23話・神田マユリ②

 アイリは、ナナカとの会話を隠れて録音していた。そしてその証拠を持って、喫茶店の窓際の席で、一対一でマユリと対峙していた。


 ゴールデンウィークに入った土曜の午後であり、店内にはそれなりに人がいて、窓の外の人通りも多かった。


 アイリの格好は、以前ゆかりとユイに買ってもらったセーラーワンピースに、ゆかりのクリスマスプレゼントの星の髪飾りだった。


 勝負服だ。……今ここで行われているのは、間違いなく本当の戦いであった。


「……それで、この話を聴いて、どう思いました、マユリさん?」


 ナナカの話を一緒に最後まで聞いていたアイリが、マユリに問う。


「……わたしにどうしてもらいたいのかな、アイリちゃん?」


「簡単な話です。これを警察に提出されたくなかったら、ナナカと今すぐ別れてください、性犯罪者野郎」


 単刀直入に言った。


 そうだ、結局のところ、アイリは我慢できなかった。二人の関係が間違ってると、端的に思った。不健全な関係に巻き込まれている親友を見て見ぬふりは出来なかった。


「……秘密にしておくように念は押したんだけど、そりゃ、相手がアイリちゃんだったら話しちゃうよね」


 マユリは涼しい顔のままイヤホンをテーブルにおいて、続けた。


「聞いてるよ。アイリちゃん、近所の大学生のお姉さんのことが好きなんだってね」


「……ナナカからですか」


 そりゃ、マユリの話がここまでこっちに漏れるなら、そうなるのも当然だろう。音源を編集した意味はまったくなかったのである。


「おそらくナナカちゃんはそんな君への厚意でわたしとのことを話したんだろう。それをこんな形で裏切って、いいのかな?」


「それとこれとは話が別です。たとえ嫌われても、やるべきことはあります」


「でもアイリちゃんはそのお姉さんとのことを諦めるつもりでもない。それはおかしな話だと思うけど」


「話を逸らさないでくださいよ。私は今、マユリさんがナナカを手籠めにしたことについてお話してるんです。……それで、どうしますか?」


「……そうだね、どうしようか」


 天井を見上げてひとりごちたあと、再び視線をこちらにやる。


「アイリちゃんはさ、そもそもなんでこれが良くないって、そう思うの? わたしがナナカちゃんに嘘をついてたから? 年の差があるから? それとも、自分の恋は叶わないのにナナカちゃんだけ幸せそうだから?」


「全部違います。嘘くらい誰だってつきますし、13歳差そのものは両方とも大人なら問題ないですし、私は嫉妬してるわけじゃないです」


「じゃあ、なんで?」


 おそらくこれは、嫌がらせなのだろう。だけど、アイリはそれをあえてまっすぐ受け止めた。


「大人と子どもだからですよ。マユリさんとナナカが大人と子どもだから、許されることじゃない」


「大人と子どもじゃ、なんでダメなの?」


「権力勾配です」


「難しい言葉知ってるね。おおよそ小学6年生から出る言葉じゃない」


「大人と子どもじゃ、力がぜんぜん違うんですよ。今みたいに上手く行ってるならまだいいですけど、もしも関係が拗れたとき、痛みを伴うのは間違いなくナナカの方です。大人は子どもよりずっと物知りだし、お金も持っているし、身体的な力も強ければ、社会的にだってずっと強い。そうなれば、強い側が弱い側をいじめることになる。支配することになる。そのキツい勾配が、傾斜が、そのままナナカへの痛みになる」


「わたしは大人だから、そんなことしないよ」


「大人だったら、子どもに手は出しませんよ」


「じゃあ良いんじゃないの、両方とも子どもなんだから」


「詭弁です。自分よりずっと無知で、ずっと立場の弱い相手と対等なつもりで付き合うのも、同じく詭弁じゃないでしょうか。少なくともあなたは、心以外は全部大人でしょう?」


「……よく言えるね。お姉さんと付き合いたいんじゃなかったの?」


 そうだ、アイリは自らの心に刃を突き立てるように、マユリに反論していた。


「……殺人者が目の前で殺されそうになってる人を助けても良いんです」


「良いこと言うね。そうだ、目の前で行われてることと、その人の素性は関係ない。……だからわたしも言っていいかな? アイリちゃんは本当に可愛いからその気になればイケると思うけど、でもそのお姉さんと付き合わないほうが良いよ。お姉さんと君が実際に対等だったとしても、世間は絶対にそう見てくれないから」


