第20話
十畳一間のリビングからもれる電球の明かりを感じて私は覚醒した。どこからか聞こえてくる伸びやかな鼻歌とばしゃばしゃと水の音が聞こえる。どうやらセラが風呂に入っているらしい。私はカーテンを開けベランダに出て鬼神タバコに火をつける。たゆたゆと伸びる煙を眺めながら物思いに耽っていた。ずいぶん昔に人間世界と我々の世界の見境が曖昧で、生活するためにお互い共存していたが、文明の開化や発達した技術により現代では我々の存在を重んじる者が減ったと聞く。もう千年以上も前の話しだ。
私は三本目のタバコに手をかけた。
「あら起こしてしまわれましたか」
火をつけた瞬間に聞こえたセラの声を背中で受けて私はタバコをくわえるのをやめた。もちろん振り返りはしない。
「セラは風呂がよほど好きなんだな、実に長風呂だ」
「えぇ、大好きです。とても素敵ですもの」
「朝からあんなに長く入って一体何をしているんだい?」
「千まで数を数えているのです。子供の頃よく母様に千まで数え終わるまで出てはいけないと言われていたので」
「なるほど、しかしただ千まで数えるのは億劫ではないか、私なら父の教えといえど十も数えてはいられない」
するすると私の隣にちょこんと並んだセラの周りから石鹸のいい香りが鼻をつつく、なんだかこそばゆくなって再びタバコを口にくわえた。セラは細々のびる煙を興味深そうに眺めている。やがて優しい声で「何か悩み事があるのですか?」と言った。
「知り合いを探しているんだ」と正直に言った。「知り合いといっても私にめんどくさいことを全部押し付けて勝手に出て行ったどうしようもない鬼なんだが」
「大切な方なんですね」
「そうだな、しかし地獄ではひどい目にあった」
「あら、困ったお方ですね」
「……どうして浮世にこんなにも長く居座っているんだ?」
「えっ」
「いや、この部屋にしてもそうだがなんだか浮世慣れしている気がして、こっちで職を得ているようだしずいぶん長い時間を過ごしてきた感じがしたんだ。それにセラには天使の頭の上にあるはずの輪っかがない。なにか深い事情があるなら助けになりたい」
セラは澄んだ目で私を見て黙っている。今どきこんなきれいな眼差しを他者に向ける天使も珍しい。
「貫徹様は相手の心を読めるのですね、ちょっとついてきていただけますか」
セラはベランダからリビングに戻りクローゼットを開けると中に分け入っていく。
色濃い闇に包まれたクローゼットの中は明らかにこの部屋の間取りを考えると不自然な広さであり、暗闇を抜けた先にはおぼろげな光に照らされた小さな小屋が建っていた。セラは小屋の入り口に手をあてなにやらぶつぶつとつぶやき神々しい光を発光するとゆっくり扉が開いていく。
「さぁどうぞ」
セラに促されるままに私は小屋の中に入った。中は禍々しいオーラに包まれていて日々亡者たちの断末魔を子守歌にしている私でも不快感を覚えた。それほど常軌を逸した空間だった。そのオーラをかき分けてセラは分厚い布で厳重にくるまれた物体を手にとって私に見せつけた。
「これは悪魔の本です」
布が解かれて姿を現したのは一冊の書物であった。常闇の深淵を覗くように恐るおそる目を凝らしてみると脳裏に異様な情景が浮かび上がってきた。浅ましい人間の欲望がとぐろを巻いて絡み合いいくつもの悲鳴と不気味な笑い声が聞こえてくる。心の底から不快を感じる悲鳴は地獄の亡者たちの叫喚とは違い、どろどろとした粘り気が混じり、不気味な笑い声には意思を感じられなかった。私は意を決して鼻先を書物に近づけて目を見開くと、おどろおどろしい生臭さで全身の毛がぞわぞわして息苦しくなる。
「お気を確かに、悪魔は心の弱みに付け入ってしまいます」
セラの声で私は自分の頬をビンタして、落ち着きを取り戻した。実態を確かめるため静かに触れると書物はどくんどくんと脈をうって微弱に震えていた。
「大丈夫ですか?」
「少し気分が悪い、初めて見るけどこれが悪魔の本なのか」
「そうです。今はこの部屋で浄化の最中なので内部の膿が出て本来の姿になり不快感がありますが、通常は普通の本に擬態していて分かりません」
「そうか、だからセラはあの時も本屋にいたんだな、悪魔の本を見つけるために」
「はい。セラのお仕事はこの本を天界に持ち帰ること。でもそれができません。悪魔との戦いの最中天使の輪っかを奪われてしまって、天使の輪がなければ天国に続く扉が開かないのです」
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