空の位置


「あっ、出てきた!」


 赤の声だ。波打ち際に降り立つと、皆走って迎えてくれた。


「ちょっと、大丈夫? 青も飛び込むもんだから、どうしようかと思ったじゃない」

「黄は固まってたもんね」

「うるさい! 怖かったんだからしょうがないでしょ! 紫だっておろおろしてたくせに!」

「黄も紫も落ち着いて! 空虚が出てきたってことは……」

「白黒も来るのかー?」


 緑が言うが早いか、水飛沫を上げて飛び出す影があった。


『ルール、を、守りま、しょう』


 白黒は水面に立ち、耳障りな声を響かせる。

 残念ながら、それを聞いてやれるほど今の私たちは従順じゃない。


「捕まったら色を剝がされる! 逃げろ!」


 青の号令が轟き、皆一斉に走り出した。ああ、これだ。特に言葉を返さずとも意思が通じ合っている。無言の言語。これは皆で生み出したものだ。

 柔らかい足場のせいで足音も聞こえないが、白い背景に皆の色が目立つのは幸いだった。誰がどこに行ったのかがよく分かる。でもなぜだろう。白黒は誰の後も追っていない。


「空虚!」


 疑問と叫びと理解は全て同時だった。身を屈めるや否や頭上に何かが飛来する。風ではない。


「あはっ! 鬼ごっこなら負けないよ!」


 だって皆といっぱい遊んだから。

 屈んだ身体と脚を引き絞り、思い切り弾いて前へ飛び出る。わずかに浮いた足を段差に引っ掛けて上半身を翻せば、股の間にそれが見えた。私の全長を超える巨大な白の手。指が六本あることを除けばその形状は見慣れたものだった。

 ただ想定と違ったのは、それに脚がないことだ。浮いた状態で虚空を滑るようにして迫ってくる。複雑な地形を上手く飛び越えたところで優位は取れないだろう。


 だから私はもう一つの見えたものへ向かって走った。その先には赤がいる。近付くにつれて、赤の傍にあるものが鮮明になってくる。

 それは地面に突き立つ四角い枠だ。上にやや長く伸びており、赤の顔馳かんばせはそこを潜り抜けろと語っていた。

 速度は落とさずに走り抜ける。枠を潜る瞬間、赤がささやいた。


「空想、使えるよ」


 え、と振り返ると、真後ろに空虚の姿があった。いくつもの色を繋ぎ合わせたそれは間違いなく私だ。もう一つの私はすぐさま反対の方向へと走り去る。赤は呆然とする私の手を取った。


「私たちはこっち! あれは空想で作った偽物だから!」

「ほ、本当に空想ができるの⁉」

「うん! 完全じゃないけど、ちょっと騙すくらいなら簡単でしょ」

「そっか。そういえば青の手も空想だったんだ」


 赤の言う通り、偽の私は遠くまで行けずにぼろぼろと崩れ落ちて消えた。そちらを追っていた白い手も止まる。確かに使えそうだ。


「でも、ずっと鬼ごっこばかりしていても終わんないよ! 規則をなくしてもらわないと!」

「どうやってなくしてもらうの?」

「話し合うとか?」

「それ、ムリじゃない⁉」


 私たちに狙いを定め直した白い手が突っ込んでくる。私は赤の手を繋いだまま大きく跳躍した。背後の地面が砕け散り、衝撃音が前方に抜けていく。白い破片の飛び交う中で、青い空を背にして私たちは笑っていた。


「「あはははっ!」」


 あの手に掴まれたらどうなるのだろうか。

 胸元はまだ少し色が残っている。完全に剝がされたら誰にも見てもらえなかったあの頃に戻るのか。それじゃあ赤は? 青は? 皆はどうなる?


