35
木々に囲まれているためか、凛とした空気が肺を包む。音として残るのは、そっと凪ぐ風の音とそれに押されてそよぐ木々の音色だけ。都会の中でも喧騒から断絶された、静謐な空間。
雄介の晩酌に付き合った翌日、僕は再び件の寺へと訪れた。昨日はあまりの衝撃で冷静ではいられず、同行者である灯火が居たためあまり長居も出来なかったからだ。改めて冷静に、そして自主的に観察しようと思い至った。
踏み締めた砂利が、うめき声を漏らす。僕の視界は、何かを探すように辺りを見渡した。
昨日とは変わらない風景。木々も、鳥居も、大きな石でさえも。時間が止まったように、時間に置き去りにされたかのように、変わらない姿のまま、眼前にある。唯一違うのは、柵から見下ろす眼下の風景に、行き交う人々が居るぐらいである。女子高生らしき少女。車椅子を押す人。スーツ姿のサラリーマン。買い物帰りで自転車を押す主婦。昨日と時間帯が違うからなのか、外界は少しざわめいていた。
僕は昨日灯火が腰を下ろした大きな石に、腰を下ろした。その石は夢の中でも春日井一葉が腰を下ろしていた石である。僕は片膝を抱えるようにして、膝に顎を乗せた。
なぜ、僕はここまで執着しているのだろう。冷静になればなるほど、それが引っ掛かった。
確かに、不可思議な現象に苛まれて首を傾げる事はある。連続で続くなら、尚更だ。しかし、どうしてこの現象を説明しなければいけないのだろう。
たまたま灯火という奇異な友人が側に居たからこそ、問題の全容を垣間見えるところまで来ている。しかし、彼女が居なければ、彼女のような才能が近くに居なければ、結局は何も分からないまま、日々を過ごす事になる。性格上、どんなに知りたいと、思ったとしてもだ。
そうなった時、僕は諦めきれただろうか。不思議だがただの夢だと、割り切る事が出来ただろうか。その仮定に、自信は、ない。
小さなため息と共に空を仰ぎ、僕はゆっくりと目を閉じた。記憶を辿り、瞼に浮かぶ映像。モノクロの風景。白黒で、微笑む女性。
やはり、僕にとって気掛かりなのは、春日井一葉だった。彼女が、ではなく、彼女と出逢った事に、引っ掛かりを覚えていた。
交通事故に遭う。それはなかなかに確率が低くて、そのほとんどが転機になる事象。もれなく僕も怪我を負い、職を失うという事態に見舞われた。僕自身大して気にはしていなくても、強制された転機には間違いがない。
そこに、彼女は現れた。転機に見舞われた僕の前に、春日井一葉が、現れた。
だからこそ、どうしても気になってしまう。彼女が現れた事は、僕にとってどういう影響があるのか。彼女の存在は、僕にとってどういう意味があるのか。
ふと、昨日の言葉を思い出す。
『・・・実在、するのかなぁ』
それは、雄介の何気無い言葉だった。しかし、僕は考えもしない事だった。
見て、話し、僕は彼女の存在を認識していた。しかし、その認識も所詮、夢の中の話。現実にその認識は、何の意味も持たない。そんな当たり前の事を、当たり前のように現れる彼女のせいで、失念していた。
もし存在しないのならば、彼女は一体何者なのか。存在するのならば、なぜ僕の夢に現れたのか。そのどちらだとしても、僕に対して、どういう影響があるのか。どういう意味があるのか。思考が螺旋のように複雑さを増す。僕は再びため息を吐く。
突然、ポケットの携帯が震え出した。僕は発信先を確認して、そっと耳を当てる。
『やぁ。今夜は空いてるか?』
「空いてる」
『なら待っている。あぁ、雄介も呼んでおいてくれ。あ、マドレーヌ以外の茶菓子を忘れるな、ともね』
「分かった。合流して、一緒に行くよ」
『分かった』
別れの挨拶もなく電話は切られ、耳には電子音だけが鳴り響く。着信で現実に押し戻されたかのように、僕は勢いをつけて立ち上がり、大きく伸びをした。
僕が考えたって、仕方ない。小さな息と共に、思考を遮断する。
電話帳を検索しながら僕は歩き出し、携帯を耳に当てたまま寺を後にしようとした。階段の付近で一度振り返り、何度見たか分からないその風景を、再び目に焼き付けた。
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