残暑

トロッコ

残暑

夕空は排気煙で半分白く、少年少女の輝かしい恋がビルの影に区切られていく。ヒートアイランドの煌めきと車道の喧騒が混じり合い、凄まじい熱を発して、タイヤの溶ける重たい匂いがする。通学路に掛かった瞳はまばらだ。学生たちはお互いに言葉を発することもなく、ただ夕陽に身を焦がされている。真っ赤な背景と揺らめく蜃気楼の中で一歩、また一歩とふらつきながら彼らは歩く。何もかもが溶け出す灼熱の東京で、人間だけが黒く凝っている。背後では紫が、夕日に覆いかぶさろうとしている。その次に青が、そして黒が。駅前に道楽で植えられたパームツリーはこの熱気を通して、数千キロ彼方の故郷の熱を思い出しているのだろうか。それとも、人工の街が生み出した熱はやはり自然の紛い物でしかないのだろうか。

暑い。

背を這う汗に身震いする。

夏を経る度に東京は暑くなる。夏の熱はアスファルトに年中蓄えてられているのではないかと思うほどだ。冬の寒風もそれを黒い地面から取り去ることはできないのだ。そして、去年の熱を残しまま、また次の夏が来る。そうして、夏が来るたびにアスファルトに蓄えられる熱は増えていく。いずれ冬は消滅してしまうのではないか……。

僕は昔から代謝が人一倍良かった。良すぎるくらいだ。陽の下を少し歩くだけで、いつも水を被ったかのような濡れ様だ。タオルを取り出して、顔を、首を、背を拭うが、拭ったそばから汗が噴き出す。私は、私の体は世界に逆らうことは出来なくなってしまったようだ。汗と一緒に思考も希望も何もかもが体外へと流れだし、そのままどこかへ消えて行ってしまう。僕はバッグから水を取り出そうとして止めた。流れてしまうのならば、このまま汗を流さなければいい。水を飲まなければいい。そして、ふと私の頭にある考えが浮かんだ。私の足はいつもの道から次第に外れていった。

このまま、どこまで行けるか試してみようか。このまま水を一滴も飲まずに、どこまで行けるか試してみようか。そうだ、倒れてしまうまで歩き続けるのだ。ただ、ひたすら。地図も見ずに。自分がどこまで行けるか試してみたくなったのだ。表通りであろうが裏路地であろうが関係なくひたすら思った方に進み続けてみよう。それで途中で倒れてしまえば万歳だ。そのまま誰にも発見されず死んでしまえば万々歳だ。

裏路地に入って行った。僕はこの街で表通りから外れたことは無かった。裏に入れば住宅街が延々と続いている。住宅が僕の四方を囲み、後は空しか見えない。僕は元いた世界から切り離されているような感覚がした。実は僕はもうすでに、現実そっくりの異世界の迷宮に足を踏み入れているのであり、歩いているこの道と、僕を囲んでいる家の他には実は世界には何もなく、家の外壁を登って、その向こう側を見てみれば、ちょうどそれはテレビゲームの裏世界のような、ただ深淵が続いているだけなのではないだろうか。

藤の香りがする。僕はひたすら前に進み続けた。なるべく、同じ方向に歩き続けた。それは学校とは、そして駅とは反対の方角だった。僕は日常からの逃避を望んでいた。しかし、それが叶わないことは嫌でも分かっていた。それは遠くでいつまでたっても踏切の音が止まなかったからだ。結局僕は、日常から逃げることは叶わない。

この行動は家出に似ていた。逃げられないとは分かっていながら、結局いずれは家に帰るとは分かっていながら、無意味な逃避のために自分の頭と足と時間を浪費するのだった。この行動は、始めてではないような気がした。いや、実際そういう家出を何度かしたことはあるのだが、それとは違う感覚だった。僕でない記憶。僕でない何者かの記憶が「この行動は始めてではない」と言っているのだ。しかし、それが誰の記憶なのかは全く思い出せない。

墓地の前を通り過ぎた。そしてずんずんと先に進んでいく。相変わらず街から迷宮のイメージは解けない。それはどこまで複雑で、どこまでも先の見えない旅だった。「リミナルスペース」なるものが少し前にネットで流行ったが、それを見たときの不安に似ていた。やはりどこか懐かしく、自分がどこか一人で、現実そっくりの異世界、それも今自分がいるこの空間しか存在しない異世界に迷い込んでしまったような感覚だった。住民になぜか一人も会わないこともその夢想を加速させていた。

やがて線路に当たった。踏切はどこなのだろう。やはり音は遠くから聞こえているが、どこにも見当たらない。不思議だ。この都会でそんなことあり得るのか? 僕は来た道を少し引き返して、別のルートを取った。しかし、いずれまた線路に当たり、戻った。そして当たり、戻りを繰り返しながら、先へ先へと進んでいった。僕は喉の渇きを感じ始めていた。だが、水には手を付けなかった。

と、そのとき、僕は驚いて思わず立ち止まった。目の前にあったのは墓地だった。さっき見た墓地だった。人間は迷子になるとぐるりと同じ場所に戻ってきてしまうとは聞いたことがあったが、それにしたって、それで説明を終わらせていいのかと思えるような現象だ。墓地に戻って来た。確かに僕はまっすぐ進み続けていたはずだ。墓地に戻って来た。下手な暗喩だ。だが、現にそれが起こっている。自分がただの偶然に意味をつけているだけかもしれないが、それにしたって何かのほのめかしのようなものを感じる。