 わからない。

 わからないけど、楽しい。

 かつてないほどの緊張感とわくわくが背中を押す。風が頬を叩く。私はまだ捕まっていない。捕まらなければどうってことはない。

 私たちは、遊びという規則を押し付ければいいのだ。

 そう思うと、この状況もなんだかひどく滑稽な気がした。なにをそんなに必死になる必要があるのか。

 楽しんだ方が絶対楽しいに決まっている。


「みんなぁ!」


 橙にもらった球体を取り出した。大きさを見るに、もう何回かは使えるはずだ。


「遊ぼう! 全部ぜーんぶ塗りまくれ!」


 着地して屈んだ姿勢で赤と目が合う。その瞳は鮮烈な赤に四角く縁取られていて、眩いばかりの衝動をため込んでいた。

 白い手が割り込む。繋いでいた手を離し、私は右に、赤は左に分かれた。

 身長よりも高い壁が立ちふさがっている。踏み込んだ足と同じ右の手で橙色の球体をぎゅっと握って振り下ろし、空中に即席の足場を描き上げた。差し出した左足でそれを踏む。

 私を追い込んだはずの白い手が面白いほどに大きく空振った。颯爽と壁を飛び越えるこの空虚は、すでに次の動作に入っている。


 湧き上がる意欲と発想が勝利の確信をくれる。

 そう、これは勝てる遊びだ。遊びの専門家として、到底負けてなどいられない。


「……これでいい?」


 地面を紫色の花の絨毯が覆う。花は踏むと急成長して力強く足裏を押し返し、凄まじい勢いで身体が跳ね上がる。地を踏む脚のない白い手には使えない仕組みだ。


「最高だよ!」


 紫に笑顔を送り、想定より上の段に飛び移る。走って来た場所を含めて遠くまで見渡せる高さだ。見える限りではここが一番の高所かもしれない。

 白い手は壁に沿って滑走しながら上ってくる。油断はできない。


『おと、なの、言う、ことを』


 ごう、と今度は黒い手が目前に闇を広げていた。足元に草原が引かれる。急制動し、反射的に放り投げた橙色の球体が黒い手にぶつかって弾ける。仰け反った胸元を黒い指先が掠るのを、昂った気持ちで見下ろしていた。


『聞きな、さい』


 橙色に染まった手はすぐさま黒く塗り直される。挟み込む形で襲い来た白い手を避けると二つが衝突した。

 白と黒の手は溶け出し、流れ落ちる。かと思えば地面が隆起し、メキメキと突き破る音を立てながら目の前で膨れ上がった。それは私たちのように天井を突き破って来たというより、今まさに地面をこねくり回して形を作っているように見えた。

 最初は壁みたいに迫り上がっていたのが、枝分かれし、見慣れた姿へと変貌していく。頭、胴体、腕、そして脚。明らかに空虚の身体を模倣している。


「指、また六本あるじゃん。足の形も崩れている。真似事にしてもずいぶん質が悪いね」


 白黒が空想を理解しておらず、確固たる意思もなく、それっぽく振る舞うだけの張りぼてだということは、直接触れても何も伝わってこない時点で分かっていた。


「オトナって名前? 悪いけど、あんたたちの言うことは聞けない」


 それが私たちの答えだ。

 巨大なオトナの足が踏み下ろされる。凄まじい質量に圧迫された空気が嘶く。

 私は後ろも見ずに跳び退った。地面を叩いた衝撃が風となって吹き付け、宙を舞う身体が揺らいだ。盛大な音を伴って地面が割れる。


「規則、はんたーい!」


 開いた亀裂から、黄色い岩棚が飛び出てきた。指の隙間を抜けて飛んで行き、オトナの顎を強打する。顎は黄色く染まり、砕け散った岩の欠片がぼろぼろと降り注ぐ。

 空中に放り出された私の身体は、無数に飛行する岩棚に拾われた。細かく掘られた穴の中には空想の小物が詰まっている。見覚えがあると思ったら、としょしつにあったものだ。

 他にも氷柱や岩の柱、砂のかたまりが浮いている。どれも箱庭で赤たちが描いた空想だ。


「よし。こっからは空想合戦ってことでしょ」

「負けないんだから!」


 黄と赤の言葉が聞こえたのか、オトナは私を狙いから外して腕を振るった。岩の柱は脆く、手のひらを止め切れない。それでも逃げるだけの時間を稼いでくれた。青い氷柱にぶら下がって軽やかに飛び回り、黄と赤が多方面から空想を叩き込む。


 先ほど黄色く塗られた顎の部分はほとんど直っていた。要するに速度勝負だ。オトナが修復する前に全部塗り潰してしまえばいい。

 茶たちがいればそう難しくはなかったかもしれない。ただ、最初から逆らう気力があまり見られなかったことと、水の中で見た過去の光景を鑑みるに、彼らはオトナに対して苦手意識があるのかもしれない。

