遭遇

 

 2


 腕を振るう。すると胴体が傾き、脚を翻させた。身体がくるりと宙を舞う。

 色に囲まれながら、私は遊び、また遊んだ。適当に身体を動かしているだけでも楽しい。手が空を切る。足で地面を踏みしめる。その全てが新しい。ふわふわと掴みどころのない全知に、確かな感触をもたらしてくれるのだ。


 赤は楽しんでいた。いや、実際には小刻みに震えて動き回っているだけだ。楽しそう、と言った方が正しい。

 青は私と衝突しかけてさっと避けた。その先には黄色がある。単純にそちらへ向かっただけなのだろうか。そうではないと思う。


 なんとなくそんな気がする。私と同じように何かを考えて行動する存在が、他にもいるということ。それぞれが自分の世界を持っているということ。

 私は、色にとっての自分を考え始めていた。

 赤はきっと私の姿が可笑しいと思っている。だから楽しそうにしていた。おそらく。

 緑が草を伸ばしている。あれはなぜだろう。


「めらめら、めらめら」


 私の声を真似しているみたいだ。しかしその音は赤色を見て聞こえたものだから、緑だと少し変だ。


「あはは」


 声に、色が反応する。皆さっきの赤のように震えていた。やはりそういうことだったのだ。

 今度は思い切り走ってみる。腕を振るうと胴体が傾くが、足を振るうと前へと進む。空中は踏む場所がなくてうまく進めない。


「ぺたぺた」


 踏む度に音が聞こえる。たまに予想と違うところで踏み込んだ気になって空振りをすることがある。あらゆる方向に身体が傾き、転ぶ。

 面白い。そうして転んでいるうちに、何度かがつんとぶつかるものがあった。

 白い壁だ。地面と同化して見えないから避けるのが難しい。

 黄色い岩も壁にぶつかっていた。一緒になって転び、激突し、弾かれる。


「あははっ!」


 ふと黒い線が見えた。地面に沿って引かれたそれは、とある箇所でかくんと曲がり直角に上がっていく。

 手で触れてみると、そこに壁があることが分かった。これは輪郭だ。線は意識してみれば様々なところに輪郭を描いていた。あまりにも大きいため、全体像が掴めなかったのだ。壁沿いに走っても終わりがない。どこまで続いているのだろうか。

 やがて立体的な像がおぼろげに浮かび始めた。白と黒の世界に凹凸があるのを、見えていないのに感じる。


 おそらく、この世界には形がある。途方もないほどに大きな輪郭を追えばわかるだろうか。

 未だ来ていない、いつかの時が待ち遠しく思えた。



 3


 遊びは発見の連続だ。

 石が一つ、二つ……三つある。どれも形が似ていて区別できない。

 いやしかし、一番右の石の前だけ葉と実が潰れて匂いを発している。ちょうど石と同じ幅で、何かが引きずられたような跡だ。


「森、石、ずるずる……」


 他の二つにはそれがない。つまり、右の石だけ動いたということだ。


「これ、黄色!」


 びしっと指を向けると、石が勢いよく飛び跳ねた。黄は自分の正体がばれたことに驚いているようだ。予想が的中して私もつい飛び跳ねる。今度はそれを逆の立場で行う。

 どこかに隠れて相手をやりすごす遊びは確かに面白い。だが自分が隠れる時は別だ。それこそ今の黄色い石のように、ものに紛れることができれば見つかりにくくなる。

 その点、私の身体は借りものだ。動かすことはできても形や大きさを変えることはできない。隠れるにもそれなりのものがないとすぐに見つかってしまうのだ。

 これではなんというか、不公平というか、悔しいではないか。


「えーと……」


 この思いをどうにかして黄色に伝えたい。どう音にすればいいだろうか。


「形、いっしょ」

「んーあ?」

「空虚、黄色、いっしょ。でこぼこ、くねくね。出来る?」

 言葉だけでは足りず、手足を振り回し、自分を指してから黄色を指す。この身体の辛さを知ってほしい。同じ形で遊ぼう。これが、こうで、こういうことだ。

「あー、あはは」


 黄色がふにゃりと色を伸ばす。あっという間に形が変わり、私とそっくりな身体が出来上がる。そう、これだ。

 意図が伝わったことと対等に遊べることの嬉しさが胸を高鳴らせる。私は急いで木がいくつかある場所まで走り、そのうちの一つに身を隠した。少しして空虚と同じ形をした黄色がやってくる。足取りは不安定だがすぐに見つかってしまった。


