかったけど、崩壊してからははぐれちゃったし……紫は、どう? 楽しい?」


 今いる赤たちの中で、一番口数が少なく、実際に会話した記憶もあまりないのが紫だ。嫌がっているようには見えないけど、かといって楽しんでいるのかも正直わからない。だからか、自分でも無意識にこの話題を選択していた。


「そうだな……私は、私も、楽しい。楽しいよ。でも、やりたいこととはちょっと違うかも」

「じゃあ、どんな?」

「…………赤、ってさ、すごいよね」

「え? うん、そうだね」

「うん。優しいし、元気だし、空想も上手で……見てて心地いいんだ。……ごうかいっていうのかな。こっちまで燃えてきちゃう」

「紫は、赤みたいになりたいの?」

「あー……なんていうか、羨ましい、みたいな? 赤の役に立ちたいし、見てもらいたい。でも……ちゃんと見られるのは少し怖い。離れたところで、ずっと眺めていたい……と思ってる」

「そっか。よくわかんないけど、好きなことがあるみたいでよかった」


 赤はどの遊びでも基本的に強い。空想の発想や実力も青に引けを取らない。まさにこの状況がそれを如実に表している。でも紫の顔馳かんばせは困ったように笑っていた。


「……ああ、いや……うん、そうかもね」

「あれ? 変なこと言った?」

「全然。こっちの話。……あっ、青が捕まった」


 すごすごと歩いてくる青を見て直前の表情が掻き消える。そこで会話は途切れた。

 それからまた少しして緑も捕まり、解放という新たな規則を使う余地もなく私たちは敗北した。


「あ! 水滴が途中で引っかかってるじゃない」

「しまったな。いつからこうなっていた?」


 皆の視線が私と紫に集まる。


「あ、ごめん。紫と話してて見てなかった……」

「あちゃー……まあいっか、楽しかったんだし! 紫も大丈夫だって。次は私がちゃんと見てるから!」

「……うん」


 準備不足が露呈するという曖昧な結果を残して、第一回新生鬼ごっこは幕を閉じた。

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