レイ

 母親が好きだった。周りに母親よりも父親に似ていると言われるたび、不満げな顔をしている僕を見て、母はいつも嬉しそうに笑っていた。

家の中で、父が母を殴っているのは何度も見たことがある。幼い僕は何もできなくて、それが悔しくて何度も涙をこぼした。そしていつか誰よりも強くなって、母を守るのだと心に誓った。


僕は、母といろんなことを話すのが好きだった。母の笑った顔が好きだった。僕を褒めてくれて、暖かい母の手で優しく頭をなでてくれるのが好きだった。僕を大切だと言ってくれる母が好きだった。僕は、幸せだった。


僕が九歳の時、母が出て行った。

突然のことで理解できなかった僕の頭に微かに残っていたのは、母とのハグのぬくもりだけ。


そこからの日々は地獄で、母が僕をいつも命懸けで守ってくれていたことに改めて気づかされた。今更気づいてももう遅いのに。もう、母はいないのに。

父の機嫌がいいときは、おいしいご飯を与えてくれ、機嫌が悪いときは僕を殴る。それの繰り返し。僕はひたすらに父の暴力に耐え、なんとか一日一日を生き延びていた。


父が女の人を連れてきたのは僕が十二歳の時。

その頃、父は家にいないことがほとんどで、僕としてもそっちのほうが気が楽だった。

その日は学校の友達に誘われて公園で遊ぶことにしていたので、出かけるための準備をしていたところだった。

玄関までいき、靴を履いていると扉の開く音がした。ゆっくりと視線を上げる。


「初めまして。こんにちは。」


立っていたのは父と、見たことない女の人で、香水の匂いが臭かった。僕は思わず顔をしかめる。


「どこに行く、早く家に入れ。」


父の低音が玄関に響く。


「あの、僕友達と約束してて……」


父が僕を睨む。思わず父に反論してしまったと焦っていると、


「ごめんね、レイ君。遊んできていいわよ。」


と女が口を開くが、


「だめだ、くだらんことをするな、家に入れ。話がある。」


と、父が食い下がる。

僕は静かに頷き、とぼとぼとした足取りでリビングに向かう。その間父と女が何か話しているようだったが、(明日友達に謝らないと、許してくれるかな。)などと考えていて、耳には入ってこなかった。


父の話というのは女と結婚をするというものだった。

僕にとって母はこの世に一人しかいないけれど、父もなんだかいつもより機嫌がいいように思える。それに僕に拒否権など最初からあるはずがないのだ。父が決めたことは絶対で、反論すれば殴られる。昔からそういう人間だった。


その日から僕の日常に女が加わった。女は、香水の匂いが臭いこと以外は特に何もなく、害も与えてこない。料理が上手くて、毎日三人分のご飯を作ってくれ、朝と夜は三人で食卓を囲む。父もここのところ機嫌がいいし、僕への暴力も少なくなって、悪くない生活だったと思う。


違和感を感じ始めたのは、一か月が経とうとしていたあたりから。父が仕事に行くとすぐに女が僕に近寄ってくる。距離が近く、僕の体をべたべたと触ってくる。どうにか離れようとしても「家族なのだから、普通でしょ?」といわれ、引き止められてしまう。


(これが普通なの?家族って、母親ってこんな感じだったっけ。)


僕の脳裏に母の笑顔がよぎる。女が僕の頭をなで、頬を撫でる。

母に頭を撫でられるのが好きだったことを思い出しながら、女の好きにさせていると、女の手が僕のズボンのほうに忍び寄る。


「え?」


思わずそんな声が出て、女のほうを見る。

いつもは、頭や顔を触ってくるだけで、その後はすぐに父といるときの姿に戻る。だから女が触ってくるのは嫌だったけれど我慢できた。

でも今日は明らかに様子が違う。そんなことを考えている間にも、すでに女の手は僕のズボンに触れる。


「何で、」 


声が上手く出なくてかすれる。


「ん?」


女がゆっくり首を傾ける。


「何で、こんなこと……するの?」 


ふり絞って何とか声に出す。

女は手で僕のズボンの上を撫でながら答える。


「あなたのお父さんって顔がいいでしょ?そんな人の子供なんてもっとかっこいいに決まってる。それで写真を見せられた時、やっぱりって思ったの。」


つまりそれは…


「お父さんと再婚したのは、僕がいる、から……?」


女が静かにほほ笑む。


「ずっと、会いたかったの。レイ君に。」


その瞬間、全身に鳥肌が立った。


「やめて、触らないで!」


必死に女の手をつかんで引きはがそうとする。


「どうして?気持ちいいよ?私がレイ君を気持ちよくしてあげる。」


女が僕の耳元でささやく。近いとさらに香水の匂いが増す。


(気持ち悪い。)


香水の匂いと女の行動どちらにも吐き気がしてくる。

女がさらに僕に近づいて無理やり口を合わせてくる。強制的に舌を入れられ、力が一瞬抜けてしまう。

その隙に女の手が再び僕のズボンに忍び寄り、ズボンのチャックに手をかける。


(いやだ、いやだ!)


