第12話 魔王 > 課長
「キミね~、突然当日の朝に有休申請だなんてシャカイジンの基本がなっとらんよ! キミの都合で勝手に休まれては困るんだよねぇ~」
「はい、申し訳ありません」
「キミが休んだ分だけ仕事が残っているからねえ、きっちりと終わらせてから帰るんだよぉ~。休むだけの余裕があるんだからねぇ~」
「はい、申し訳ありません」
有休明け。
出勤するなりハゲ課長に捕まり、ねちねちと嫌みをブチ撒けられていた。
俺が休んで誰が困るかというと、誰も仕事を手伝ってくれないので休み明けの俺が困るだけだ。
同僚の人間性が終わっているのではなく、他人の仕事を手伝えるほど余裕のある姿を見せると追加の仕事が降ってくるこの会社が終わっている。課長など嫌みを言うだけの仕事なのだから少しぐらいは手伝えと言ってやりたい。
心を無にして機械仕掛けの人形にでもなったつもりで謝罪を繰り返す。
コツは相手を意思交換のできる人間だと思わないことだ。嫌みを言う機能を持った機械と謝罪を繰り返す機械の動作確認だと思いこめば、不毛な時間に空しくなるだけで済む。
瞑想にも近い虚無の時間をやり過ごし、語彙を使い果たした課長が部屋を出て行く。これから優雅にコーヒーブレイクだろう。仕事を他人に押し付けることのできる方は仕事がなくて良いご身分ですこと。
「……ったく、この無駄な時間がなければ書類の一枚も処理できるってのに」
「ご愁傷様です、センパイ」
隣の席に座る後輩オフィスレディがこちらに顔も向けずそう言った。
パソコンの画面を凝視して、手元は絶えずキーボードを叩いている。こいつもまた俺と同じ、黒とグレーの間で生き抜いてきた社畜戦士の一人である。
「俺らの代わりに案件の一つでも進めろってんだ」
「困ります。課長の尻拭いをする方が大変じゃないですか」
コネ入社で部下をいびるのが仕事だと思っている課長には、弊社の案件を進める能力が欠如している。
おおよそ取引先を怒らせるか、手配ミス、書類不良などで俺たちが振り回されることになる。
結果として、休憩室で煙草でも吸ってもらい、そこから出てこないでいてもらうのが一番の貢献になる不良債権と化していた。
「センパイが早く出世してアレに成り代わってください」
「十年以上働いて役職付いてない時点で察しろよ」
「地獄ですね」
俺の能力が役職にそぐわない、という推測については否定しきれないが、我が社において個人能力はおよそ関係がないのは厳然たる事実である。
同族企業に近いこの会社は突然役職者が外部から増えることはあれど、生え抜きの従業員が昇格することは無いと言っても過言ではなかった。
昇格なし、昇給なし、休みほぼなし。
これでもかろうじてブラックと言い切らないのは賞与――ボーナスは並の企業以上だからだ。
賞与は年に二回。この二回だけで年収が倍以上に跳ね上がる。
昇給こそしないが、人を集める餌として初任給も悪くないため、金だけを考えれば満足度はなくもない。
そこだけは本当のことが書いてあるだけ他のブラックよりマシ。きのこたけのこ……いや目くそ鼻くそか。どちらにせよ限りなくブラックに近いブラックではある。
貯金が目的なら入社難度を考慮してオススメの会社だ。名前を書けば入れる会社の割にもらえている。
問題はその金を使う時間と余裕を奪われるところにあるのだが。あとは精神の平衡が失われやすいところ。
俺はデスクチェアにずっぽりと座って息を吐く。
長年酷使された椅子は沈む度にギシギシと不安になる悲鳴を上げた。
一息。
天井を見上げると、いつだったか精神に限界の来た同僚が空けた穴が目に入る。あれは確か線を引っこ抜いた電話機をブン投げた痕だ。
「……どうかしたんですか、センパイ」
席に着いたのにも拘わらず仕事を始めない俺に不審を抱いたのか、後輩が手を止めてこちらに視線を向ける。
睡眠時間が不足している人間に特有の昏い瞳をしている。
彼女と視線を合わせた俺の口から、不意に言葉が零れた。
「辞めるか」
「いいですね」
袖机から退職届を取り出すと、隣の後輩も同様に封筒を用意していた。
入社直後から用意していて、今まで袖机の一等地で鎮められていたそれを使う時がついに来た。
「でも突然どうしたんですかセンパイ。いつもより顔色も良いですし。昨日、何か人生を変える出来事でも?」
「人生変わったのは確かだが、ハゲの無駄話を聞いて、疲れ切ったお前の顔見たら、ここで仕事するのがアホらしくなった」
やりがいなんぞ欠片もない職場で素面になってしまったら、もう付いていけなくなってしまっただけ。
ハゲ課長より魔王の方が良い上司なんじゃないかと考えてしまったら、もうダメだ。
「俺は貯金あるが、お前も勢いで辞めて平気なのか」
「センパイの仕事ぶりを見て育った私に貯金がないと思いますか」
「そりゃそーか」
この優秀な後輩は下手すれば俺よりもよほど仕事を振られている。女子社員ゆえの仕事も時代錯誤ながらあったりするようだし。
ということは、俺以上に金を使う余裕と時間が存在しなかったことになる。
もはやお互い全く気にしていないが、後輩は死相を化粧で隠すこともしなくなっていた。
入社当初はキラキラしたイマドキの女子だったのに、社会ってのは残酷だな。
今となっては世間の流行すら分からぬ、会社に極ローカライズされて世界から取り残されてしまった哀れな疲れた女だ。俺もそれの男版だが。
社会がもたらす切なさに思いを馳せていると、ふいに後輩が呟いた。
「タイミングもバッチリ、会社を辞めるには良い日ですね」
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