第8話

 衆合地獄は色街で、空はたいてい薄暗くそれがかえってネオンの光を妖艶に輝かせている。


 大急ぎで地獄の階層を走り落ちていた私は、黒縄地獄に差し掛かるとちょいと裏技を使う。これは声を大にして言えないが私と一部の獄卒獣しか知らない抜け穴があるのだ。私は真っ逆さまに落ちていくさなか、馴染みの獄卒烏どもに手を振る。これを通れば衆合地獄のとある場所に一刻も早くたどり着くことができるのだ。


「ふふふ、明哲不滅の貫徹ここに参上」


 私は宴会場のような広々とした座敷の庭に落ちていた。


 縁側の向こうには名物の針山が無限に連なっており、庭先にある無数の着物や艶めかしい洋服が乱雑に干されている。座敷の真ん中にはおびただしい数の拷問グッズがずらりとおかれてあってそれらを二人の鬼娘が吟味していた。


「讃良(さらら)と雲母(きらら)、ちょいといいかい」


 おんなじ顔が二つ同時にこちらを振り向く。


「あい」「あい」


「相変わらず不愛想な子鬼だな、君らのお師匠様はお手すきか?」


「お師様は今」「司命様と会談中」


 双子の子鬼娘は無表情で独特な物言いをする。私はそのまどろっこしいしゃべり方がどうにも好かない。


「そうかい、じゃあのんびり待つとするよ。茶でもくれるかい、私は王宮から走り落ちてきたばかりで疲れてしまった」


「お師様に言われた」「ここで仕事するよう言われてる」


 二人は顔を合わせて困ったように眉を動かしている。


「いいから、いいから私は客だぞ」


「客違う」「貫徹勝手に来た」


「まぁそれはそうだ……なぁ莫迦羅様はまだかかりそうか」


「さぁ?」「さぁ?」


「そうか……二人ともちょいとこっちへこい」


 小首を傾げてトコトコと近づいてきた小鬼コンビの耳元で今考えた悪知恵をささやく。彼女たちはムムムと眉をしかめたが、「上手くいったらお駄賃をやろう」の一言に屈服し、私の言葉にうんうんと頷いていた。


「讃良! 雲母! 主らそこで何をしていんす?」


 小鬼コンビの顔が一瞬にして固まった。私は奥座敷に視線を向け声の主を眺めた。


 その鬼は桜色の浴衣を着て、豪快に胸元を開けていた。顔は左目から頬にかけて暗闇でもわかるほどの火傷後があり、鬼娘では珍しくアンバランスに豊満な乳房が目を引いた。手に取っていた巨大な薙刀の拷問武器が彼女の背丈より二倍もの大きさなのにあふれ出る強者のオーラが違和を感じさせない。


「莫迦羅様、午後もご機嫌麗しゅう」


「貫徹か、貴様なぜゆえこんなところで油を売っておりんす? 昼休みはとっくに終わっていんしょう」


 彼女こそ衆合地獄を統括する長。莫迦羅であった。


「ちょいと野暮用で王宮に行っておりまして」


 私はその場で平伏し、深々と頭を下げた。


「そのようじゃな、司命のやつから聞いたぞ、まったく閻魔大王もわっちに何を遠慮することがあるのか……」


「それはお話が早い」


「駄目じゃ」


 私は上げかけた頭を制止させた。


「不服そうじゃな」


「滅相もありません」


「滅相もないって鬼の顔でないな」


「はは、バレましたか」


 私は観念して顔を上げ立ち上がり、下手くそな笑みを浮かべてみせる。


「莫迦羅様お願い申しあげます、私しめを浮世へ行かせてください」


「駄目じゃ」


「どうしてです?」


「はぁ、ちょいとこっちにきなんし」


 ひらひらと蝶のような手招きに誘われて私は莫迦羅のかたわらに正座する。莫迦羅は胡坐をかいたまま、コホンとせき込むとすかさず讃良がキセルを口元に運び雲母が火をつける。莫迦羅はキセルの火が消えないように軽く吹き戻しながらゆっくり紫煙を地獄のどす黒い空に吐き出した。


「主も付き合え」


「ではお言葉に甘えまして」


 私は以前に二代目から頂戴した鬼神煙草を取り出すと、自らの指をパチンと鳴らして見せた。小さな業火を作り出して鬼神煙草に火が付くと、私は肺に煙を吸わせ大きく吐き出してみせる。