 ああ、そうか。今は私が隠れる番なのだから、黄色が形を変えても意味がないのだった。

 うまく行ったと思ったのに勘違いに終わった。悔しい。でもやっぱり楽しい。次はもっと楽しくなる。

 同じ形をしてもらうのは良い考えだったと思う。次に遊ぶ時は赤たちにもそう伝えよう。



 4


 一歩、深く踏み込んで加速する。

 足裏で花びらを蹴飛ばし、段差の向こう側へ。軽やかな身体が空気を切り音を鳴らす。

 行き止まりだ。前を走る影は、ごつごつした岩壁の凹凸を利用して天井に飛び移った。そこはつらら石と蔓の入り乱れた地帯だ。ここからだと高低差のせいで捕まえられない。


「ぴょんっと」


 私も壁から天井へ、影を追って駆け上がる。上下の反転した視界。立ち並んだ岩の柱は、単に移動を邪魔するだけでなく視界をも遮る。

 だが問題ない。見え隠れするその瞬きを捉えつつ、私は速度を維持する。

 手を伸ばせば届きそうな距離だ。思い切って前方に飛び込んだ。


「あれっ」


 妙に硬い感触が返って来る。見れば、両腕で捕まえたと思ったのは、赤い蔓の巻き付いたただの石だった。


「ふふーん。そっちは偽物でした!」


 別の方向からふわふわと現れた赤い影が、してやったとばかりに言い放った。冷たい石を抱き締めている私はがっくりと項垂れる。


「私の勝ち!」


 そう言って赤が指を二つ立てた。最近、赤は良いことがあるとよく同じ動作を取る。今度私も真似してみよう。


「空虚」


 赤が私を呼ぶ。


「まだ、空想には上手く対応できない?」

「自分では描けないからかな。どれが何の絵なのか、いまいちわからないっていうか」

「そっか。でも、手加減はしないよ」

 差し伸べられた赤の手を掴んで地面に降りる。

「……次は負けないから!」

「うん!」


 嬉しそうな声色を隠さずその場でくるりと回り頷く赤い影。黄とのかくれんぼをきっかけに、他の色も空虚の形を模倣してくれたわけだが、今ではほとんどの時間をその姿のまま過ごしている。

 おかげで身体の動かし方もこなれてきた。私はまだ色を出せないのに、赤たちは何でもできてしまう。残念ながらこの差は縮まりそうになかった。


「じゃあ次は……お絵描きしましょ」


 赤が歩き出す。私はその横に並んで「うん」と応えた。

 洞窟を出ると広大な砂場が眩い色を反射した。黄色に輝く砂はまだ描いている途中で、遠くには彩色されていない白い領域との境目が見える。なんでも一面を満遍なく塗り潰すよりは、好きに線を引いたり小物を付け足したりすることの方が面白くて後回しになったのだという。


 向こうにそびえ立つ峡谷の方向へ、砂場を横切る形で突き進む。平らだった地面が次第に勾配に変わっても足元は砂や石ばかりだった。

 何度か転びそうになりながら、私たちは特にわけもなく駆け足で砂場を飛び出した。二つ並ぶ断崖の右側は上から赤、黄、青、紫、緑の順で縞模様を描き、それぞれの担当区域を表している。左側の方はまだ白い領域と同じく彩色の途中で輪郭だけ縁取られている。


 私にも色があったら、あんなもの全部塗ってやるのに。

 言葉には出さずに、色とりどりの断崖を眺める。岩壁には様々な色で落書きがされていた。なかには私が貼り付けた花びらの折り絵や手形もある。借りた色で作ったものだ。

 断崖の色分けされた縞模様はそのまま階層となっており、端から端まで洞穴のように細長い草道が一直線に通っている。入り口からは苔に覆われた内壁と不規則な間隔で掘られた穴が覗く。

