無彩色の濁流
5
「えーと、いったん状況を整理しよっか」
赤がぱんと手を打ち合わせて言った。場所はさきほど塗り終えたばかりの岩窟で、地面や壁などの表面が、うねりを打った黄色と紫色に彩られている。小さく突き出した岩は腰を下ろすのに適しており、端のひと際大きなところに座った赤を取り囲むようにして他の面々も揃っている。私と緑、そして黄と紫が傍に座り、青は窓際に立ち、茶、灰、橙が間隔を空けて私の後ろに立っている。
三色の新しい色を、皆は快く受け入れてくれた。というより、他のことで頭がいっぱいだと言った方が正しいのかもしれない。
「まず、空想がほとんどできなくなっちゃった」
右手を挙げた赤が色を出す。指先から赤色がすっと滲み出て空間を塗り付ける。しかしそれだけだ。以前までのように長く伸びたり形を変えたりはできていない。
「直接さわれるとこじゃないと、色が塗れないっぽい」
今度はその手を躊躇いなく私の肩に当てる。赤色が付着したが、意識に襲われるということはなかった。ただ単に色が塗られただけだ。
「それに、色で会話もできない。使えるのは声だけ……だから、その」
赤の言おうとしていることは分かる。少し離れたところにいる茶たち三色のことだ。彼らは言葉を扱えず、かつ空想の接触も意味をなさない今では意思疎通が叶わない。当然向こうが何を考えているのかも、こちらとしては知る由もないのだ。
「なんで色が使えないのー?」
「……なんでかな? 空虚と青が言うには白黒に禁止されたらしいんだけど、誰なんだろう。私も声は聞こえたけど、姿は見てないし」
「禁止ってー?」
「やっちゃ駄目ってことだよ」
私が赤の代わりに返事をして、肩に付いた赤色の欠片を手に取った。赤から離れたそれはカチコチに固まっていて、どこか頼りない。
「あの白黒がなんなのか、正直よくわからない。でも私たちのことを……空想を邪魔しようとしているのは間違いないんだ。だからこれは、そういう……」言いさしてしばし言葉を探した。「……うん。そういう、規則ってやつだ」
声が重く張り詰める。分かってはいたが、今こうして、初めて実感が湧いたのかもしれない。
私たちが何者かの規則に縛られているということに。
赤が欠片を受け取り、胸にそっと抱えた。
「私はイヤだ。空想ができないなんて、ひどいよ」
「私も嫌よ! さっきだって、紫に勝手に塗り潰されたんだから!」
「……しつこいなぁ。そりゃぁ、遊べなくなるのは私もイヤだけど」
「塗り潰すのも似たようなことでしょ!」
「ええ~……」
黄がいつにも増して声を張り上げている。色の接触による会話が不可能となった以上、言葉に頼るしかないのだ。彼らにとっては大きなものを失った気分なのだろう。
私は、それに共感することすらできない。
「あとは……身体が、すごく重い」
「うん。重力って言うんだっけ……に引っ張られて、空中を飛べなくなった。一歩ずつ歩かないといけないのは不便だね」
今度は共感できる話題、だからといって喜ぶわけにもいかない。重力は足を地面に縫い付け、自由な跳躍を妨げる。特に意識もしてこなかった移動そのものが制限を受けるというのは、思った以上に神経をすり減らし、些細な行動にも不便を強いられることになった。
まるで世界の質が変わってしまったかのように、あらゆることに違和感が付いて回る。
しばらくの間、静かな騒ぎが続いた。どこも声で満ちている。しかし気力が感じられない。どうしようもない困惑の音が意識の裏で響いていた。
空想は制限され、重い身体はなかなか言うことをきかない。その遊びにくさは、遊んではいけないのでは、という懸念にいつしか変わっていった。こうなってしまったことの理由をそれぞれが考え出している。
こういう場合にはどうするべきなのか、私はその答えを好奇心に見出した。
「白黒にもう一度会いに行こう」
そう言うと、青が動いた。
「だが、それでまた別のことが禁止されたらどうする?」
「え?」
「よく考えろ。会うたびに規則とやらを増やされたら、たまったものじゃないぞ」
言われてみればそれは至極当然のことだった。規則が追加される可能性。確かに厄介なことになる。
「だから、私はまだそう焦る必要はないと思う」
「でも、どうすれば……」
「まずは様子を見たらどうだ? 落ち着いて対処するべきだ。たとえばその規則は……なくせないのか?」
青の発した言葉に、一同が沈黙した。おそらく、それに対する答えは誰も知り得ない。「わからない」という言葉以外に返せないことを、互いに理解する。
ふと、私のなかに別の疑問が浮かんだ。しかしそれを上手く言葉で引き出せず、もやもやした感じだけが残った。
