第32話

「貫徹様」


「あぁ戻ってきたな」


 私たちはついさっきまでくつろいでいた喫茶店で行儀よく座っていた。大鬼になって半裸になった私の服もなにごともなかったように元通りになっていた。


 周囲のお喋りの声、スマートフォンのシャッター音、出口のドアが開くたびに聞こえてくる店外の不協和音。私は注意深く死神の姿を探したが気配すら感じられない。


「お気をたしかに、セラはここにおりますゆえ」


 セラは未だにそわそわしている私の手に自らの両手を添える。


「あぁすまん。大鬼になった直後は情緒が不安定になりやすくてな」


 怒りを元に変身するのだから神経が高ぶってしまうのはしかたないとしても、まるで魂が体に戻ってきたかのように落ち着かない。


「セラは何も感じないのか、私は今身体がふわふわしているのだ」


「ふわふわするのは天使の特権です。セラはいつでもふわふわしていますわ」


「そうであったな、セラはゆるふわ天使であった」


 冷ややかに言うとセラはにんまり微笑んだ。


「しかしあれで終わりというわけではあるまい」


 私が目配せすると、セラは椅子を浅く座りなおした。なんの変哲もない、気配すら感じない空間が違和感として脳裏に残っていた。


『あれは私が最初に見つけた魂ですの』


 耳元で囁かれた気がした。


「何か聞こえないか?」 


「セラはなにも言っていませんよ?」


『そもそもあの方が邪魔してきたから』


 さっきからぶつくさ聞こえるのは死神女の声だ。それは分かっているのに当人の居所がつかめない。


『でもいい時間稼ぎになりましたわ、ざまぁみろですわ』


 物静かに念仏を唱えていた死神女は最後に語尾を強め、それ以降は声が聞こえなくなった。


「大丈夫ですか?」


 知らずのうちに耳に手をおき目を閉じていた。私はゆっくり瞼を開いて再び外を眺める。


 向かいのビルから出てきた恵美子の姿を確認できた。その背後にぴったりとくっついた骸の姿も。


「ありがとうございました」


 間の抜けた店員の挨拶が耳に届いて何の気もなく出口の方向へ目を向ける。店を出る男が持つ似合わない手提げバッグに私は親し気を持った。かわいらしいクマのキャラクターがプリントされたやつ。私は恵美子から見せてもらった写真をよく見てなかったことに後悔したが記憶の回廊におぼろげに飾ってあったバックそのものだと感じていた。


 嫌な予感がする。


「渋みのあるコーヒーが出来上がりましたよ、おかわりはいかがですか?」


 気の利いたスタッフがカップを下げるときに声をかけたが丁寧に断って急いで外に出る。


「セラちょっと待っていろ」


 大通りの交差点。恵美子は横断歩道に差し掛かろうとしていた。あの死神女は直接恵美子に襲い掛かるつもりだろうか? いずれにしろ禍々しいオーラを纏ったまま恵美子の背後を漂っている。


 信号が点滅して切り替わろうとしている。私は切り替わるなと祈りながら信号機を見つめ横断歩道に走ったがその点滅を待たずして横断歩道に進入した男が雑踏の先頭に立った。心の臓の鼓動がはやくなるのに反比例して雑踏を抜け出せない。「恵美子!」私は大声で彼女の名前を呼んだ。


「貫徹くーん!」


 恵美子が手を上げる。その瞬間にさっきの男が彼女に向かって走り始めた。


「逃げろ!」


 その一言が彼女には届かなかった。彼女は男と目が合ってしまったようだ。 


「あなたの声は彼女には届きませんわ」


 耳元でささやかれ恵美子の背後を離れた死神女が私の目の前に現れる。かなり興奮した様子で、今にもこちらに飛び掛かってくる勢いがあった。


「これ以上邪魔はさせませんわ。運命は変わらない」


 私は瞬時の判断で死神の襲撃を回避したものの、二、三歩進んだところで足を掴まれバランスを崩した。舌打ちが出る。死神女は私が簡単に起き上がれないように身体をぴったり密着させる。地面から顔を上げて恵美子を視界に映した時、横断歩道は群衆の悲鳴とどよめきで集団パニックを起こしかけていた。


 これが正しい歴史なら彼女はストーカーに刺されて死ぬ。


 いけ好かない死神が言っていた通り決められた運命には逆らうことはできない。しかし鬼である私は彼女の運命はそれだけではないと思いたい。例えばここではない別次元が存在しているとして、多次元での彼女の運命は今からあそこの喫茶店にて、くだらないお喋りをしている。鬼やら天使やら死神やらがいるのだからそんな世界線もあっていいはずだ。


 恵美子の悲鳴が身体を貫いてからもう何も分からなかった。


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