 こちらは塗り終わっているので、お絵描きをしに行くのは反対側の断崖だ。道と壁の塗り具合さえ見れば進捗具合がよく分かる。一層を塗り終え、二層に着手したところだ。


「ちょっと紫! その花はもっと上に上げてって言ったでしょ!」

「……うえって、誰?」

「はあ? だから、上に上げてって」

「そんな名前しらないよ」

「あーもう! 絵の位置をもっと上にしろってこと!」

「いち……ああ、あげろって誰かにあげるんじゃなくて、そういう」

「最初からそう言ってるでしょ、まったく」

「わかりにくかったんだよ。まあいいじゃん、別に」

「よくないっ!」


 とある空洞の中から騒がしい音が聞こえる。今ではすっかり聞き慣れた声だ。

 案の定、中には乱雑に色を撒き散らす紫とそれを叱る黄の姿があった。黄は言葉で納得させられないと判断して色を伸ばし、慌てて紫が逃げ回る。

 両方とも身体を持っているが、大きさには少しばかり差がある。私と青と黄が同じで、赤と紫は一回り小さい。一番小さいのが緑だ。特に理由があるわけではないが、強いて言えば、大きい方が色はもちろんのこと、言葉の扱いにも長けているように思える。


「みんな~戻ったよ! 楽しそうだね」

「これが楽しく見える⁉ 赤もなんとか言ってよ、紫がさー……」

「ふふ。今の私は気分が良いので皆を褒め称えちゃいます。よくやったね」

「あ……ありがとう。えへへ」

「ちょっと、紫は私の話聞けっての!」


 身体と言葉の使い方は遊びを通じてお互いに学び合っている。基本は私が感じ取った音を声に出し、それを色の彼らが真似して覚えるという形だ。たまに彼らの方から言葉を発見し、皆で共有することもある。

 どうしても言葉が浮かばない時は色の接触を使う。言葉の発達によるものか、意識の同化具合がいくらか緩くなったり、意識を同化せずに触れたりすることも可能にはなった。ただし、相手の考えていることが自分のことのように伝わってくるのはどうにも違和感が強い。

 かといって、私のためだけに、伝達効率の劣る言葉ばかり使わせるのも気が引けるというものだ。どうして私は色を使えないのか。そのことがいつも心に引っかかりを与える。


「ところで、青はいる?」

「え? 要らないわ」

「……? あー、いや、この辺りにいるのかなって」


 黄の背後から紫の気迫が押し寄せる。


「~~っ! 悪かったわね! こ、ここにはいないわよ。……それで、今回はどこまで描くの?」

「そうだね……まずここらへんの空洞と道とか塗って、あとは探索かな」


 話を振れば、すぐに切り替えてくれるのが黄だ。紫の方はすぐに興味をなくして自分の絵を描き始めている。

 言葉をある程度覚えたといっても、そう流暢に自分の考えていることを伝えられるわけではない。声に出すにしろ、色を使うにしろ、意思伝達にはそれなりの労力を要する。

 そのため、最低限の情報交換が終わったら、それぞれの色を塗る遊びに自然と移っていく。私は彼らに色の欠片をもらって装飾する係だ。それ以外だと主に探索を行っている。


「うん。じゃあ青も誘おうかな」


 この辺りの塗装は彼らに任せて空洞を出る。確か青はいつも一層にいたはずだ。

 やや早足で石坂から下へ飛び降り、さっきとは反対の方へ歩を進める。長い草道の角を曲がり、突き当りまで行くと入口が見えた。上から垂れた花茨が印だ。身体を屈めて潜り抜ける。


「なんだ、空虚か。ちょうどいま地図を描いていたところだ」


 地面に描かれた巨大な絵の端に触れながら、青が立ち上がる。背後には岩や花、木などがいくつも置いてある。どれも形が整っていて私が見る分には素晴らしいのだが、青自身が満足していないからという理由でボツになったものだ。もったいない。

