4話・子どもの頃にありがちな失恋?
誇張抜きに吐きそうだった。
どうしてお姉さんが、葵ゆかりが、駅前の繁華街で知らない男を歩いているのだろう――アイリの頭の中は混乱に包まれていた。
確かに葵ゆかりは美人だ。群衆の中でも目を引く。
だけどそれでも、その実態はしょうもないオタクで、陰キャで、コミュ障だ。だから友だちもろくにいないし、アイリやナナカのような子どもとしかろくに話せない可愛そうな人なのである。
なのに、どうしてだろう。その根暗オタクのゆかりが、どういうわけか知らない男と歩いている。同世代と思しき男とゆかりの組み合わせなど、アイリは初めて見た。
(いやいや、これは何かの間違いだ、そうに決まってる)
地面がゼリーになったみたいにグラグラするし、吐き気は収まる気配を見せないが、それでもアイリは二人のあとを電柱に隠れながら尾行する。
(どうせしょうもない勘違いに決まってるよ。友だちか何かだよ)
友だちがいたところなんか見たことないくせに?
遠くてよくわからない。男の人相もよくわからず、ただ大学生なんだろうということくらいしかわからない。無論、ゆかりの表情も掴めなかった。あるいは、脳が理解を拒否しているのだろうか?
(お姉さん美人だから中身とか興味ない最悪な相手に粘着されてるのかも)
だったらどうすればいいのか。それすらも希望的観測なのだろうか。
自分は単なる近所に住む小学生で。
自分がここで茶々を入れたところで何が変わるわけでもなくて。
例えばここで偶然を装って突っ込んで、それでこんなふうに紹介されたらどうする?
『あ、この人は◯◯くん。わたしの彼氏なんだ――』
おえええええええええええええっ。
ふざけるなよ、ロリコンじゃなかったのか。私のこと可愛いって言っただろ。私はちゃんと覚えてるぞ。いつも私のことが大好きだって言ってたじゃないか。小さい子が好きだって言ってたじゃないか。私のコスプレであんなに喜んでたじゃないか。あれは嘘だったのかこのファッションロリコン――アイリの脳内は、まるで嵐に巻き込まれた難破船のごとくグチャグチャになっていく。
そんなふうに情緒をめちゃくちゃにされてるうちにも、二人は歩を進めていって。
「……!」
男は唐突にゆかりの肩に手を伸ばし、アイリは飛んでいた。
考えるよりも先に、体が動いていた。
ドロップキックである。
男の背中に、ドロップキックが、両足が直撃する。
「え、ええええええっ!?」
「お姉さん大丈夫ですか、こいつ変態の痴漢魔ですよね!?」
男を踏みつけたまま、自分でも思ってないことを自己弁護的にまくしたてる。
「いや違うけど!?」
「じゃあなんなんですか!?」
「同じゼミになった人だけど!?」
「ゼミ!? 夏にミンミン鳴くやつですか!?」
「……そうじゃなくて、大学のゼミナールだよ」
その声はゆかりではなく、足元から聞こえた。
「あ、ごめん、中谷くんッ」
ゆかりが彼に駆け寄り、反射的に降りる。
「……いや、僕も悪いよね。肩に糸くずがついてたからってほぼ初対面の女性の肩に触れようとするのは、良くない」
言いながら中谷と呼ばれた男は立ち上がり、ホコリを払った。
「どうも、僕は中谷悠也。葵さんと同じゼミになった、大学の同級生だよ」
いかにも人畜無害そうな笑みを浮かべて背の高い男が名乗る。
「……私は小日向アイリです。お姉さんとは将来を誓いあった仲です」
「誓いあってないから! ていうか謝りなよ!」
「すいません。お姉さんの肩に触ろうとしていたので痴漢だと思いました」
まるで気持ちがこもってない棒読みだった。
「あはは、ごめんね」
「あー、この子は親の繋がりで近所で仲良くしてる子でね」
「将来を誓いあった仲です」
「だから誓いあってないって!」
「……なんか良くわからないけど、お邪魔だったかな?」
「そんなことないって全然! ごめんね、アイリちゃんがこんなこと、怪我とかしてない!?」
ペコペコと、アイリの代わりにゆかりは頭を何度も下げる。
「いいや全然大丈夫だよ。僕はもう行くから」
「え!? でも本当に大丈夫!?」
「大丈夫だよ。アイリちゃんもいきなり人に蹴りを入れるのはやめたほうがいいよ。怪我させちゃうかもしれないし、怪我させられるかもしれない」
男はしゃがみ、菩薩のような笑みを浮かべながら、アイリに視線を合わせて言った。
「……すいません」
「それじゃあ葵さん、またゼミでね」
男はこちらに手を振って、離れていった。
隣のゆかりが、ほっと胸をなでおろす。
「……怒られなくてよかったね。怪我もしてなかったみたいだし」
開口一番がそれなのかと少し意外に思いながらも、目を合わすことも出来ずに気まずげに返す。
「……お姉さんは怒らないんですか」
「……いや、ぶっちゃけ困ってたから、正直割と感謝していたり、してなかったり」
「……困ってた?」
そこでやっと、ゆかりと目を合わせる。
「最近同じゼミになってさ、最寄り駅が同じだってバレてついてきちゃって、気まずい会話をずっとしてた」
「お姉さんは美人ですからね」
「そんなことないよ」