 境遇は違うけど、分からなくもない。私だって怖いと思う気持ちはある。でも、規則を破ることの怖さなんて、未知への探求を諦めることの怖さには到底及ばない。


「これー、くーきょにあげる」


 いつからか岩棚の端に掴まっていた緑の手から小さな玉を何個か受け取る。投げるのに丁度いい大きさだ。


「ありがとう」


 今回ばかりは私も仲間外れじゃない。皆と一緒に空想で遊べる。


「あ、そうだ。さっきの空想、良かったよ」

「うん!」


 言って、駆け出す。

 箱庭は崩れ始めていた。オトナが動くたびに地面は割れ、対抗して飛ばされる空想の余波で内なる世界は支えを失いつつある。

 机が飛び交い、椅子を放り投げ、白い大地が崩壊と色彩で満ち溢れる。そうして、少しずつ、分解されていく。

 でも不思議と不安はなかった。破壊と混沌は未知への道標だ。そうでなければ規則を破ろうだなんてはなから思っていない。


 私は岩棚から砂のかたまりに飛び乗った。砂場に山ほどあったものだからか、ほとんど無限に湧き出ている。それはもはやかたまりと言えず、縦横無尽に張り巡らされ、空中に道を流している状態だ。

 黒い拳が迫り来るのを見て私は緑色の玉を投げた。緑色が蔓と茨に変形して拳を覆い、周囲の砂路に根を張ってぎゅっと縛り付ける。寸前を駆け抜けた瞬間、引き千切られる音と衝撃が背後で弾けた。

 繋がりが断ち切られ、砂路は不安定に波打つ。咄嗟に手をかけようとするもかなわず虚空に投げ飛ばされた。そこに巨大な手のひらが肉薄する。


「させない!」


 天地の裏返った視界に青い燐光が差す。


「おっとと」


 降り立ったそれは薄く面をなした青い水の足場だ。窪地の黒い水面とは違って立っても沈むことはなく、反発性のある不思議な踏み心地だ。足元には上下が反転した私の姿が映っている。


「走れ!」


 呑気に眺めている暇はなかった。頭上からぐっと押し込まれた空気が水面を波立たせる。

 足は軽快に弾んだ。しかし巨大な手のひらが逃げ場も許さずに覆い被さり、空虚の身は水飛沫の音と共に潰された。


「そっちは偽物でした!」


 水面に映る鏡像だけが、潰れた空虚を置いて——もとい本物の空虚が、潰れた空想を置いてそのまま突っ切り、波を蹴って駆け上がっていく。

 氷柱に掴まった赤と黄、緑を引っ張って波から飛び出した青、砂路を辿って来た紫が視線を交差させる。零れ落ちる砂の中からは先ほどの筆が姿を現した。

 オトナはもう目の前だ。


「せーのっ!」


 全員で筆に手をかけ、一息に突き出した。五色に煌めく切っ先がオトナの胸元を貫く。色彩は内部からオトナを蝕み、その白と黒の巨体を凄まじい速度で染めていく。修復は間に合わない。

 色はさらに伝播する。頽れる巨体から地面へ、地面から天井へ、天井から壁へ、壁から地面へ。

 それを止めるものはなく、私たちもまた、高揚感を孕んだ枠組みのなかで静かに見守っているしかなかった。

 オトナを倒した。規則も破った。では、これからはどうなるのだろうか。


「勝った……よね」

「やった! でも、結局正体はなんだったんだろう?」

「さあね」


 色の浸食が広がり、やがて足場が瓦解する。空想で飛んでいられるのも無限ではない。全員が目を見合わせた。


「これ、どうなっちゃうの?」

「……落ちるな」

「落ちるってどこに? 地面はすぐそこでしょ?」

「天井より上があったんだし、地面より下もあるんじゃないか」

「あははー、なーんもわかんない!」


 崩れ落ちていく流れのなかに茶色の大樹が見えた。橙色の木、灰色の木、螺旋の道、洞窟、砂場、峡谷、見たことあるものないもの、空想したもの、それら諸共ひっくるめて一緒くたに落ちていく。


「まあ、どこだっていいや」皆を見ていると、自然と笑みがこぼれた。「そこに空想と未知があるなら」


 重力があらゆる結び付きを振り解き、全ての破片を運ぶ。そうして世界は一つの節目を迎える。

 この瞬間より、空は目線を少し下に落とした。

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