第一章 トキの産声を上げる

虚構と色彩


 1


 ちぐはぐだ。


 なにもかもが散り散りになって遠い。おどろおどろしい奔流のなかで、寸断された感覚が頼りなくたゆたう。 

 それらを掻き寄せ、繋ぎ合わせようとする。無理だ。それらは直接的な形を持たない。


 ならば逆のことをすればいい。それらでないものたちを固め、外から包みこんで輪郭だけを形作っていく。そうして出来上がるのは、空の殻。

 これはなんだろう。



 これは 空虚 だ。



 空虚が動く。単調で、退屈な場所だった。白と黒の道と、壁と、天井の合間を進む。しかし進めど進めど距離は縮まらない。そもそもどこへ向かっているのか?

 わからない。

 目的地という名のどこかへ、わけもわからず漠然と進んでいる。それがあるのかも不確かなまま。


 ふと、妙な音に引っ張られて進むのを止めた。小さな穴だ。その入り口から覗く奥の方に、なにか意識の袖を掴むものがある。その方向に吸い寄せられていく。

 白く果てしない空洞の先に、花が咲いていた。あかるい色をした花だ。


 空虚は全てを知っている。世界の成り立ちも、物事の理屈も。赤い意味も全て。

 それなのに無視できなかった。そこだけ赤く象った花に釘付けになり、動けない。初めて感じるざわめき。


 これはなんだろう。

 いや……知っている。赤色だ。しかしこの感覚は知らない。

 自覚した途端、意識が鮮明に晴れ上がる。今までが夢心地の浮浪のなかにいたかのように、急に世界が鮮明な輪郭を纏ったように思えた。


 赤い花が、見ている。

 空虚が見られている。赤の、その視点に。


 この空虚と、あの花は違う。自他というものだ。知っているつもりだったが、ちょうどいい言葉を探すのに時間がかかった。一度認識してしまえばその意味はすっと浸透する。

 空虚は自で、赤い花は他だ。いま、そう感じた。 


 視点が強く絡み合う。

 花が震えたかと思うと、いくつかに分裂して赤い花びらを撒いた。白と黒の世界に鮮烈な色をした破片が突き刺さる。花びらは中空を漂い、周囲をほのかに染め上げている。甘いものが淡く香った。

 好奇心、というものを自覚する前に、空虚は花びらに触れていた。

 衝撃がどっと込み上げる。


『どうして。どうして私は赤いの。どうして私以外は赤くないの。赤くないってなに? 赤いってなに? 私も赤くなくなるの? 赤くないのは私ではない?

 うるさい。あつい。

 わからない。こわい。

 全部私にしなきゃ。私じゃないものを全部染め上げないと。

 全て、赤に』


 意識が遠く引き伸ばされ、極限まで薄くなり——そして消えた。


 白を探す。黒を求める。気付けば空虚は空洞を出ていた。元いた退屈な場所だ。だが、退屈でいてくれることにこれ以上ないほどの安心感を得る。

 ここが落ち着く。何もない。平坦な無彩色が心地好い。


 しばらくそこから動かなかった。やがて思考が静まり、言葉は過去を掘り返した。

 さっきのあれはなんだったのだろう?

 覚えているのは、少し気になって赤色に触れたこと。次の瞬間には視点が塗り潰されていた。とめどない激流に何もかも洗い流され、居場所を失う気がした。


 誰の?

 私の、だ。


 赤い花は私だった。私は自分の色を発散しようとした。

 いや、私ではなかった。それは私になり代わろうとした赤い意識だ。


 少しの間、迷った。さっきの赤い花をもう一度見たい。しかし、あれをまた体験するのは怖い。そこで初めて自分の持つ好奇心に気付いた。

 心が浮足立つ。怖さよりも興味の方が圧倒的に優勢だった。

 再び空洞の中に入る。赤い花びらは変わらず中空を漂っている。さすがに触れるのは気が引けた。


「あー」


 赤色を十分見渡せるところまで近付き、それでも注意しながら言葉を差し出した。

 音を発したのは初めてだ。

 知ってはいても、いざ直接扱うとなるとそう上手くもいかない。そもそも、なぜ私が音を出したのか私自身ですらわかっていない。


 なぜだろう。ただ、赤い花びらに向かって何かをしようとしたら勝手に出ていた。

 音そのものは好きだ。赤色を最初に見た時も、そこから染み渡るような興奮を得た時も、新鮮な感覚と共に音が聞こえた。言葉から意味を引き出して、このように考える時もそうだ。何かをする時には、常に音が付いて回る。


