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「あれから、丁度一ヶ月か」灯火はそう零しながら、ソファに腰を落ち着けた僕の前のテーブルにそっとコーヒーを置いた。「例の件か?」


「・・・そんなところ。ありがと」僕は目の前に置かれたカップを持ち上げ口を付ける。鼻には芳醇な香りが、喉には熱さが訪れる。そっと息を吐き、カップを置いた。


「進展があったんだな?」灯火は相変わらずの黒ずくめで、静かに足を組んだ。「その様子だと、良い話ではないだろうな」


「・・・そうだね」僕はソファに体を沈み込ませ、足の上で掌を組んだ。「・・・明日、引っ越すんだって」


「それは、誰からの情報だ?」本題に入って興味をそそられたのか、灯火は少し前のめりになった。


「・・・妹さん」僕はそう返して、今日あった出来事を順に話した。いつも通り寺に足を運んだこと。突然目の前に現れた彼女に似た女性。彼女の態度。そして、彼女の言葉の数々。


「一ノいちのせ一花いちかか」灯火はそう呟いて、皮肉めいた笑みを浮かべた。「その様子だと、相当根に持っているようだな。事故の顛末を」


「妹を、知ってるの?」


「いや?調べたと言っただろう?素人の調査ではない。直接警察から調べ上げたんだ。家族構成ぐらい簡単に手に入るものさ」灯火はカップに口を付けると、宙を仰ぎ小さく微笑んだ。彼女にとっては珍しい仕草だった。「姉が葉で、妹が花か。確かに、姉妹に付ける名前としては的を得ているな。葉が育つから花は咲く。葉が守ることで、花もはぐくまれる。親御さん、良い感性をお持ちだ」


「・・・そうだね」僕は目を瞑りながら溜め息を吐く。しかし瞳の裏に映る表情は、拒絶。憎悪。僕はその残滓ざんしを振り払うように目を開けた。


「それで?」目を開いた僕の目に映ったのは、不自然なほど首を傾げて僕を見つめる灯火だった。その瞳には、微かな興味が窺える。「君は一体、どうするんだ?」


「・・・どうも、しないよ」僕はその瞳を避けるように、視線を伏せてカップに口を付けた。「明日行って、・・・それで終わりだよ」


「・・・納得、出来るのか?」


「・・・うん。するしかない」


会おうとした。だから僕は、僕を許せる。


会えなかった。それは当然で、仕方ない。


だからこそ、彼女の願いは叶えられた。それら全てで、納得するしかない。


「・・・私にわざわざ話に来た理由は?ただ、進捗を報告しに来ただけかい?」


「・・・うん。灯火には、色々助けられたから。だから僕に話す義務があるし、君には知る権利がある」


「・・・ふふっ。律儀だな。本当に君の反応は、面白い」灯火はこらえるように体を震わせながら笑っていた。彼女の態度に僕が首を傾げると、彼女は失敬と軽く咳払いをして、口を開いた。「いや、ね。私はてっきり、一ノ瀬一葉の住所を聞きに来たと思ったのだが、ね」


「知ってるの?」


「いやだから言っただろう?警察の調書なんだから、それぐらいわけないさ」灯火は鼻で笑い、足を組み直した。口元には得意の、嘲笑に似た笑みを浮かべている。「それで、聞くかい?」


それは僕の中で、一瞬の葛藤だった。住所さえ聞けば、彼女には必ず会える。浮足立つように刹那に現れた感情を、理性が押さえつける。


そこまでしてしまえば。


それは完全に、裏切りだ。


そこまでした僕を、僕は許せない。


そしておそらく、彼女も、許さない。


本当にただの、自己満足になってしまう。


「・・・いや、いい」僕は小さく首を振って、ソファに深く身を預けた。宙に視線を向けて、何かを捨てるように溜め息を吐く。「もう、・・・いいんだ」


今まさに募る想いも、いつか時間が経てば、風化していくだろう。


この記憶も、感情も、いつかは思い出として昇華されるだろう。


ただただ日々を過ごし、そうなることを、受け止めるしかない。


それが彼女が願った事で、僕がこれから、願わなければいけないことのはずだから。


「・・・分かった。なら一つだけ、アドバイスをしよう」僕の決断に静かに頷いた灯火は少し真面目な表情で顔の横に指を一本立てた。「明日は、何があっても必ず行くんだ」


「どうして?」


「憶測だから理由を話す気はない。まぁ、元々行く気だと思うから、わざわざ釘を差す必要はないがね」空になったカップを手に、灯火は静かに立ち上がる。「何かあれば、報告を待ってるよ」


「・・・よく分かんないけど、分かった。ありがとう」


僕は困惑の表情を含めたまま、笑顔で灯火に礼を返し、空になったカップを彼女に手渡した。彼女は僕からカップを受け取ると、僕の言葉に小さく頷いてからキッチンへと向かう。その後ろ姿を眺めながら、僕は小さく溜め息を零した。


この感情も、行動も。


明日が、最後。

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