 そんな気質のせいか、青の言葉は一番安定している。むしろ安定し過ぎているせいでこちらとしては上手く言い返せないこともしょっちゅうだ。

 地図と称した地上絵を見るとさっきの洞窟から砂場、断崖と内部の草道まで、色のある箇所が全て記されていた。現在進行形で彩色中の箇所はぼんやりとした輪郭だけがある。左端などは特に情報不足だ。


「ちょっと探索しようかなと思ってさ。一緒に行く?」

「そうだな。緑は? しばらく見ていないが」

「んー、どこだろう。赤との鬼ごっこに最初だけいたんだけど。途中からいなくなっちゃった」


 好奇心旺盛で自由気ままな緑は、所在が掴めないことがほとんどだ。もしかしたら探索中に出くわすかもしれない。


「とりあえず行くか」

「うん」


 青と共に来た道を辿り、坂の上へ。しかし今度は右でなく左に向かう。少し進むとすぐに無彩色の白黒が見え始め、やがて有彩色よりも多くなる。空想の及んでいない未知の区域だ。

 私たちが空想で塗り上げた領域はそう広くない。まだまだ小さな箱庭だ。

 白黒は果てしなく続いている。そこは黒い軌条が二本伸びた狭い道だった。赤に会うまでずっと見てきて、それが世界の全てだと思っていた味気のない空間でもある。未知の探索は、色を塗れない私が密かに楽しみにしている遊びだ。


「緑の欠片がある」


 青の手が緑色をした鉱石を拾う。今まではなかったはずの空想の痕跡が残っているということは、やはりここに来たのだろう。


「そういえば、青は皆の空想には参加しないの?」

「しないことはない。だが、私は自分で空想するより、空想する皆を眺めている方が好きだ」緑色の鉱石を空中に置きながら青は言う。「少し離れたところにいると、どこが良くてどこが足りないのかがよく見える。そうしたらすぐに教えられるし、私自身の気づきにも繋がるからな」


 青の一言はいつも長くて、理解するのに少し時間がかかる。

 自信家でもありまとめ役でもある青は、色々と小難しいことを考えているのだろう。たまに自信を誇張することもあるが。


 その後もいくつか緑の鉱石を拾った。私たちはいつのまにかその跡を辿るようにして歩を進めていく。

 ふと、緑の空想が途切れる地点があった。予想に反して緑の姿はない。代わりに枝を見つける。

 これは……茶色だ。初めて見る。

 青が手を伸ばして枝を掴んだ。沈黙の時間が過ぎる。


「……空想だ。意識から離れている」


 手渡された枝を反射的に両手で握った。思わず投げかけたが、視界は澄んでいる。押し寄せる意識の奔流も、自分のなかに異物が交わる感覚もなかった。

 疎通の目的がなく、色から完全に切り離された空想に意識は宿らない。ゆえに接触しても何も起きない。でなければ私は砂場を一歩踏むたびに立ち止まっていたことだろう。


 だが、それでも知らない色がここにいたことは確かだ。

 他の色の存在について、今になってなるほどと勝手に納得する。赤や青以外にも色はあったのか。茶色のことは一応知識として知っていたし、考えてみればおかしなところはない。単に私が、在るものを在るものとして受け入れ、在るはずなのに無いものにまで考えが至らなかっただけだ。


「茶がどこかにいる」

「ちゃ……そうか。緑と一緒かもな」


 答え合わせはすぐに訪れた。狭い道が一気に開けて遠くに緑色の空想が覗く。私と青は走ってそこへ向かった。

 地面は見慣れた草原だ。薄く広がった草原から、いくつもの枝が細々とした線を描いて生えている。全て中央の一点に向かって放射状に伸びており、それらを束ねる幹の茶色はまっすぐ上へと突き上がる。見上げれば遥か上部で幹は再び分岐する。空中に差した根が先端に葉を付け、大樹の風貌を醸し出している。どこかふわふわした不思議な光景だ。

 重要なのは、葉が緑色をしているということ。茶色と一緒にいるのかもしれない。


 しかしもう一つ驚くべき点がある。茶色の量だ。足元の枝から太い幹、そして葉を揺らす根まで、大樹のほとんどを茶一色が占めている。

 色を自在に操る彼らが遊びの一環で空想するといっても、概して一度に生み出せる量には限りがある。皆で同じ場所を塗るのがまさにそのためだ。空想は無限に伸ばせるわけではなく、何より終わりの見えない塗り潰しは達成感も得難く退屈らしい。