「……余計なお世話です」


 ああ、そんなことは百も承知だった。わかりきったことだった。


「それで、どうするんですか。別れるんですか」


「……わたしはね、大学で児童心理の研究をしてるんだ」


 心底気持ち悪いなと思う。こいつにだけはさせてはいけない研究だ。


「きっとこの事がバレたら、すんごく面倒なことになる。警察のご厄介になるのはギリギリで避けられたとしても、研究は続けられないし、退学になるかも」


「じゃあ」


「でも、一方でそんなことどうでもいい気もするんだ。愛を貫いて研究できなくなっても別にね。文系の大学院生の未来なんて、そもそも暗いし。前科者になっても別に良い気がしてきた」


「……」


 猛烈に、嫌な予感がする。


「でもさ、そもそもアイリちゃんは、わたしのこと通報できないよね?」


 予想通り、急所を突かれた。


「だって、そんなことしたら、ナナカちゃんは今度こそ再起不能になっちゃうもん」


「……別に警察以外にだって、いくらでも頼れる場所はありますけど」


「でも、そこに頼っても普通に警察沙汰になるかもしれない。だから今だって大人の人に頼らずに、一人でわたしと対峙してるんでしょ? 違う?」


「……そうですよ」


 アイリは長い沈黙の末に、それを認めた。嫌な汗が、額から流れている。


「じゃあ、はいそうですかって頷けるわけないよね。わたしはナナカちゃんのことを心底愛している。ナナカちゃんもそうだ。それで、アイリちゃんには止める手段がない。これで止まるやつはいないんじゃないかな? アイリちゃんだってもしお姉さん付き合えたとして、他人にいきなり別れろって言われて、はいそうですかってならないでしょ?」


「……ほ、本当に通報しますよ」


「出来ないくせに」


 ああ、出来ない、出来ないとも。


 アイリは心底後悔する。……こんなことになるなら、せめてユイの手くらい借りれば良かった。


 これが大人と子どもの差だった。


 大人が本気を出せば、口喧嘩で勝つことも出来ない。こっちが頑張って必死で理論武装したところで、容易く崩されて終わる。


 だからこそやはり、大人と子どもは付き合ってはいけないのだと、強く思う。


「まあ別に、警察に通報したきゃしてみれば良いんじゃないの? そしたらナナカちゃんに今すぐ連絡して、全部作り話だってことにしてもらうから。じゃないとわたしが捕まっちゃうからね。そう言ったら快く受け入れてくれるんじゃないかな。あの子、わたしのこと大好きだもん」


 ああクソ、何だこいつは。


 この二人は愛し合ってる――だから最悪、そんな方法も取れる。こっちの武器は相手を騙し討ちして録音しただけの音源で、そんなものはナナカが嘘だといえば、それで終わるだろう。


 ……例えばこの場で彼女の発言を実は録音してたとか、そんなのがアリならば勝つことは出来るだろうが、勝って、それでどうするのだろうか。


 かくして窮地に追い詰められたアイリは、しかしそれでも、諦めることは出来なかった。こんな卑劣で、どうしようもない人間に、ナナカは渡せなかった。


 だからアイリは、声を振り絞り、続けた。


「……お願いします。ナナカと別れてください。そしたらこの音源データはすべて削除しますし、これから先あなたが他の子にいくら手を出したところで、なんの文句も言いません」


 端的に言って、アイリは頭を下げたのだ。頭を下げて、ひたすらに頼んだのだ。


「だから、お願いします。私はただ、ナナカのことが心配なんです。あの子に消えない傷がこれ以上つかないようにしたいだけなんです。……例えばこれから先、私以外の誰かにこの関係が露見したときに、一番傷つくのはあの子なんです。だから、傷の浅いうちに、お願いします」


 自分は、何をしてるのだろうか。間違ってるはずの相手に、なんで頭なんて下げてるんだろうか。


 もしこれで、それでも彼女が首を縦に振らなかったら、その時はどうすれば――


「……そうだね、そのとおりだね」


 だけど、意外にもマユリは簡単に折れた。


「いやごめんね。私も本当はわかってたんだよ。でも、アイリちゃんをいじめるのが楽しくて、つい言い過ぎちゃった」


「……はい?」


「だってさ、この関係、多分長続きしないじゃん? ナナカちゃんは口が軽いわけだし、今回口を滑らせたのがたまたまアイリちゃんだったから良いけど、もっと別の相手だったら即座に通報されて対策も打てないかもだし。わたしだって逮捕は嫌だからね」


