刑事である彼女は、新見静香にいみしずかと名乗った。まず彼女は僕の体調を気遣ってくれて、それに大丈夫だと答えると安堵の息を漏らした。少し表情が緩んだ気がしたのは、気のせいではないだろう。


しかし一瞬で厳しい表情に戻った彼女は、僕にどこまで覚えているのかと尋ねた。先ほど扉の前で僕と相坂の言葉を聞いていたのだろう。僕は微かに痛む首を傾げながら、必死に記憶を辿ろうとした。


しかし、すぐに思い出せるのは先ほどまで見ていたモノクロの夢の光景だけだった。おそらく何らかの要因によって記憶の混乱が生じていることと、先ほどの夢が思った以上に記憶や感情に印象を残していることが原因だろう。僕は少し間を開けてから、小さく首を振った。


その僕の答えに新見は小さく頷くと、胸ポケットから手帳を取り出してページをめくり、僕に降りかかった出来事を事務的に話してくれた。


二日前の夜、とある交差点で僕は交通事故に遭った。現場検証からの結論によると、歩道は間違いなく青信号だった。そのため歩道を歩いていた僕に、軽自動車が突っ込んできたのだ。


タイヤ痕から判明した事だが、軽自動車は確かに赤信号で停止していた。ではなぜ、軽自動車は発進して僕を跳ねたのだろうか。


新見の説明の最中、突然頭が痛みを訴えた。言葉から何かを探すように、まだ目覚めて間もない脳が回転を始めた。そして脳の奥で、曖昧な映像が顔を覗かせる。


コンクリート。軽自動車。そして・・・。


「・・・トラック?」


眉をしかめながら呟いた僕に、手帳に目を落としていた新見は顔を上げて目を見開いた。


「思い出したんですか?」


「・・・いや、ちょっとだけ」


僕が頭を押さえながら苦笑いを浮かべると、新見は小さく頷いて再び手帳に視線を落として説明を続けた。


「そうです。減速をしなかったトラックが軽自動車に追突し、その軽自動車に貴方は跳ねられたんです」新見は説明を終えると、手帳を閉じて顔を上げた。「現場検証は既に終わっていますので、警察としてはトラックの運転手を過失運転致傷の罪で捜査を進めています」


「・・・その、二人は?」


不意に浮かんだ疑問に、僕は口を開いた。突然の質問に新見は眉を寄せて首を傾げた。どうやら思った以上に表情は豊からしい。


「・・・二人?」


「あ、いや。運転手だけど、無事なのかなって」


僕の言葉で、新見は更に怪訝けげんな表情を浮かべ、品定めでもするかのように少しの時間僕を眺めていた。三人の中に、妙な間が生まれる。


「・・・どちらも重傷ではあるものの、命に別状はありません。でも、不思議な方ですね。貴方は被害者なのに、被害を加えた方を心配するなんて」


首を傾げる新見に、僕は気まずそうに頭を掻いた。僕の中では被害や加害の話ではなく、単に同じ事故に出くわして無事なのかという純粋な問いだった。どうやらそれを、穿うがった見方で捉えられたらしい。


新見は不意に腕時計に視線を落とすと、膝に乗せていた手帳のページの一枚を破り、そこに何かを書き始めた。それは十一桁の数字の羅列。


「私はそろそろおいとまします。一ノ瀬さん。どうか安静に。何か分かりましたら、教えられる範囲でお教えしますので。一ノ瀬さんも、何か思い出したらこちらの番号までお願いします」


新見から紙を受け取ると、彼女は音もなく立ち上がって僕に軽く頭を下げた。近くで壁にもたれていた相坂にも、同じ事を繰り返す。


「では、失礼します」


事務的に別れの挨拶を済ませ、彼女は回れ右をする。離れていく後ろ姿に、僕は咄嗟とっさに声を上げた。


「新見さん!」


「・・・はい?」


僕の声に振り向いた新見に、僕は渡された紙を持つ右手を軽く上げて、笑顔を浮かべた。


「わざわざ、ありがとうございます」


僕の言葉に、新見は少し目を丸くしながら固まっていた。何か変な事を言ったかなと、僕は一瞬前に僕から出た言葉を思い出す。


「・・・お礼を言われるとは、思っていませんでした」新見はそう呟くと、小さな微笑みを浮かべた。「何かあれば、ご連絡下さい」


そうして新見は僕の病室から立ち去った。コツコツとヒールの高い音が廊下に反響して消えていった。

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