「あー……あー」


 空虚から意味を持たない音が流れ出る。赤い花びらは揺れ動く。音で触れるだけならあの衝撃が訪れないことは幸いだが、伝わらなければ無駄なことだ。

 どうすればいい? 全知をもってしても思索は答えを見つけられず、私もその場から動けなくなった。

 思い浮かべる意味と、言葉と、それを音に乗せて表現することは違う。それ自体が新たな発見でもあった。


 私はその音が形になるまで続けた。何度繰り返したのかはわからない。思考に浮かぶ音を道標に、ひたすら音を出した。赤色を初めて見た時、赤色に呑み込まれた時、計り知れない熱さを感じた。確か、こんな音だった。


「め、ら…………」


 気持ちが落ち着き、空虚を衝き動かしていた刺激にも慣れてきた頃、いつしか音は声になっていた。好奇心が再来する。漂う赤色を見ながら、私は聞こえる音をそのまま声にする。


「めら、めら……」


 完全な模倣ではなかった。それでも言葉になったという達成感があった。


「めらめら……めらめら! めらめら!」


 嬉しさに耐えきれず、同じ言葉を連呼する。やった。この言葉は意味を持っている。

 赤い花びらにもきっと伝わるだろう。私はそのことを知っていた。

 大きく言い放った弾みで、思わず花びらに近寄る。その先端がふいに動いて私を掠った。


「あっ」


 またあれが来る。衝撃が襲ってくる。

 こわい。こわい。いやだ。

 咄嗟に離れようとするが触れた事実は変わらなかった。視界が真っ赤に染まり、ざわざわと意識がにじり寄ってくる音がした。


『赤く、周りを彩る。赤い。真っ赤。でも飽きた。

 退屈だ。なにか面白いものはないの?

 めらめら。めらめら? 楽しい。

 もっとして。もっと聞かせて。

 めらめら、めらめら。めらめら。めらめら。めらめら。めらめら。めらめら。めらめら。めらめら』


「めらめら、めらめら、めらめら、めらめ……ら……あ」


 それが自分の声だと、やや遅れて気付く。


「めらめら」


 今一度声に出し、自分の意思で動いていることを確認した。思考もできる。これ以上は何もないと理解する。

 やはり、あれは直接触れるとやってくるようだ。意識が強制的に塗り潰され、なにも考えられなくなる。自分ではない赤い思考に上書きされるのだ。


 自分が自分でなくなる感覚はかなり苦しい。正確にはその苦しさすら置き去りにして赤色に上書きされるため、それを感じる暇はない。そういえば、どうしてか、音も聞こえなかった。押し殺された沈黙のなかで思考だけが氾濫していた。

 今回は、最初よりはまだマシだった方だ。混沌とした濁流が押し寄せてくることには変わりないが、後半はかろうじて聞き取れるような内容だった。


 あれは私のかけた言葉を繰り返していた。そのためか、うっすらと音も聞こえた。

 私の声をどうして赤い花びらも発していたのか。いや、そもそもあれは声ではない。

 あれは赤い花びらの意識だ。あれの考えていることが、一切の濾過や風化もなしに飛び込んでくる。私の声が、私の思っていることのごく一部しか伝えられないのに対して、だ。


 それとも、同じ……なのだろうか?