「とりあえず、何か出来ることが他にないか探してみよう。探索の方は……」
これに黄と青が答える。
「これ以上禁止されるのは嫌!」
「ああ、あの大樹があるところには行かないようにしよう。私も地図以外に何か描くものがないか考えてみる」
赤たちに異論がないことを確かめる。何も言えずに立ったままの茶たちはどうだろうか。今ここで確かめる手段はないと思うのだが。
「じゃあ……私は茶たちに言葉を教えるよ。このままじゃ話せないし」
「緑もー! 教えるの、面白そー!」
大体の方針とやることが決まり、それぞれの持ち場に戻っていく。何も理解できていないだろう三色が残り、私と緑はそちらに向かった。
「でも、どうやって教えるのー?」
「……まずはそこから考えようか」
言葉の音と意味を覚えさせるのは、思っていたより遥かに困難なことだった。
赤たちとは一緒に学び合ったからよかったものの、こうして一から教える立場になってみるとどうすればいいのか見当もつかないのだ。そもそもの大前提として、彼らは音と意味の結びつき自体知らないということを後になってから気付いた。
それからは手探りの時間を過ごした。自分でも把握できていないものを伝えるのは難しい。言葉とは何か、どうして声で表現できるのか。考えても答えの出ない疑問は、時間を容易く消費してしまう。
どれだけの時間が過ぎたのか、最終的に絵を見せながらいくつかの単語を繰り返していると、傍にいた緑が疑問を投げかけてきた。
「あのさー、緑たちも白黒になにか禁止できないのー?」
「……それは、確かに」
言われてみれば、なるほど面白い意見だ。私たちだけ一方的に禁止されるというのは、なんだか釈然としない。
だが問題もある。そもそも禁じるということ自体、あまり理解していないのだ。どういうわけで急に体が下方向に引っ張られ、空想が遠くまで伸びなくなり、意思疎通が妨げられているのか。
規則を受ける側と設ける側とでは、言葉の意味合いが違うようだった。私はまだ片方しか経験していない。それに、規則の件を除いてもあの白黒に思うところはある。もし会話が叶うのなら色々と聞きたいな、と漠然ながら考えた。
しかし、そんな余裕はすぐに消え去った。
「空虚! 色が、消されてる!」
ようやく三色が単語を口にし始めた頃のことだった。周辺を見回りながら色々と調べていた赤が、慌てた様子で走って来たのだ。
「それって……」
「うん。私たちの場所がどんどん狭くなってる。……これも白黒のせいなの?」
知るすべはない。しかしあれの出現から連続的に起きた事件を鑑みるに、これも一つの規則なのかもしれない。
「どうだろう。一応、それも含めて調べないとね。ちなみに、消されたってのはどんな感じ?」
赤の案内に従って付いていくと、確かに以前まで皆で塗っていたはずの部分が小さくなっているのが見えた。白い領域がじわじわと広がり、外側から蝕み始めている。
「私たちには禁止しといて、自分たちはいいなんてひどい。だから、こっちも塗り返さないといけないと思うの」
ざっ。
赤がそう言った瞬間、冷たいものが足元を通り過ぎた気がした。それを正確に言い表せる言葉が記憶のなかになく、かつ唐突な出来事だったため、どこか不思議な気持ちで足元を見下ろした。
空虚の足は灰色に埋まっていた。足だけではない。
私の立っている場所から遥か前方、空想を蝕みつつある白い領域に広く覆い被さるようにして灰色が迸っていたのだ。
「な……」
「空虚、大丈夫⁉」
身体を支え切れなくなって思わず膝を突く。赤が歩み寄り、固められた足元を塗り直してくれた。
赤い足は思い通りによく動く。特に異常はない。どちらかといえば、異常は他にあった。
「——ぁ」
いつの間にか私の背後に付いて来ていた灰。その手から放たれた空想は、一瞬で広大な空白地帯を自分の色に染め上げた。驚異的な量と速度だ。今までの空想がちっぽけなものに思えてしまうほどに。
「灰。あなたがやったの?」
「……」
「びっくりした。すごいね! こんなに力強い空想、初めて見た!」
赤が灰と同じ目線の高さに屈み、その頭を撫でる。灰は何も言わず、ただされるがままにじっと立っていた。
「塗り直すのは、灰に任せちゃおうかな」
「でも、色を塗ったところから出ない方が……」
「色の端っこを少しずつ広げれば、出たことにはならないでしょ? それに、このままじゃ私たちの居場所が全部なくなっちゃうよ!」
「でも、もしまた白黒に会ったら他のことが禁止されるかも……」
「この近くまで来るなら、どのみち避けれないでしょ!」
ものすごい熱量だった。結局私は押し切られ、あとで皆と話し合うことを条件に承諾した。嬉しそうに両手を広げる赤を前にして、もやもやした感情がうずく。