僕は墓地から別のルートを取った。そっちは確かに言ったことのない道だった。僕は墓場の不安が徐々に薄れ、またあのリミナルスペースの不安に戻って行くのを感じた。水は飲まなかった。学校、会社、そして住宅はもう数えきれないほど見ているはずだが、それでも喉は乾かない。僕は汗っかきだが、それでいて、脱水症状になったことは人生で一度も無かった。挑戦はどこまで続くのだろうか。僕はイライラし始めた。そういった僕の体質は僕の性格を表しているように思えた。もう倒れてしまいたいのに、無駄にしぶとくて、何だかんだ倒れることのできない僕。それは努力によって倒れないのではなく、既に倒れ、ズルズルと引きずられているのにもかかわらず、そのままいつまでも受動的に耐えることができる、というだけだった。

やがて、図書館に出会った。どこにでもある、一階建ての小さな図書館だ。僕は何となく、図書館に入って行った。図書館には受付にすら人はいなかった。席を外しているのだろうか? だが、公共の施設でそんなことあり得るのか?

奥に進み、「ヤングコーナー」と書かれた本棚の前で止まる。そこにはライトノベル、漫画、自己啓発本、若者に刺さる古典作品といった本が無造作に詰め込まれていた。僕はその本棚を、右上から蛇行するように眺めていった。そして、一冊の本を見つけて止まった。『ライ麦畑でつかまえて』……。この本に別に思い入れは無い。というか、むしろ嫌いの部類に入っていた。中学生、高校生と、二回読んだが、何が面白いのかさっぱり分からなかった。自分の母親は生涯ベスト級の本だと熱く語っていたが、自分にはよく分からなかった。主人公の、ウィリアム・ホールデン?だったか?がただ家出するだけの話。結局、帰ってくるんだっけ? それすらよく覚えていない。サリンジャーには申し訳ないが、これがベストセラーになる意味がよく分からなかった。だが、そのうろ覚えのあらすじに心当たりがあるような気がした。先程思い出した「誰かの記憶」、それはこの、ライ麦畑の物語……ホールデンの記憶なのではないだろうか。僕は本を取って裏表紙を見る。「ホールデン・コーンフィールドは……」そんな名前だったか? ウィリアム・ホールデンのような気がしていたが。だが、主人公の名前すら憶えていないのに、この本にどこかシンパシーのようなものを感じるのは確かだった。好きと嫌いは紙一重だ。僕にはそれが人一倍に強かった。どちらかというと、「嫌い」のほうが僕に与えた影響が大きい気がする。僕はライ麦畑を取って椅子に座り、一、二ページ読んでみた。が、やはり今回も、というか今回は今まで感じなかったこの本に対する激しい嫌悪感が体の底から湧き上がって来て、直ぐに椅子から立ち上がると、元の場所を確認もせずにライ麦を本棚に押し込んだ。そして、図書館を後にした。やはり受付に人はいなかった。

もう夜になっていた。僕はひたすら歩き続けていた。こうなったらヤケだ。ぶっ倒れてやる、倒れてやる。もう知るもんか。電灯はまばらで、住宅は暗かった。僕は目をつぶって歩いた。瞼を透かして、時々光がやって来ては、頭上を越して背後の闇に吸い込まれていく。足が少しもつれ始めたような気がした。世界がぐるりと回る気がした。重力がぐるりと回る気がした。家々がその形を変えて、目を閉じた僕がぶつからないように道を開けているかのように僕は不思議と何にも当たることは無かった。壁を登っているような気がした。坂は途端に下り、また上がり出した。遠くの踏切の音がいつにも増して大きく聞こえてきた。空が足元にあるような気がして、実は僕はもう倒れていて、ただ死を待っているだけの状態なのではないか、とも思えて来た。そして、突然、ゴオーッという音に目を覚ました。気づけば僕は駅の雑踏のさなかにいた。

結局、線路をまたぐことも、倒れることも、何もできなかった。

僕は引きずられるように改札をくぐった。

改札を過ぎると、数万という市民が蠢く一塊となって十両編成のJRへもたれ掛かる。泣きもせず、笑いもせず、肩と肩が触れ合うこともなく、見事な統率の下に人々は吐き出され、また飲み込まれる。シュウーっと列車が長い息をつく。発車を告げる電子音がホームのアーケードにぶつかり、反響し、増幅する。駅前ビルの電光掲示板が流行りの歌を歌うが、クラクションとエンジンの唸りにかき消され、擦れた赤い音しか聞こえてこない。列車内の皆は黙って手元を見つめている。ここまで音に溢れた都会で、なぜこうも人間だけが静かなのだろう。駅と駅に区切られた数分間、人々は孤独に揺られている。

先頭車両の窓から線路の先を見つめる。茶色く焦げた沿線の上を黒い架線が幾筋も走り、鉄道のライトがそれを闇から取り出してはまた闇に消していく。僕はまた目を閉じた。そして目を開けば、人はいなくなり、列車だけが走っていた。次に起こることを考えよう。カラスが一匹、列車の窓にぶつかって、列車は緊急停止する。僕は誰もいない車内で誰かが怒っているのを背後に聞く。それは世界のどこかから湧き上がって来た怒りであって、この車内で発生したわけではない。列車はそれをここまで運んできただけだ。カラスの血が、フロントガラスを伝ってゆっくりと縦断していく。僕はただそれを見ている。それを見て、ただ一言呟くのだ。

あぁ

暑い。

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残暑 トロッコ @coin_toss2007

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