日常は進む、されど踊らず

1103教室最後尾左端

妻①

「ねぇ、とても愚かすぎる事したけど嫌いにならないで欲しい」


 その土曜日は、不穏すぎる妻からのlineで幕を開けた。


 某有名マッチングアプリで出会ってから、ノリと勢いに任せて一年足らずで籍を入れた私にとって、妻はまだまだ得体のしれない存在である。


 そんな彼女に朝っぱらから「嫌いにならないで欲しい」などと言われ、私はそれなりに動揺した。


「間違えた」

「すごく間違えた」


 妻はかたくなに何があったかを話そうとしない。そうなると悪い予想が次々と浮かんでしまう。


 仕事で大きなミスをしたのだろうか。

 部屋の中で無意味に踊って怪我でもしたのだろうか。

 サルでもギリ回避できそうなフィッシング詐欺にでも引っかかったのだろうか。


 ……いかん。どれもありうる。妻のこの手の失敗談は枚挙に暇がない。詳細は機会があれば語ろうと思うが、妻の猪突猛進ぶりとテンパりまでの速度は目を見張るものがある。小学生時代、通信簿に「もっと落ち着いて行動しましょう」の烙印を押された私から見ても目を見張るレベル感であるから、一般の方が見たら目頭切開級の目の見張りかたになるだろう。


 一緒に暮らしていればこれほどまでに不安が募ることはなかっただろう。だが、私達は婚姻届こそ提出したものの、それぞれ別の部屋で生活していた。新居は決まっているが、新築物件ゆえにまだ建物ができていなかったのである。


 埒が明かない。私はとりあえず彼女にline通話をかけた。

 が、つながらない。

 そういえば、彼女が大学時代から使うiPhoneは型が古すぎて、line通話をかけることはできても受けることはできないのであった。だいたいの機能が使えれば細かい設定は気にしないという、豪快な性格がなせる技である。


「嫌いにならないで欲しい」


 妻はそう繰り返した。


 自慢ではないが(と前置きをしている時点で自慢気なのであるが)、私は滅多に人を嫌いになることはない。他人にさして興味がない、という部分もあるが、どちらかと言えば人間は皆どこかしら愚かであるということを前提としていることが大きい。


 ミスも、嘘も、憎らしい打算も、「まぁその立場に俺がいたら同じことやったかもなぁ」と思えた時点で、さして腹も立たない。決して私が器の広い人間であることをアピールしたいわけではない。が、読者諸君が勝手にそう思うのは止められないし、あえて止める気もない。


 逆に言えば、自分が絶対やらないような行為を平気でする人間には強い嫌悪を覚える。


 もしかして、前を歩いてるお年寄りを蹴とばしたりしたのだろうか?


「してない!」


 よかった。なら大丈夫だ。


 だが、結局彼女に何が起きたのかは分からないままだ。

 こうなっては仕方がない。直接会って確かめなければ。



「……お疲れ」


 先に待ち合わせ場所についていた妻は、私と顔を見ることなく言った。

 表情は見えていないが、彼女のほうが疲れているのは確かだ。


 妻より遅れて到着していることを詫びもせず、私は開口一番何があったのか問いかけた。


「……見てわからない?」


 わからない。全くわからない。


「そ、そっか。じゃあよかった」


 安心したように妻は私の方を向いた。いつも通りの顔である。特に変わったところはない。


 結局、妻の身になにがあったのだろうか。幸い、喫緊で何か大きなトラブルが起きているわけではなさそうだが、このまま私だけが釈然としないままでいるのはいささか不公平である。


 私が情報の非対称性が市場に与える甚大な影響を滔々と主張し、婉曲的に彼女に何が起きたか聞き出そうと試みると、妻はきまり悪そうに口を開いた。


「その、嫌いにならない?」


 くどい。このままにされたほうが嫌いになりそうだ。


「そっか。そうだよね。じゃあ、えっと……」


 意を決したように、彼女はいった。


「……眉毛なくなっちゃったの」


 ……pardon?


「眉毛、なくなったの」


 …………なんじゃそら。


 妻曰く、洗面台に脱色剤と脱毛剤を並べて置いておいたところ、間違えて脱毛剤を眉に塗ってしまったらしい。結果、ものの数分間で彼女の瞼の上は文字通りの不毛地帯になってしまったそうだ。


 確かによく見ると彼女の瞼の上には眉らしい色があるだけで、毛は全く生えていなかった。


 いや、なんじゃそら。


「だってほら、こんなにパッケージ似てるんだよ!?」


 写真付きで的外れな抗議をしてきたが、聞く気になれない。そんなにパッケージが似てるならなおのこと近くに置くな。セルフトラップ仕掛けてどうする。


「でも、そんなに顔変じゃないでしょ」


 確かに、顔立ちに見たところ違和感はない。なんならいつもよりバランスよく見える。余計な毛がないだけむしろ描きやすかったのかもしれない。


「ほんと、美大出身でよかった」


 そこじゃない。絶対にそこじゃない。美大に謝れ。


 私が一連の流れに呆れていると、妻は冗談めかしつつ、しかし間違いなく少しだけ本気で言った。


「こんな私でも大丈夫? 嫌いにならない?」


 まったくもって、変なところで心配性である。


 もしかすると、彼女の中でも出会って一年足らずで結婚まで来てしまったという部分に後ろめたさがあるのかもしれない。


 しかし、馬鹿にしてもらっては困る。

 この程度で嫌いになる覚悟なら、誰が婚姻などという煩雑でややこしいだけで一円の徳にもならないような手続きをするものか。私とて流石にそこまで暇ではない。


「……この写真見ても、嫌いにならない?」


 そう言って妻が差し出したスマホには、眉毛が全くなく、そしてなぜか笑顔の彼女の写真が映されていた。


 その写真の破壊力たるや。視認した瞬間に私は人目もはばからず大声で笑った。今思い出しても笑えてくるし、今際の際に開催される走馬灯スライドショーにも恐らくこの写真は登場することだろう。それほどまでのインパクト抜群の写真だった。


 妻のプライバシーと名誉のために実物を張り付けるようなことはしないが、そうできないことが大変に悔やまれる。


「お母さんに送ったら、『女受刑囚』みたいって」


 あまりにも的確過ぎる義理のお母様のコメントによる追撃を受け、私は笑いすぎて文字通り足元から崩れ落ちた。


 というかそんなもん送るな。お義母さん、困惑するだろ。


 笑いすぎて過呼吸の症状が出始める中、妻を見上げると、何故か妻はイタズラが成功した子供のようにニヤニヤと笑っている。


 なんで笑ってんだ。笑われてんのはお前の顔だぞ。


 目の前にいる、眉のない彼女の顔は、強烈なまでに先行き不透明で、死ぬまで退屈することはなさそうな、我々の日々を象徴しているかのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る