47

 

心臓の音が体内で早鐘のように響く。それでも僕は、足を止められなかった。石段を降り終えた所で何かにつまづき、腕の反応が遅く膝を地面に打ち付ける。痛みと微かな熱さが膝から体へほとばしったが、僕は怪我の箇所には見向きもせずに、歯を食い縛って体を起こした。


デスクワークばかりで運動不足がたたったのか、息切れが速い。心拍も跳ね上がるが、無理矢理大きく息を吸っては吐いて、必死に苦しさに蓋をしようと試みる。


僕はようやく、灯火の言葉の意味を知った気がした。どういう経緯、推測かは分からないが、彼女はこの偶然を予測していたのだ。だからこそ、僕に寺を訪ねるように促したのだ。二人の行動が、偶然が、重なるように。


ようやく拓けた道に出て、僕は一瞬息を整える。忘れたように膝の痛みが全身を撫でたが、構うことはしなかった。


肩で呼吸を繰り返し、辺りを見渡す。道の先に、その後ろ姿があった。


たったいくつかの偶然が、一縷の奇跡に触れるなら。僕はそれを握りしめながら、大きく声を上げた。


「一葉!!!」


道行く人が、突然の声に驚きのあまりに振り返る。視界の端にそれらを収めながら、僕は遠くの車椅子の後ろ姿だけを見ていた。しかし車椅子の人物は、振り返る事はなかった。一瞬だけ止まり、再び動き出してしまう。


希望は、確信へと変わる。僕は痛みと疲れに震える足を無理矢理動かして、再び走り出した。踏み出すたびに膝から訴えられる痛みも、苦しくなる呼吸も、構わなかった。


車椅子を抜き去り、その前で足を止める。膝に手を置き項垂れるような格好で肩で何度も息をする。呼吸を整えなければ、言葉が出ない。


ゆっくりと顔を上げる。そこには、今にも泣き出しそうな彼女が、車椅子の上で口を覆っていた。


現実で、色のある世界で、初めて、出逢った。


「・・・一葉。僕は」


次の瞬間、肩を勢いよく後ろに引っ張られた。その慣性で自然と振り向く形になった僕の視界の目の前に、小さな拳が映った。


瞬間の、衝撃。


小さな拳が僕の頬を打ち付け、その勢いで僕は膝をつく。膝が思い出したかのように痛みを訴え、口の中には鉄の味が広がった。痛みをこらえて何とか視線を上げると、目の前には鬼のような形相で睨むように僕を見下ろす妹の一花の姿があった。彼女は怒りに拳を震わせている。


「お前、・・・ふざけるなよ!」


一花は目を見開きながら、一歩足を踏み出して拳を振り上げた。僕は一度だけ呼吸を整えて、目を瞑る。


これが、僕が選んだ選択。その結果なら、どんな痛みも、どんな苦痛も、受け止めなくては。僕は次に来る痛みを、耐えようとした。


しかし拳が振り下ろされる事はなく、機械の動く音だけが耳を撫でた。


「危なっ!ちょっと!」


安堵の息を吐いて恐る恐る目を開けると、一花の下半身に被さるようにして車椅子の彼女が倒れ込んでいる。一花は困惑した様子でその車椅子を支えているようだった。


「何で止めるの!!私は!!」


一花は凄い剣幕で彼女へと声を荒げている。一花の後ろ姿に隠れて、僕の方から彼女の表情は見えない。一花は車椅子の体勢を立て直すと、一瞬止まったあと、凄い勢いで立ち上がった。


「あーー!!!もう!!!」


まるで天に吼えるように、突如として一花は大声を上げた。道行く人は何事かと訝しげな視線を向けてくる。何が起きているのか分からない僕は、ただ呆然としていた。


「・・・好きに、して。終わったら、連絡して」


そう呟いた一花は僕の方に振り返る。しかし、視線に宿る怒りの色濃さは何も変わっていなかった。


「・・・何かしたら、ぶっ殺すから」


強い口調で僕に吐き捨てた一花は、自分を落ち着かせるように肩で大きく息を吐いてから、僕と彼女を残して歩き出した。ようやく一花が場所を離れたことによって、僕の目の前に再び彼女が姿を表す。彼女は少し心配そうな表情で、遠ざかる妹を目で追っていた。


「・・・一葉」


僕が呼ぶと、彼女は僕に視線を向けた。車椅子を押して近付いてくると、泣きそうな表情で僕の頬に手を伸ばした。


「・・・あ、気にしないで。僕が悪いから」


何とか不安を払拭しようと笑顔を繕おうとするが、口の中の痛みが僕の表情を歪ませる。それがより心配の種になったのか、彼女の表情は酷く申し訳無さそうな空気をはらむ。


視界が、情報を映す。車椅子に座る、彼女の姿。喉元から覗く、微かな手術痕。今にも泣き出しそうな、その表情。


色のない世界を思い出す。その足で立ち、言葉を交わし、純粋に明るく微笑む彼女。


僕の瞳から、涙が零れた。


こんなにも、彼女を変えてしまったのは。


紛れもない、僕だったから。


「・・・ごめん」


涙を流しながら、それでも僕は彼女から視線を逸らさずに、始めに口を付いたのがその言葉だった。意味もなく気休めにもならないものだったが、それしか出て来なかった。


僕の涙につられたのか、彼女も頬に涙を這わせた。僕の言葉に、何度も小さく首を振る。


どんな謝罪も、言葉も。


過去は変えられない。失くならない。


なら、出来るのは、


今を、未来を。変えることだけ。


それが、君の為になるなら。


それが、僕の為になるなら。


「・・・僕は、君が、好きなんだ」


彼女の膝に乗る手に、そっと僕は包み込むように手を置いた。


「だから・・・、僕が君の、足になる。僕が君の、声になるから。君が救ってくれた命を、君のために、使いたいから」


彼女は、困惑の表情のまま、僕の頬に当てていた手で口元を隠した。瞬きの度に、雫が伝う。


「・・・側に、いさせて、くれないかな」


僕はただ、答えを待った。僕の掌からすり抜けた手が、再び顔を覆ってしまう。肩を震わせながら、彼女は声もなく泣いていた。


 どれほど、そうしていただろうか。ようやく彼女は顔から手を離し、必死に両手で涙を拭う。心配そうに覗き込む僕の顔を見て、彼女は微笑んで、頷いた。


その笑顔は、色のない世界で見慣れた、あの笑顔だった。

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