 空想ができない私でも分かる。飽きるのだ。その点、空白地帯に堂々と突き立つ大樹はまるで退屈さを感じさせない執念を以て描かれている。


「すごい……」


 圧倒的な物量だ。凄まじいという感想に先行され、忘れていた好奇心が遅れて顔を出す。

 想定外だが、未知の発見には違いない。心地好い音が弾ける。新しい言葉を見つけられそうだ。茶はどのような音を聞かせてくれるのだろうか?

 中空を飛んでいく方が楽だが、結果的に観察も兼ねて表面沿いに登っていくことになった。数多に分かれた枝を辿って幹まで歩いていく。そこからは垂直に上昇する。近くからだとその雄大さがより強く感じられた。


 皆で空想中の断崖と周辺の地域も赤、青、緑、黄、紫の五色でかなりの時間をかけて作ったものだ。そもそも大勢で一つの同じものを塗るという発想自体、最初はなかった。

 白黒の世界に色を塗る。その行為に特別なものを感じるのは、例外の私くらいなのかもしれない。空想をする彼らにとってそれはできて当然で、おそらくそれをする以外の選択肢がない。私が一緒にやりたいと言い出さなければ、今ごろはそれぞれ好き勝手に塗りたくっていたのではないだろうか。


 ならばこの大樹を描いた茶は、緑を付け足すつもりで空想を始めたのか。あるいは偶然出会った緑が付け足したのか。それも二色を見つければ分かる話だ。

 緑は色同士の接触をあまり嫌がらない。茶とすぐに打ち解けていれば幸いだ。言葉を一から教えて事情を説明するのは大変だろう。


 幹を登り切る。根は枝より本数が少なめだがその分だけ一本が太い。そして一本から二本、二本から三本へと分岐し、かと思えばまた合流するなど、複雑な網目模様を描いている。見た限り、全ての根先に葉があるようだ。

 返しになっている葉を飛び越え、一番上に到着する。いつ意識が襲ってくるかと警戒したが杞憂だった。

 少し離れた上空に、緑が身体を丸めた状態で浮かんでいる。その傍らにいるのが同じ身体の形と体勢の茶色だ。緑の真似をしたのだろうか。しかし一部、指が六本あったり崩れていたりと不自然な箇所が見える。


「あれ、青だー! くーきょもいるー!」


 向こうも気付いたらしい。緑が身体を伸ばし、葉の上に立つ。すると茶もふわりと降りた。足を付けるようで付けていない浮遊感だ。


「あのねー、緑ねー、この子にいっぱい教えたよー」


 どこか楽しげな緑は身体を大仰に動かして伝えようとする。ほどなくして茶が近寄り、似た動作をしてみせる。


「緑、この大樹、一緒に描いたの?」

「うん。描くの、すっごくはやかった。あー、そういえばー、ほかの色もいたよー」

「ほかの色って?」


 良い感じの言葉が出ないのか、ずいぶんと歯切れが悪い。


「えっとねー、うーん……」

「この色の名前は茶だよ」

「ちゃ! 緑はねー、ちゃとこれ描いたのー。ほかの色はねー、ほかの描いてた」

「どういうの?」

「ぐちゃぐちゃしてた! ちゃいろじゃないけど、ぐちゃぐちゃだった!」


 他の色、ぐちゃぐちゃ?

 茶以外にも色がいて、大勢で空想を描いた、ということまでは分かる。しかしぐちゃぐちゃとは何か。

 初めて聞く言葉はわかるようでわからない。直接経験していないためか、他の色も、それらがぐちゃぐちゃする光景も、それを表現する言葉も思い浮かびそうになかった。


「空虚、ここは私がやる。下がっていろ」


 言って、青が色を伸ばした。緑も色を出す。触れ合う時間はわずかだった。だがそれで十分なはずだ。

 色は全てを一瞬にしてさらけ出せる。それに比べて発する側も受け取る側も相応の知識を要する言葉に、私はどこまで頼ればいい? これは、彼らを私の次元に落とす枷ではないのか?