というか、そこまで行動を縛っていたつもりはなかったのだが、どうして私にそんなことを聞いたのだろう。いつの間にか許可を求められる立場になっていた自分に困惑する。
これではまるで、私も彼らに規則を与えたみたいではないか。
「…………」
みたい、ではないのかもしれない。なぜだかそう思う自分がいた。
色を持たないがために、私は赤たちと意思疎通を行う手段として言葉を選んだ。しかし言葉は万能ではない。どう言えばいいのかわからない時もあるし、まず双方がそれを理解している必要がある。今でこそ色が禁じられたおかげで貴重な対話手段となったが、正直、言葉そのものが優れているとはいえない。
言葉は枷なのかもしれないと思ったことがある。過去の行いを振り返るほどに、その考えが徐々に輪郭を確かなものにしてきているように思えて仕方なかった。
「言葉も規則なのかな」
元いた場所に戻り、気を取り直して茶たちに言葉を教えていると、ふとそんなことが頭に浮かんだ。
「んー? くーきょ、どうしたのー?」
「えーと……あれ? 今、なにを考えていたんだっけ……」
答えようとして言葉に詰まる。ひらめいた瞬間は完璧で隙のない結論だと思っていたが、具体的な中身を意識した途端に完全性はあっさりと霧散し、跡形もなく崩れ落ちる音がした。
おかしい。今、理解した気がしていたのに。
無意識の答えの辻褄を合わせるべく、言葉と思考を同時に吐き出す。
「だから……遊びとか言葉とか、あとは規則も、全部決め事なんだ。お互いに音と意味を決めて、限られた使い方しかできない。今までは、言葉を空想と一緒に使っていたから特に問題じゃなかった。でも空想が使えなくなった。
分かり合うのに言葉だけじゃ足りないとして、じゃあもう一つ……できれば音以外で、考えてることを伝えられるもの……って、なんだと思う?」
「えー? なに言ってるのか、よくわかんない」
「ごめん、私もよくわかんない……じゃなくて、難しくしなくても伝わるものとかないかな? こう、一瞬でぱっと分かるやつ」
「一瞬で、ぱーっと? 色のこと?」
「いや、そもそも色が使えないから他の言語を……ん?」
考えながら、思いついたことがあった。ふわりと漂うそれを逃してはならぬと想像力を働かせる。いま浮かんでいるものを掴め。言葉で表せ。言語化しろ。
意識の向かう先には緑がいる。その後ろに茶たちがいて、周囲では赤や紫が空想をしている。壁に花や草を描いているようだ。ただし、それは本物ではない。花の色と形を持っているが、平面に描かれただけの絵だ。本物でないが、見ればそれが花を意味するのだと分かる。
青は地図ではないものを描くと言っていた。地図は周辺の地形を簡単に描いた絵で、実際に見て回らなくても構造が分かる優れものだ。
「……描けば、分かる」
地面に落ちていた赤と紫の欠片を拾い集める。細長い赤色、丸い赤色、大きい紫色、曲がった赤色……他にもいくつもの色の欠片がある。それらを掻き寄せ、繋ぎ合わせてみる。
どのように組み合わせて配置すれば、考えていることが一瞬で伝わるだろうか?
そこにないものを生み出そうとする時にだけ、心に働きかける情動がある。理想へ近付いていく疾走感。先の見えない閉塞感。ふとした思いつきから出でた、無色の何かが身体を衝き動かす。
まるで自分が色を使って、空想しているような錯覚に包まれた。
それはとても愉快で満ち足りた時間だった。いつも聞こえていたはずの音がひっそりと身を隠し、私は自分の存在を忘れた。
「出来た」
空想するのは、こんな気分なのだろうか。普段は離れたところから眺めながら、そうやって絵を描くことに究極的な終わりはないと思っていたけど、これは明らかに完成の形をしていた。
借りものの身体と借りものの欠片で、自分の絵が描けたことにこれ以上ない喜びを感じる。早く見せたい。皆に自慢したい。すごいことをしたのだという証明が欲しい。
私はすぐに皆を呼び集めた。最後に青が到着したところで、満を持してその作品を発表する。
「実は新しい言語を創ったんだ。できれば皆にも使ってもらいたい。言葉よりも簡単だけど、一瞬で考えていることが伝わるはずだから。ね、緑?」
言いつつ、全員の関心が一点に集まっていることがうっすらと分かった。でもこれからはもっと分かりやすくなるだろう。それこそが新しい言語の強みなのだ。私は確信を持って覆っていた両手を開いた。
「じゃーん! これが
眉を吊り上げ、口を大きく開いてそう言い放った。
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