 私が考えていることを声で伝えようとしたように、向こうも意識を孕んだ色でもって意思伝達を試みたのではないか。


 一度それっぽいことを思いつくと、それが本当のように思えてくる。きっとそうだ。

 だったらもっと声をかければいい。赤い花びらが伝えようとすることを全て言葉で言い表すことができれば、わけのわからない思考に支配されずに言葉として聞き取れるだろう。

 なぜだかできる気がしてきた。天才的な発見に歓喜し、私は別の言葉を模索する。舞う花びら。積み重なり、飛んでいく赤色。


 ひらひら。ぱたぱた、ざっ。

 楽しい。そう思うまでもなく私は続けた。


 そんな中、赤い花びらがふと動きを止めた。一か所に集まって小さく纏まった赤色はひとたび震えると、一斉に飛んでいく。向かう先は空洞の奥だ。追いかけることにした。

 この空洞は外と同じく白い。一体どこまで続いているのか、果てしない空白は教えてくれない。


 そう遠くないところで赤い花びらが円を描いて舞っていた。その中心に知らないものがある。

 黄色い岩だった。ずっしりとした岩はどの方向から覗いても動く気配がない。おかげでよく観察することができた。


「ごつごつ」


 ひとひらの赤い花びらが軽やかに飛び回る。また真似をしているのだろうか。それに当たらないよう気を付けながら、私はさらに黄色い岩に近寄っていく。

 色と、形と、質感と、新たな音を出してくれる要素はたくさんある。それらを発見するたびに気分が舞い上がり、もっと知りたいと思うようになる。


「ごつごつ……ふさふさ?」


 黄色い岩の下に、何か違うものが見えた。赤くはない。

 これは緑だ。表面を薄く覆う形で苔がむしている。よく見たらそれは地面に続いており、そこから空洞の奥へと扇状に広がっていく。

 最初からそうだったのか、だとしたらなぜ気付かなかったのか、鮮やかな草原がそこにあった。


 それだけではない。青、紫、初めて見る色がいくつも隠れている。

 赤色がそこに交じる。緑色は赤い花に絡みつき、下から支える。それは茎だ。まるで最初から一緒だったかのように、赤と緑は自然な調和の色をしている。青と紫、そして黄も花の形を真似する。絡み合う。彩り合う。


 私はしばらく呆けて、色々が戯れるのを眺めていた。

 内なるざわめきが肥大化していく。音であふれる。情報と感覚がない混ぜになり、空虚を満たしていく。


「きれい……」


 私も。

 私も、あれがしたい。

 色を広げて、世界を塗り上げたい。

 綺麗だ。羨ましい。真似したい。しかしこの空虚をどう動かしても、色は出ない。滲みもしない。


 ごう、と己のうちで渦を巻く音が空しく響く。発散しようとして、それがなにかわからず立ちすくむ。

 みんなと同じことがしたいだけなのに、どうしてダメなのか。

 気付けば私は草原に飛び込んでいた。


『楽しい。楽しい』『緑でいっぱいだ』『面白いな』『これはなんだろう? 触れてみたい』『めらめら、めらめら』『青色だ。初めて見た』『気持ちいい』『楽しいね』『そうなのかな』『ごつごつ。面白い。めらめら』『紫色に少し似ているね』『きらきら?』『声が聞こえる』『本当だ』『聞こえる。聞こえる』『でも見えない』『声、どこ?』『見えないけど聞こえる』『あなたは、誰?』


 はっと我に返る。草原の外だ。果てしなく真っ白な空間に、懐かしさのようなものを感じる。

 ざわめきは治まっていた。恐ろしく冷静になった意識のなかで先の言葉が反響する。


 声が聞こえる。でも見えない。あなたは、誰?

 わからない。誰って、なに? なにが、誰が、見えないというのか?

 混乱。困惑。疑問の音ばかり響いて考えがまとまらない。


「めらめら。ごつごつ。めら、み、みら……みえる。みえ、る。見える?」


 赤色が、黄色が、緑色が、青色が、紫色が一斉に動きを止める。視点が集まる。皆、こちらを見ている。そんな感じがした。


 これは気のせいなのだろうか。

 自分が空虚であることを、本来あるべきでない存在だということを知っている。

 知識は解釈の道具だ。知っているのと知っていないのとでは雲泥の差がある。


 しかしなぜだろう。

 色が溢れるこの空間では、知識などほんの少しの経験にも劣っているように思えて仕方がない。


「た……」


 急に意識を孤独感が襲い、たまらず音を出す。だが全てが遠い。

 認識されず、証明されない存在は無いも同然だ。色を持たない空虚は受け入れてもらえない。

 声だけが、私と彼らを繋いでくれる。


「たすけて」


 かろうじて捻り出した声は、泣き声に似ていた。

 白く伸びた地面に緑色が滲む。それは大きく螺旋状に回りながら私の方へ向かってくる。手前で止まったかと思うと、勢いのままふわりと溢れ出て数多の草と花びらを舞い上げた。

 綺麗だと思った。いや、問題はそこではない。迫っているのだ。また色に触れ——


『遊ぼう! 遊ぼう! これ、あげる!』


 鮮烈な色が咲きこぼれた。

 一瞬の暗転。すぐに構えるが何も起きない。色も消えている。


 違う。すでに起きた。すでに触れた。さっきの音は彼らの意識によるものだ。依然として雑音が多く押し潰されそうな恐怖もあったが、彼らの伝えようとしていたことはわずかに感じ取れた。

 たくさんある色とりどりの花びらが中空に浮かんでいる。しかしそれには明確な形があった。形、というよりは輪郭に近い。無数の小さな花びらが、空虚を覆い隠すようにして全体に纏わりついている。


 これは私の身体だ。

 見えない私を、見えるように彩ってくれた。

 それはつまり、私の言葉に返事をもらえた、ということでいいのだろうか。私の声は伝わったのか?


「あそぼう……うん、遊ぼう!」


 花嵐がやってくる。とりあえず、あれこれ考えている暇はなかった。

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