「視察課という部署を主はどの程度知っていんすか?」


 莫迦羅ははるか遠くに聳え立つ針の山の頂上を眺めながらそう言った。


「多様化する罪に合わせた罰を作るために浮世に作られた部署とかなんとか」


「それもあるじゃがな」


 細く長い煙が昇っていく。さっきまで薄っすら聞こえていた亡者の悲鳴が遠のいて、座敷はしんと静まり返った。


「あそこはな、人間たちが抱いた負の感情から生まれた邪気を払うために作られた部署なのじゃ」


 なんと、私は驚きのあまり莫迦羅の横顔に視線を移した。彼女はそんな私に素知らぬ顔で紫煙を吹きかけ、これ見よがしに笑って見せる。


「けほっけほっ、それじゃあ私は悪霊だの怨念だのをやっつければいいのかい?」


「そう簡単に言う出ない、人間たちが抱いた負の感情は浮世に淀み、時が過ぎるほどその闇は濃く、根深いものになっておる」


「まぁ正直なんでも良いのです。それに私の霊力ならそんな邪気なぞ一網打尽にしてくれます」


「そうやって息巻いて、消えていった獄卒鬼をわっちはよく知っておりんす」


「消えたって私たちは死ぬこともあるまいし」


「邪気にあてがわれ妖になった輩もいるということじゃ」


「妖ねぇ」


 地獄の鬼が妖になったって大して変わらないと思うのは私だけだろうか。


「そういうわけじゃ、ここまで聞けばいくら主でも視察課なんてとこ」


「俄然行きたくなりました。ありがとう莫迦羅様」


 間髪入れずにバチンと乾いた音が鳴る。私の身体は簡単に吹っ飛ばされ、その先にいた讃良と雲母も巻き込んで庭の真ん中でようやく地面に腰をつけた。


「愚か者め」


「愚かだろうが、私は浮世へ行きたいのです」


 キセルの先が頬をかすめ、ずっと後ろの白壁を穿った。恐ろしくなって正面を向くと薙刀を肩に担いだ莫迦羅が立ち上がっていた。


「ちょっと待って、こ、これ以上近づいたら愛弟子の角をへし折りますよ」


 私はとっさに近くに転がっていた小鬼コンビの短い角をつるし上げて見せた。従者や部下に優しい莫迦羅のことだから少々臭い芝居でもなんとか誤魔化せると踏んでいたが、買収した讃良と雲母がのび上がっていては迫力に欠ける。


「わっちの地獄耳が主らの姑息な作戦を聞き逃すとでも? 主を吹き飛ばしたのはその二人に制裁を与えるためじゃ」


 バレてた。なすべなく立ち往生していると、地鳴りの如し足音を立てながら私の目の前まで踏み込んでくる。地獄屈指の逃げ足を誇る私が一歩も動けないほどの霊力と眼力。もはや私にできることは莫迦羅に首根っこを捕まれ吊るされるまでの時間をだらしない笑顔でやり過ごすことだけだった。


「わっちが優しく言っているうちに諦めなんし」


 地獄の空気が遮断され、苦しむ間もなく意識が曖昧になっていく。私は必死に莫迦羅の右手を払おうとしたがこれがびくりともしない。しかしそれでも。


「わ……しは、うき……に、行きたっす」


「どうしてそこまで浮世に憧れを持つのじゃ」


 がむしゃらにバタつかせた足が莫迦羅の腹にあたり、どういうわけか彼女は手を離した。地面に叩きつけられた後、のたうち回りながら気道を確保する。


「わざわざボロボロにならなくてもよかろうに」


「か、関係ないのです、私はたとえ果てようと浮世に行きたい」


「なぜじゃ? なぜそこまで浮世に憧れる?」


「そこに二代目がいるからです」


 ここ一番での私の声はよく響く。言葉は反響し音になり座敷の外へ流れると波のように衆合地獄の色街に消えていく。途中に針山で散々悪事を働いた亡者が掠れた悲鳴と重なって、生きた心地のないようなメロディが出来上がっていた。


「素っ頓狂大とはまさにこのことじゃな、あんな自分勝手のうつけ者どこがいいのか」


 呆れた口調で言い放つ莫迦羅に私のセンサーは反応する。これは行けるパターンに入った、と。


「またまた、莫迦羅様が一番そのうつけの良さをご存じのくせに」


「ぶっ飛ばされたいのか?」


「大変申し訳ありません、でも二代目にお会いしましたら、意地を張っていないではやく愛しのフィアンセのもとへ帰れと説教してまいりますゆえ」


 拳骨をくらう。だがしかしこれを甘んじて受けよう。


「一言多い、じゃがこれで閻魔大王が主に命じた理由もなんとなくわかったでありんす」


「はい、そろそろ閻魔庁選挙も近いので」


「司命が何を企んでいるのか見当はつかぬが仕方ない……貫徹、浮世であのうつけに会ったら、わっちの代わりに彼奴のふぐりを思いっきり蹴っ飛ばしてきなんし」


「はは、仰せのままに」


 深々と頭を下げる。私は心の中で勝ちを確信した。


「……許可書が出来たら持ってきなんし、閻魔庁へ推薦印を押してやりんす」


 薙刀を地面に突き刺したまま、莫迦羅は私が落とした吸いかけの鬼神煙草のシケモクに火をつけると、素知らぬ顔で吹かし始めた。

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