13

 

それは一つの、根拠もないただの思い付きだった。あの事故から既に三週間も経過している。当然事故現場は、当時の状態ではないであろう事は誰にだって考えなくたって分かる。


しかし、当時の状態ではないであろうそこに立って、何かしら思い出せるのではないかと僕は考えた。ただ一縷いちるの望みではあったが、今日まで持ち得た手法で何も得られるものがないのであれば、たとえ的外れだったとしても着眼点を変えるしかないだろう。そんな単純な考えだった。


相坂に軽い挨拶を交わし、退院手続きを急いで済ます。サインの際に度々思う。怪我したのが利き手ではない方で本当に幸いだ。僕は最後の書類にサインをして、看護師に頭を下げて病院への入口へと向かった。


自動ドアを抜けたすぐ目の前の道路に、車を停めた新見が立っていた。僕は待たせた事を軽く謝りながら、彼女に促されて助手席に腰を下ろす。それを見届けた彼女は運転席に乗り込み、僕がシートベルトをしている事を確認すると、自分のシートベルトを締めてアクセルを踏んだ。


静かに車道を新見が運転する車が走っている。時刻は丁度昼を回ったぐらいだろうか。眩しさに少し目を細めながら、車外に流れていく景色を目で追っていく。

事故に遭ってから退院までまともに外には出ていなかったから、久々の外界だった。


「一ノ瀬さん、少し良いですか?」ハンドルを握り締め前を見据えながら、新見が口を開いた。僕が小さく返事を返すと、彼女は視線を動かさないまま言葉を続けた。


「以前気にしていた運転手の事です。トラックの運転手は一ノ瀬さんの二日前に既に退院しています。一ノ瀬さんほど後遺症が残る心配もないので、少しの通院で問題ないそうですが・・・」新見はそこで言葉を濁した。僕が横目で見ると、彼女は少し険しい表情をしていた。「軽自動車の運転手は、早々に転院しました。かなり重い症状だったらしく、その後の話を聞いた所、もう、歩けないと・・・」


「・・・歩けない?」


新見の言葉に、僕は小さく言葉を吐いて眉を寄せた。その気配を察したのか、彼女は一瞬口をつぐんだが、すぐに言葉を続けた。


「事故の際、潰れた車体に両足を挟まれてしまったみたいです。それ以外にもあるのですが・・・」新見はちらとだけ僕の方に視線を向けると、申し訳なさそうな表情を浮かべて前方に向かって頭を下げた。「すいません。こんな話、聞きたくなかったですよね」


事故直後に僕が新見から聞いた話。重傷だが命に別状はない。その言葉は嘘ではない。しかしその後知った状況が、嘘ではないにしても伝えなければいけないと思ったのだろうか。真摯な彼女の態度に、僕も同じように前方へ向けて頭を下げた。


「・・・いえ、ありがとうございます」僕はそう呟いて、少しシートにもたれかかった。視線は自然と、上方へ送られる。


彼女の言葉で忘れていた。忘れられていた。しかし言葉で与えられた現実が、静かに胸にのしかかる。


感覚がズレているのは自分でも分かっている。僕は事故の被害者で、どういった経緯であれ歩行者を撥ねた運転手は加害者だ。それでも僕は無事だった。左腕に後遺症が残るとしても、生きていれば問題はなかった。だから事故を起こした、事故に巻き込まれた人達も、無事でいればいつかこんな凄惨な事も忘れることが出来るのではないかと、そう思った。そう思って、僕も忘れたかったのかもしれない。


でも、それほどまでの大怪我を、治らないほどの大きな後遺症を前に、その運転手は事故の事を忘れられないだろう。歩けない自分と向き合う度に、あの事故を思い出し続けなければならないだろう。当てあてどもない悲しみや恨みを、抱かずにはいられないだろう。それも、一生。そう思うと、僕は被害者のはずなのに、胸にずしりと重石が乗るような感覚になった。気付かず、ため息が溢れてしまう。


「・・・着きました」僕の心情を察したのかしばらく沈黙を貫いていた新見が小さく言葉を溢すと同時に、車体はゆっくりと停止した。僕の重い心は重いままだったが、今は違うことを考えなければと、そっとその感情に蓋をして、彼女に続いて車を降りた。

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