僕は自分の持っている力全部で女を突き飛ばした。次の瞬間、部屋の扉が開いた。

全身の血の気が引いていくのが分かる。僕は何も言えずに、ただゆっくりと扉のほうに視線を向けた。


「何、している。」 


低音が部屋に響き渡る。


「違うの!」


それに覆いかぶさるように声を出したのは、女だった。


「た、助けて!レイ君が、急にズボンのチャックをおろしてきて!」


(何言ってるんだ。)


頭が真っ白になる。


「どういうつもりだ、レイ。」 


今までに見たことのないほど怒っている父の顔。


(殺されるかもしれない。)


僕の本能がそう叫んだと同時に、僕の中の何かがぷつりと切れる音がした。

とっさに僕の身体は台所に駆け込み、銀色に光る刃物を手に持った。さっきまで固まっていた身体が嘘みたいに動く。父と女は何か叫んでいたみたいだったけれど、僕の耳には入ってこなかった。


気づいたら僕の目の前は赤に染まっていた。

やばいとか、やってしまったとかいう焦りや後悔はなく、不思議とすっきりした気持ちだった。


(こんなに簡単に静かになるなんて、もっと早くこうすればよかったんだ。)


そこから数日間は家に置いてあった食料を食べて生活をした。女に身体を触られることも、父の帰りをおびえながら待つこともしなくていいのはとても気が楽だった。静かになった二人から変なにおいが漂っていたけれど、女の香水の匂いほど嫌いではなかった。





「ごめんね、レイ。お母さんが弱いせいでレイを守ることが出来なくて……ごめんね。」


抱きしめられた腕に力がこもる。僕のすぐ隣で鼻をすする音が聞こえる。


(ああ、泣かないでお母さん。)


僕はそれを言葉にしようとしたが声にならなかった。

これは夢なのか?それとも記憶なのか?

遠くで場違いなチャイムの音が聞こえるような気がする。


(そんなことよりお母さんが行ってしまう、早く追いかけないと!)


「置いて、行かないで!」


僕は思い切り起き上がり手を前に伸ばしたままの姿勢で、数秒間硬直する。目からは涙がこぼれていた。

そして自分がいつの間にか眠ってしまっていたことを理解する。

静かな部屋に僕の声が響き渡り、すぐにまた静寂へと戻っていく。と思ったが、違った。静寂の代わりに部屋に響いたのはチャイムの音だった。


玄関のチャイムの音が立て続けに何度も鳴る。

僕は朦朧とした意識のままゆっくりと立ち上がり、玄関へと向かう。そして特に何も考えずに玄関の扉を開ける。


ドアの前に立っていたのは黒いスーツを着た男三人。

中でも真ん中の男は口に煙草をくわえ、黒い手袋に黒い帽子を被っていた。見るからに偉そうなおじさんといった感じで、隣の男二人は多分部下かなんかだろうなと思った。


玄関を開けた途端、部下らしき二人は口を手で押さえて顔をしかめ、次に僕の全身を見て目を丸くしていた。

そこで僕は、あの時のままお風呂も入らずに、服も着替えていないことを思い出した。


(これもしかしてやばいやつかなぁ。ま、どうでもいいか。)


「あの、だれですか?」


ガタイのいい大人の男三人を目の前にしても不思議と怖さはなく、声もすらすらと出てきた。

真ん中のおじさんが僕をまじまじと見るなり、プッと吹き出し、大きな声で高らかに笑い出した。他の二人とはあまりにも違う反応で僕も思わず戸惑ってしまう。おじさんはひとしきり笑った後、僕を見て口を開いた。


「とりあえず、君の家に上がらせてもらってもいいかな。」


普通だったら、見ず知らずの大人を家に上げるなんてありえないことだと思う。

だが、もうどうでもよかった。

これから何が起ころうとも、動じない自信が今の自分にはあった。


僕はその人達に、目で家に入るように促し、部屋へと案内しようと歩き出した。後ろで男達が何かを話している声が聞こえたが、歩みを止めずリビングへ向かう。リビングに入り後ろを振り返ると、そこには大柄な男だけが立っていた。てっきり部下の二人もついてくるだろうと思っていたので、少し拍子抜けした。そんな僕の様子をスルーして、男はリビングに入ると周りを隅々まで見渡し、最後に床に転がった二つのまだ微かに人の形を保っているものを見つめた。そこから目線をスライドして僕と目を合わせ、ゆっくりと口を開く。


「これはお前がやったのか?」


これ、というのは間違いなく床に転がっているもの達のことだろう。

迷うことなくこくりと頷く。


「俺たちの仕事が片付いちまってるなぁ。」


男は、「困った困った。」と言いながらも、どこか嬉しそうにガハハと大きな口を開いて笑った。


(仕事…?)