 無駄な考えを追い払っていると、青が固まったまま動かないでいるのが見えた。何やら深く考え込んでいる様子だ。


「青? どうしたの?」

「……え? ああ、いや、なんでもない。まず、他の色とやらはこの近くにいる。探せばすぐ見つかるだろう」

「じゃあ、ぐちゃぐちゃっていうのは?」

「どうやら……彼らは、空想を混ぜたみたいだ」

「空想を、混ぜた?」


 混ぜる、とはどういうことだろう。重ねたり塗り潰したりするのとはまた違うのか。


「緑も見ていただけだから詳しくはわからないな。とにかく、二色……茶まで含めれば三色を混ぜていた。意識が衝突しないのか? 気味が悪いな……」

「そうなんだ……」

「でも、多分重要なのはそこじゃない。彼らには、なんというか……空想を、させる……そんな存在がいる」


 言葉を探して、青は捻り出すようにそう言い切った。

 空想をさせる。自らするのでないなら、それは出来ないからではないだろうか。ではなぜ出来ないのか。


「その存在はここにいない。もっと上の……外側に行った」


 青が言い終えると同時に仰いだ方を、私もつられて仰ぎ見る。


「え?」


 そして視界に映るのは、遥か彼方まで続く無限の木の列だった。整然と、あるいは喧然と、冠に緑色を湛えた木が浮かんでいる。それが一つ、二つ、三つ……数えるのも馬鹿馬鹿しいほど無数に立ち並んでおり、白い背景に木があるのではなく、むしろ木の隙間に白が覗くと言って然るべき密度で頭上を彩っているのだ。


 私はそこに、おぼろげだが恐ろしく秩序立ったなにかの模様を見た。

 描き方としては、今立っている大樹と何ら変わらないように見える。途端に違和感が襲った。これは空想ではない。直感がそう告げ、不協和音を鳴らす。

 赤や緑の空想を見ている時に感じる温もりや爽やかさ、ましてや先ほど大樹を初めて見た際の重圧感とは違う。どこか調子の外れた世界を訪れたかのような息苦しさ。ひどく、得も言われぬ違和感を覚えるのだ。足下に感じた不安は膝を震わせる。さっきの感動は錯覚だったのか?


「……違う、空虚。あれよりさらに上だ」

「え? 上って、もうなにも……」

「あの白い天井の向こうだ」


 いよいよ、青が何を言っているのかわからなくなってきた。天井とは、まさかあの果てしなく続く真っ白な空間のことを指しているのか?

 さっきから話についていけない。色を混ぜるだの、天井の向こうに誰かがいるだのと、聞くだに理解できないことを並べているではないか。天井の向こう側なんて、想像したことも——


「——いや……この世界には、形がある。輪郭がある。じゃあ……世界の外側が?」

「残念だがそこからは私にもわからない。緑の記憶はそこまでだ」


 それは、ほとんど肯定の言葉に近かった。おそらく私と青は今まったく同じことを考えている。言葉を交わさずとも、色に触れずとも分かった。

 だって、この好奇心を抑えられるわけがないのだから。


「これは、少し……怖いな」

「……やめる?」

「冗談はよせ。行くさ」


 震えを誤魔化すように、青が力強く言う。

 恐怖の付随する好奇心はなんだか新鮮だ。それでも行きたいという思いは強く空虚の身を鼓舞する。

 これでいい。これでこそ、探索のしがいがあるというものだ。


「緑はー、ここにいるねー。ちょっとくらくらするから」そう言って茶の方を振り返る。「ちゃはー、どうする?」

「私たちは行くけど……どうかな?」

「……」


 返事はない。身体の作り方を緑に教わったばかりで、言葉はまだ覚えていないのだろう。色に触れれば考えていることはすぐに分かるが、この昂りを今は消したくない。静かに大樹から飛び立つ。

 木の密集した領域は思いのほか遠くにあるようだ。飛び立ったはいいものの、途中で勢いがなくなって中空に止まってしまったのを、後ろから来た青が空想を足場に押してくれた。


