第6話 「共同事業」

「まさか、本当に無重力が可能だったなんて思いませんでした」


 足が少しフラつく。

 まだ全身に、無重力の不思議な感覚が残っていた。宇宙飛行士はずっとあんな状態にあるのかと思うと、とてつもなく大変な仕事なのだと改めて思った。


「部分的な達成にすぎない。真の克服にはほど遠いよ」


 天與さんは本を広げながらこともなげに答える。

 僕は先ほどの不安定な丸椅子に座った。無重力の感覚が残っているためか、余計に不安定に感じられた。

 天與さんも向かいの椅子に座り、前かがみになって机に寄りかかっている。その姿は、まるで古代の哲学者のようだった。

 天與さんは、何者なんだろうか。魚を生き返らせたり、無重力を作り出したり。普通の人ではないことは間違いない。

 天與さんは静かに本を読んでいる。天與さんの机は、暗い館内の中で数少ない明かりの灯った場所だ。宗教画にでも表されていそうな、どこか近寄りがたい雰囲気を放っている。

 古い書物に表れる聖人。孤高の存在。僕が抱いた印象はまさにそんな感じだった。今日初めて会ったのに、僕は天與さんをどこか神聖な存在として見ていた。

 僕は、天與さんに率直な質問をぶつけてみることにした。


「天與さん、ひとつ聞いてもいいですか」

「なんだい」

「天與さんは、何者なんですか?」

 

 天與さんは本を読み続けている。


「私はこの図書館の司書だよ。さっきも言ったように」

「他に一緒に働いている人はいるんですか」

「いない。この図書館の司書は私だけだ」


 なぜだか分からないけど、僕は少しほっとした。仙人みたいなこの人が、誰かと仲良くしているところなんて想像できない。

 ひとりでも生きていける人がいるとすれば、こういう人なのだ。

 急に、僕が目指すべきなのは天與さんのような存在ではないかと思い始めた。鷹揚として、超然。誰にも頼らず、ひとりで生きていく人。天與さんのような隠遁者が実在したことが驚きだ。

 僕も彼女のような存在になりたい。なるべきだ。


「すごいです。ひとりでなんでもできてしまうなんて」

「どういう意味だね?」


 天與さんは本を閉じ、こちらを向いた。相変わらず読めない表情をしているが、微かに怪訝な様子が窺える。 


「重力とか生き返りとかの研究は、ひとりでやっているんじゃないんですか?」


「ひとりではない。キミに見せたあの機械は、全て共同で作っているものだ」


 共同。


「それってつまり—―」

「トートロジーが好きなキミに先んじて答えてあげよう。この計画には協力者がいる」


 僕の幻想は、儚くも打ち砕かれた。


「最初に言ったはずだ。これは全宇宙的な計画であると。招かれるものは多くなければならない」


 やっぱりそうか、と思った。人間はひとりではなにもできない。魚を生き返らせたり、無重力を作り出したりなんて一人で出来る訳がない。聞くまでもない質問だった。

 それでも、僕は確認したかった。ひとりでもやっていける人間がいるのか。天與さんみたいに神秘的な人なら、孤独に、そして楽しく生きているのではないか。そう期待していた。

 期待は見事に裏切られた。いや、僕が勝手にそう思っただけだ。


「......仲間がいたんですね」

「そのとおりだ、少年。キミ風に言うならば、『共同ということは仲間がいる』ということだ。矮小な人間ひとりでは、事業は達成できないよ」


 急に奈落に突き飛ばされたような感覚になった。いや、実際は知らないうちに飛び込んでしまったという方が正しい。この人は孤独なんかではなかった。


「キミにも友達くらいいるだろう」


 答えに詰まる。僕には友達がいない。

 

「僕は......ひとりです」


 天與さんは黙っている。

「僕はこの町に越してきたばかりで。学校に友達なんていません」


 自分でも嫌になるくらい、拗ねたようなことを言ってしまった。自分の期待が外れてしまったから。僕は本当に未熟な人間だ。


「これまでも、いなかったのかな」


 天與さんの口調が心なしか優しくなったように聞こえた。天與さんなりに気を遣っているのだろう。


「いえ、いました」


 天與さんの表情は変わらない。


「大切な人でした。この世界で、唯一僕の味方だった人です」


 思い出すと、感情がこみ上げてくる。僕は唾を飲み込んでなんとか抑える。


「でも、もういないんです。永遠に失ってしまった。僕のせいで」

「永遠では—―」

「永遠ですよ!」


 思わず声を荒げる。

 静かな館内に僕の声が響いた。

 天與さんはさすがに少し驚いた顔をした。それを見て、僕は自分が大きな声を出してしまったことが恥ずかしくなった。


「すみません」

「いいんだ。その思いはキミだけのものだから。誰からも奪われることがない」


  続く言葉が出てこない。僕は黙り込んでしまった。天與さんは左手を机から離し、頬杖をついた。

 

「少年、その人に会いたいかい」


 天與さんの声は、今まで以上に柔らかいものだった。

 「計画」について語っていた、狂気じみた様子の天與さん。魚を生き返らせたときに喜んでいた僕を見た、あの刺すような視線の天與さん。

 不気味さと高潔さが渾然一体となったあの天與さんとは違う。純粋に優しい口調だった。


「会いたい、です」


 天與さんは目を閉じて、何かを考え込む。

 しばらく黙った後、口を開いてこう言った。


「少年、キミもまた『共同事業』に呼ばれたのだな」

「『共同事業』?」


 「共同事業」。

 この図書館に入ったときに手に取りかけた本の題名にも、同じ言葉があった。


「『友愛の回復』に至る三つの課題だが、先ほど見たようにいまだ完成には辿り着いていない。この実現は『共同事業』によって達成されなければならない」


 天與さんの口調がもとに戻る。先ほどまでの先生のような口調だ。


「みんなで共同して取り組む、ということですか」

「平たく言えばそうだが、並の共同ではない。全人類的、全宇宙的な共同だ」


 言うことがいちいち大げさだ、と思った。正直、埃の積もった図書館で話しているのがおかしくなる。

 全人類が関わる話だと言うのに、むしろここはその対極にあるように感じた。静かで、人がいない、深山幽谷の仙境のような。

 

「それはつまり......少年、キミも例外ではない」


 急に話が降りてきた。僕が事業に参加するだって?


「実験で見せたように、課題の中には部分的に達成されているものもある。それらは、我々の『共同事業』によって達成されたものだ」


 僕は反応できず黙っている。


「この『共同事業』は、時宜に応じてその達成のために人を『呼び込む』」

「『共同事業』は、天與さんが主催しているものじゃないんですか?」


 僕はなんとか質問をぶつける。はっきり言って、話についていくだけで精一杯だ。

 

「私も呼ばれただけだ。最初のひとりであった、ということではあるが」


 天與さんは感慨深げに頷く。

 「共同事業」は、神秘的な啓示のことを言うのだろうか。


「少年、キミが今日この図書館に来たのは偶然ではない」


 どういうこと?


「呼ばれたから、だよ」


 呼ばれた?どうして?誰に?どうやって?


「どうして僕が?」

「キミには強く会いたいと願う者がいる。それが理由ではないかな」


 考える。確かに彼女にはまた会いたい。けれどそれが叶わないことは知っている。

 なぜなら彼女は死んでしまったから。

 しかも、その理由は僕にあるのだ。

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