第27話
あらかた夕飯をたいらげた頃、窓の外は夜が深まっていた。
「セラ、きみは天使なんかにしておくのはもったいないよ。今から料理人になればいいじゃないか」
膨れた腹をさすりながら、そう言うとセラは控えめな笑みを浮かべ私が食べ終わった皿を流し台に運んだ。
私はセラの背中の翼が小躍りしている様子を眺めたあとで窓を開け夜風を浴びながら鬼神タバコの煙を吹いた。立ち上る紫煙がたゆたゆと月の周りを蛇のように這っている。
「今日はずいぶん災難でしたね」
「おかげで面白い一日であった」
「あの死神様は一体なんだったんでしょうか?」
セラが訊ねると、私は完膚なきまでに敗北した記憶を呼び起こしてしまって不機嫌になる。
「知らん。ただ私の友達の命を狙っているのは確かだ」
「お友達って誰ですの?」
「セラに会う前に仲良くなった人間の女子だ。名を恵美子という」
「そうですか、貫徹様はどんな方でもすぐにお友達になれるのですね、さぞ地獄でも人気者だったのでしょう」
「そうだといいんだがな……」
セラが言う通り本当にそうであってほしいものだ。
地獄での私の人望は地に落ちている。食事も大概一人で食べるし、仕事帰りに一杯飲みに誘われることもない。かつては二代目や安孫子、後輩の鳥奴火。同期生の兎動銀といった獄卒仲間たちとつるんでいたときは、かくも各々が袂を分かれ疎遠になってしまうとは誰が想像しただろう。
二代目は周りの獄卒たちに相談せずに私を無理やり等活地獄の統括長に任命して先輩獄卒たちから疎まれる原因を作った。そればかりか我が右腕としてサポートを約束してくれた兎動銀が栄転し、ほどなくして安孫子と鳥奴火が衆合地獄にヘッドハンティングされた。後ろ盾を失った私が最初に苦労したのは各派閥に対しての根回しだ。会議一つするにしてもこちら側の提案を過半数が承認してくれなければ、改革も変革もなにもできないのだ。そこでようやく等活地獄の統括長であり、圧倒的な強さを誇る二代目と仲が良かった私を煩わしく思う鬼が一定以上いたことを知ることになる。私は困り果て自らのプライドをへし折って周囲の先輩たちに助言を求めたが、
「等活地獄の統括長殿ならば自ら考えて自ら行動せよ。お前が統括になってから我々の業務は大幅な遅れが生じているぞ。なんとかせよ」そう答えられ、せせら笑われたとき私は自分の無力さを悔やんだ。あぁ私は二代目のようになれないのだと打ちひしがれた。今でもあの会議でのやりとりを思い出すとお腹のあたりがきりきり痛む。
私が自ら統括長を退くと宣言したのは、安孫子とともに衆合地獄に赴いた鳥奴火が研修期間を終え等活地獄に帰ってきた日のことだった。
それを聴いた鳥奴火はすっかり消沈してしまった私に驚愕し、とても悲しそうな顔をしていた。それから彼女はかつて自ら悪ふざけで蹴り蹴り落された屎泥処の大沼に私を蹴り落し、ふさぎ込んで活力のなくなった私を涙ながらに叱咤したが、ある日のこと「もう疲れた。もう勘弁してくれ」そう糞尿まみれになって懇願する情けない私の姿をその瞳に移して、「哀れなり先輩。その苦しみの半分を僕も背負おうからいい加減いつもの姿に戻られよ」と言ってようやく諦めてくれた。
あれから鳥奴火は正式に私の部下になったのだが、先輩獄卒として威厳をなくした私のことを彼女は実際どう思っているのかは怖くて聞けないのだ。
雲に隠れてしまった月を眺めながら大きくため息をつく。
「セラは今の仕事つらくないのか、半年間もほったらかしにされて辺鄙な浮世で生活を迫られて」
「うーんそうですね、始めはつらかった時もありましたが、セラのお仕事は地上をよくすることなので誇らしく思います。それにここにはセラのお父様がいるのです」
「そうか、お父上が」
「はい、一度もお顔を見たことはありませんが、エデンの園の邪神様が教えてくれました。セラのお父様は天界を救った英雄だと」
誇らし気に父の話しをするセラに私は父上の顔を思い出していた。
「尊敬してるのだな」
「はい、いつかお会いしたいです」
私は吸殻を手の平で潰し灰にすると、そのまま外に向かって息を吹きかけた。黒い灰は月の光に照らされてその姿を煌びやかな蝶に変え空中を我が物顔で漂う。
「あら綺麗なチョウチョ」
私の隣に腰かけた天使は月に映える蝶に触れようと手を伸ばそうとする。再び月が雲に隠れると蝶は灰に戻り夜風に流され消えた。
「淋しそうだな、セラ」
セラは思わずイジメたくなるような笑みを向けながら頬を膨らませる。
「貫徹様はたまに意地悪になります」
「あはは、何を言うかと思えば」
私はそう言ってタバコを口にくわえた。
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