 異質な未知の気配を掻き分けていく。距離が縮まるほど、それはより濃くなる。

 遠くから見た時はよくわからなかったが、木はそれぞれ色が違っていた。見たことのない色もある。どれも別の配色で、しかし完全に同一の木の形をしている。先に茶と緑の大樹を見ていなければ木に見えてすらいなかったかもしれない。

 適当な一本に降り立つ。幹が灰色で、根の先に生えた葉が橙色だ。初めて見る色そのものに真新しさを感じてはいる。色の名前も音として聞こえる。しかしながら、やや物足りない。

 これらの色はこのように描かれるべきではない。


「これが色を混ぜたってこと? 音が、なんか変な感じだ」

「ああ。そして、あれが……」


 木の群れよりもさらに上。青の言ったことが本当なら、世界を形作る輪郭の部分を指差した。


「天井が近い?」


 ひたすらに白いがゆえ距離感を狂わせ、そもそも存在するのかどうかもあやしかった天井が、今はやけに近くまで迫っているように思える。

 高鳴りが止まらない。もう後のことなど考える余裕がなかった。好奇心の欲するまま、ただ身を投じる。

 いまだかつて、これほどまでに高く飛び上がったことはなかった。あの大樹だけでも十分な高さだったのに、その上の、そのまた上だ。

 木の群れに接近した時と同じように、遠くからではわからない些細な発見があった。やはり天井は近い。真っ白なのは変わらないが、なぜだか近付いているという感覚がある。


 ややあって青が進むのを止めた。私もちょうど勢いが消える。

 いつの間にか、前には色が迫っていた。赤、緑、そして青。きれいに並んだ三色を一つの塊として、それが規則正しく上下左右に並んで天井を埋め尽くしている。木の群れも大概だったが、こちらに至っては寸分の隙間もない。白が全て塗り潰されている。

 少し前までは白い天井が見えていたはずだ。ほんのわずかな時間でこれが描かれたとすれば、その速度は尋常ではない。


「突破してみよう」言うが早いか、青は自身の色を三色の天井にぶつけた。「一部だけ上書きして、この壁を突き破る」


 その箇所が軽快な音と共に弾け、向こう側を露わにする。

 新しい景色が見える。そう思っていた。


「  」


 そこには何も無かった。

 青に引っ張られて穴の外に出る。三色の眩い暗幕を抜けると、途端に空気が澄み渡り、さわやかな解放感が吹き付けた。


「ああ……」


 今まで自分のいた場所がどれだけ窮屈で味気のない空間だったのか、世界に対する認識がどのような姿かたちに囚われてきたのか、全てをこの身に感じる。真っ白な壁に覆われただけの箱庭とは違う。



 わたしたちは空をみた。

 ここは本当に果てしなく、近付きようもない  が広がるばかりだ。



 それが何なのか、まともに理解もできずに茫然と仰ぎ見ていた。今までと比にならない感動が押し寄せているのに、音はそれを表現する言葉を教えてくれない。そこにあるのにまるでないように振る舞う。

 やりきれない衝動が渦を巻く。この感覚は二度目だ。


 どこに発散してやろうかと思って仰ぐのを止めると、一つの影が歩いてくるのが見えた。地面と同じ白と黒でできたそれを捉えることができたのは、あまりにぎこちない動きで向かってくるからだ。だらりと垂れた腕に、とぼとぼと頼りない足取りのその色。


「違う。色、じゃない」


 妙な感じがあった。白と黒の二色で一身だからとか、なぜか空虚と同じ形をしているからとか、そういう問題以前の引っかかりだ。それはぎざぎざと、色を破って雑に張り付けたような、格好悪く、ただちに崩れ落ちてもおかしくない、ひどく不気味の様相を呈していた。

 色そのものでなく色を纏ったその姿は、私とそっくりだった。


『……るー、る、をま、森、ましょ、う』


 しゃがれた声が反響する。一瞬、誰のものかわからなかった。

 重く、空気をひび割れさせる声の出処は、あの白黒だ。複数の声が重なっているようで、すぐ近くで囁かれているような、あるいは遠くから声をかけられているような判然としない感覚。