「……え?」


 笑顔のマユリに、アイリはただただ困惑していた。


「でも、直接的に別れを切り出すのはダメだと思う。それより、あの子の前から何も言わずにいなくなったほうが良いんじゃないかな。良くはないけど、長期的に見たらこっちのほうがお得と言うか」


 言いながらスマホを取り出すと、マユリはスピーカーモードにして電話をかけた。


『はい、◯◯塾です』


「あ、どうも、お世話になってます、神田です」


『神田さん? どうしたんですか――』


「――わたし、今日でバイトやめるんで」


『え、はい、今なんておっしゃいました?』


「とにかくやめるので、今までお世話になりました」


 そこまで言って、マユリは電話を切った。


「……無責任ですね」


「だって別れるって言っておきながら塾で働き続けるのは無理でしょ? このままわたしはナナカちゃんの前から何も言わずに消えるし、なるべくあの子がいそうな場所には行かない。それでいいでしょ?」


「……良いですけど、やけに物わかりが良いですね」


「本当はさっきの録音聞かされた時点でこうするつもりだったんだよ。やっぱり、秘密を守れない子とは付き合えないからね」


 笑顔で言う彼女に、アイリの胸はチクリと痛んで。


「あのバイトもダルいしね。あの塾のプレスリリース読んだ? 身内で性犯罪者が出て、しかも塾内で盗撮被害が出てるかもなのにヌルいことしか言ってなくてさあ、ダメだなここって思ってた。……アイリちゃん?」


「……いえ、なんでもないです。あと、信じられないので、ラインもブロックしてください。他の連絡先も全部削除で」


 気を取り直して、アイリは言う。


「うんうん、いいよ。ブロックすれば良いんだね?」


 そう言って彼女はブロック画面を見せた。やはり、笑顔のまま。


「……あの、マユリさんは、それで良いんですか」


「自分で言っておいて。そりゃ良くないよ? 今でも好きだし。でも、しょうがないよ。あの子は秘密を守れないし、女児は星の数ほどいるしね」


「……最悪ですね」


「アイリちゃんにだけは言われたくないなあ。さっき言ってたじゃん。"これから先あなたが他の子にいくら手を出したところで、なんの文句も言いません"って」


「言いましたけど、ダメって言ってもやるでしょ」


「まあね。わたしはそういうやつだから」


「最悪だ」


「最悪ついでに、わたしと付き合ってみない? アイリちゃん本当に可愛いし。今日のその格好とか誘ってるようにしか見えないし」


「やめておきます」


「即答かぁ」


「25歳と11歳は恋愛できないので」


「20歳と11歳は出来ると思ってるのに?」


「……あんまナマ言ってると警察呼びますよ」


「冗談だって。でもわたし美人だし、結構いけると思うんだけどなあ」


 言いながら、すっかり冷えたコーヒーをマユリは飲む。


「……でも、ナナカちゃんには悪いことしたなあ。ファーストキス奪っちゃったし」


「……本当に最悪ですよ」


 吐き気がする。いくらフランクに見えたところで、この女は単なる性犯罪者だった。


「でもさあ、やっぱりわたし、これじゃ一方的に損しただけだし、なんかご褒美がほしいんだけど――」


 こいつは何を言ってるのか。とっとと目の前から消えてほしい。


「例えば、アイリちゃんの脱ぎたてパンツとか」


「は、はあああっ!?」


 今日イチでデカい声が出た。


「冗談だってば。いや、くれるならほしいけど」


「あげませんから! いいから、目の前から消えてください! 通報しますよ!」


「うんうん、これ飲んだら行くよ。……そういえばこないだここでパフェ奢ったとき、途中で残して退席したよね。あの時のスプーンってどうなったと思う?」


「死ねっ!」


 アイリは中指を立てて、しかし席を立ち上がりたくなるのを我慢する。目の前に自分が使ったスプーンがあったからである。


「安心して、舐めてないから。……じゃあね」


 そう言うと、コーヒーを飲み終えたマユリは席を立った。


「次に他の子誑かしてるの見たら普通に通報しますから」


「さっきと言ってること違うじゃん」


 財布から千円札を取り出すとテーブルに置いて、マユリは喫茶店を出ていった。


「……」


 マユリが出ていって、すっかり静かになった座席で、アイリは改めて冷静になる。


(……やってしまった)


 たとえいくら間違っていたとしても、アイリは自らの手で親友の恋を終わらせたのだと、そんな自覚が遅まきにやってきて。


 気がつけば、涙が頬に伝っていて。


「……ごめんね、ナナカ」


 そんな呟きは、空調に飲まれて、消えていった。

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