訳も分からず黙っていると、そんな僕の気持ちを察したのか、男が話し始めた。


男の名前はトイフェルだということ。仕事が殺し屋で、今回も依頼を受けて来たのだということ。殺そうとしていた相手をレイが殺しているのが分かって驚いたこと。

父はいろんな方面から反感を買っていたらしい。家での態度を外でもとっていたのだったら、当然だろうと思った。


「お前、今後どうするつもりだ?」


トイフェルにそう問いかけられたが、黙って俯く。今後どうするかなんて自分が一番知りたい。


「俺のところに来ないか?」


続けて発された言葉にゆっくりと顔をあげる。僕を見下ろすトイフェルと目が合う。


「お前には才能がある。俺たちの仕事はきれいな人達から見てみればどうしようもない最低なものだ。だが、お前に行く当てがないなら俺が拾って育ててやる。自分で決めろ。」


答えは迷わなかった。この誘いを断れば、僕はトイフェルに殺されるであろうことを察していたけれど、それが怖いというわけではなかった。自分に才能があるとも思えなかった。だが、もしトイフェル達の仕事が父のようなクソみたいな人間が相手なのだとしたら、僕は何のためらいもなく殺せるだろう。


トイフェルは僕の答えを聞くと満足そうに頷き、玄関に向かって歩き出した。ふと思い出したように振り返り、上に羽織っていた上着を僕にかぶせてこう言った。


「それ、中々イケてるけど、この仕事に白はダメだな。とりあえずそれ着て前隠しとけ。」


そして再び歩き出す。玄関を開けると部下の二人が立っていて、トイフェルにお辞儀をする。彼らはトイフェルと少しばかり話をした後、玄関を開け、中に入っていった。


「後のことはあいつらに任せた、ついてこい。」


そう言われて、黙ってトイフェルの後を追う。「これからは自分のために生きろ。」と車の中で話したトイフェルの言葉が、いつまでも僕の中に残っていた。




それからはあっという間に時間が過ぎていった。俺はトイフェルの下につき、言われたとおりに仕事をこなした。部屋を与えてもらい、服を与えてもらい、職を与えてもらった。初めの頃こそ周りの人達に奇怪な目を向けられていたが、依頼通りに仕事をこなしていくと、いつしか羨望の眼差しを向けられるようになっていた。トイフェルや周りに可愛がられ、以前とは違い血のつながりはないものの、これが幸せな家族なのかな、などと思って過ごしていたが、いまだにこれと言って楽しいと思える人生でもなかった。


トイフェルに拾われて五年がたち、言われるままに一人暮らしを始めた。今までのように騒がしかった場所から急に静かになると少しだけ寂しさも感じたが、一人の時間が取れるのは嬉しかった。そんな生活にもだいぶ慣れた頃、俺はいつも通り仕事に向かっていた。


今回の仕事は、複数人から依頼が来ているものだ。このケースはそこまで珍しくはないが、いつもと違うのはターゲットに子供がいること。トイフェルから渡された資料には、仕事の細かい内容やターゲットの個人情報がびっしりと書かれてある。その資料に、ターゲットには子供がいることが書かれていた。その子供は俺と似たような境遇だった。


作戦通りターゲットが帰る時間に合わせて、張り込みをする。アパートの上から姿を確認すると、壁を伝って降りていき、ベランダに静かに着地する。壁に隠れて少しだけ部屋の中を覗き込む。窓越しでも聞こえる女の怒号。うんざりした。

俺は壁から体を離して服の裏から銃を取り出す。いつもと同じような手つきで準備する。窓越しにターゲットを見つけ、相手と目が合ったと同時に引き金を引く。

まず女を撃ち、その後男を撃った。そして自然と目を向けた先に、一人の少女が布団を纏って座っていた。少女と目が合った瞬間、体に電流が走ったような感覚になった。


目の下にできたクマ、ボサボサな無造作に伸びた髪の毛、ぶかぶかで汚れた七分袖の服、その服の中から延びる栄養の行き届いていない細い手足、顔や手足にはあざがいくつもついていた。だが、そんなことよりも俺は彼女の目に吸い込まれた。底の知れない深く、黒いその瞳に俺はすべてを奪われてしまった。


しばらく見惚れていると、彼女が勢いよくこちらに向かってきて、思い切り俺に抱き着いた。


それで思い出してしまった、あの時のことを。


俺の目からは自然と一粒涙がこぼれ、思わず彼女を抱きしめ返していた。もう二度と離さないように。あの頃の何もできない、引き止めることのできない俺じゃない。

俺の腕の中で泣きじゃくる彼女がとても愛おしく思えてまた涙が流れた。

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