 白黒は一歩踏み出すたびに塗装が剥がれて足元に薄黒い跡を残す。声に負けず劣らずの固い音を立てる。


 特に理由もなく、私と青は地面に足を着けていた。

 二つの足で踏ん張らなければ姿勢を保てない。

 あの白黒よりも高い場所にいてはいけない。

 そんなことはないのに、自然とそんな風に思えて、声がもたらす重みに無意識のうちに従っていた。


「……居心地が悪いな」


 まさにその通りだった。あの白黒を前にすると、何をしたわけでもないのに身が委縮する。

 そもそも、何かをしたからといってどうなるのか。頭の出口に引っかかって思いつかない言葉の一つが疑問を刺激する。

 あの白黒は何が言いたいのだろうか? 言葉が話せるということは、茶と違って会話が成立するはずだ。


「誰だ? なにが言いたい?」


 捻り出した青の声は震えている。

 行動一つ一つに緊張感が付随する。あと数歩で辿り着く距離だ。


『この……世界、に、て……空想、を、禁じ、負、す』


 重い声と裏腹に、言葉はたどたどしくて断片的だ。注意深く聞いてもすっと入ってこない。感情がこもっていないのか、ねっとりと身体の表面にしばらく纏わりつく。表現するための声をこれほど濁った音で出せるのも不思議だ。


『そと、へ、の……出、入り、を……禁じ、負、す』


 おもむろに迫った手が異常に大きく映った。視界が真っ黒に潰される。

 途端に足に力が入り、地面と密着して動けなくなる。空気が重い。自分の意思と異なる方向に身体が傾く。

 もはや立っていられなかった。思わず膝が曲がり、後ろに転ぶ。そこには先ほど入ってきた穴があった。


「くうきょ……くっ!」


 青も同様だった。姿勢が崩れる。駄目だ。空中に止まれない。


 落ちる。

 空が遠くなる。狭い穴を隔てて遠ざかっていく。

 赤、緑、青の並びは遠ざかるにつれて互いの境界が薄くなり、一つに交わり、何事もなかったかのように白い天井に変わっていた。


「わぁー⁉」


 背中が強く打ちつけられる。驚いた緑が大声を上げた。

 大樹の上だった。少し遅れて青も落ちてくる。空はすでに遠く、どういうわけか重い何かがずっと圧し掛かってきている。身体を起こそうとするも言うことを聞かない。

 しかたなく葉の上で横になり、落ちてきた穴を仰ぐ。ほとんど見えないその隙間から、あの白黒が覗いている気がした。そして言い放つのだ。『禁じます』と。


「くうきょ、どうしたのー? なんか、緑、身体が重いよー。変な声も聞こえた!」

「わからない……なにも」頭が混乱しているのだろうか? 私はこの状況を楽しんでいる。「でも、それっていつか分かることができるってことだよね」


 世界は未知で溢れていて、手が届く距離にある。それがたった今証明されたのだ。行き場を失った衝動が身体に浸透するのを感じた。


「わくわくしてきた……! 青、行こうよ! あの上にもう一回行って、今度は全部話してもらうんだ! それが駄目ならもう一回!」

「……」

「青?」

「……ああ、そうだな」


 葉の上に膝をついた青は、とても静かな声で返事をした。すぐに立ち上がろうとせず、何事か考えているかのように動作が遅い。


「だが、その前に他の色を探して帰ろう。確かめたいことがある」


 休憩してからいくつもの木を飛び移った。見えない圧力により身体が思うように動かないが、走り回ったり少しの高さを飛んだりする程度なら問題ないようだ。そして彼らはすぐに見つかった。

 灰色と橙色。青の言っていた二色だ。茶と同じく言葉は話せないようで、青が色による接触を試みた。


「……やはりか」

「どうしたの?」

「こうして触れても、何も伝わってこない。……空想が、できない」


 言葉は意識の表面で滑り、理解されずにどこかへ飛んでいく。なにがなんだかわからないまま、私たちは赤たちのいるところへ戻った。

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