「そんなこと大アリです。気をつけたほうがいいです」
「でも別に変なことされたわけじゃないし」
「されるかもしれないですし」
「……あは、そうかもだね。でも気をつけたほうがいいよ、アイリちゃんも。さっき中谷くんが言ってたけど、こういう場合は蹴っちゃダメだって。怪我させちゃうかもだし、怪我させられるかもだし」
「……それはまあ、そうですけど」
言いながら、二人はどちらからともなく、歩き出す。
「わたしは相手を怪我させちゃうのも嫌だけど、アイリちゃんが怪我させられるほうが嫌かな。もし中谷くんがキレたら一緒に逃げようと思ってた」
「それは、なんというか、その、すいません」
「良かったよ、中谷くんが優しくて」
「お姉さんが美人だからですよ」
「そんなことないと思うけど。あ、このそんなことないは、中谷くんが怒らなかった理由についてで、わたしが美人かどうかの是非はこの際――」
「美人の前でいい顔したかっただけに決まってます。怒ったら格好悪いですからね」
「いやー、そんなことないと思うよ……」
そこで会話は尻すぼみになり、沈黙が二人の間に立ち込める。
「……ていうか、後ろついてきてたよね」
しばらく歩いて、周囲が住宅街になってから、彼女は切り出す。夕暮れに、二人の影が伸びていた。
「気づいてたんですか」
「流石に気づくってば」
「……最初、彼氏か何かかと思いました」
「それでつけてたの?」
「……はい」
「彼氏なんかじゃないよ。だいたい、わたしみたいなコミュ障に彼氏ができると思う?」
「全然思いません」
「……あははは、そこはそんなことないよって言ってほしかったかな」
なんて話ながらも、アイリの家は近づいてきて。
「でもまあ、たしかに彼氏はありえないかもね」
そこで歩を止めると、ゆかりは振り返った。
「……なんですか?」
「これはアイリちゃんにだけ話す秘密なんだけどね」
「秘密?」
「うん、他の人には話しちゃダメだよ? まあ、アイリちゃんはそのへん大丈夫だと思うけれど」
そこまで言って、彼女は身を屈めると、アイリの耳元で囁いた。
「……わたし、女の人が好きなんだ」
「それは、えっと、その」
「恋愛的な意味で」
「……そうなんですか」
胸が馬鹿みたいに騒いでいた。
「他のみんなには内緒だからね?」
「……言いませんよ」
きっと、ナナカのような子なら、この場面で素直に喜ぶのだろう。
だけども、小日向アイリは聡い子どもだった。
自らが子どもであることを盾に振る舞いを決め、中谷の背中に蹴りを入れ、思ってもない『変態の痴漢魔』などという疑いで己の行動を許してもらおうとする。
そんな聡い子どもだから、わかってしまった。
ああ、これは脈がないと。
例えば、昨日のハロウィンの一幕。
『お菓子かいたずらかって訊いたじゃないですか』
『……そう言えばそんな話もしてたね』
『ハロウィンのメインイベントはこっちですよ』
『いたずらを選んじゃ』
『駄目ですよ。いかがわしい』
『いかがわしくないし。ただ椅子にしてもらったり……』
『えぇ……』
『あ、椅子じゃなくてお馬さんごっこ! こっちなら大丈夫でしょ!?』
『自分が割とライン超えの発言してるって気づいてますか?』
昨日こんな会話をしたあとに、同性愛者であることをカミングアウトするのは、逆説的にその気がないことを表していた。
昨日の会話に少しでも本当のやましさを感じていたなら、こんなこと言えるはずがない。どう見てもヤバい人だから。相手を怖がらせるから。
だけど彼女は、その"相手を怖がらせる"という可能性に至らなかった。それはつまり、アイリちゃんのことは可愛いと思うけれど別にそういう対象ではないよという意思表明に等しくて。
「……私なんて、どうですか」
「? なんて言った?」
ギリギリ彼女に聞こえない声量で呟いた言葉は、予想通りに空気に溶けていって。
「いえ、うれしかっただけです。他の誰にも言えないことを教えてもらえて」
「まあ、アイリちゃんなら大丈夫だと思ったし」
「別に隠すことじゃないと思いますけどね。……好きなものは好きでいいと思います」
お前が言うことかよと心のなかで思いながら、それでもアイリは言った。
「まあ、大人には色々あるんだよ」
子どもにだって色々あるのだ。
「私が大人になったら、付き合ってくれますか」
だから、こんな戯れみたいなことしか言えない。
「えー、どうだろ?」
「いっつも可愛い可愛い言ってるくせに」
「アイリちゃんにはもっといい相手がいるよ。その時にはわたしもおばさんだろうし」
そういうお姉さんにはいい人はいるんですか――とは訊けなかった。
ゆかりは大学生だ。ゼミだかセミだか知らないが、彼女には彼女の人間関係がある。小学生の自分とは、生きる世界が違う。
いっそのこと、恋愛に関心がない方がまだ勝算があったのではないか。
もとよりゼロに近い勝率が僅かながら上がったことを喜ぶ?――否だった。
彼女はこうして他人にカミングアウトするに足るなにかがあったわけで、それはきっと自分と全く関係ないところで進んでいて。
(あー、うるさいうるさいうるさい)
頭の中にナナカを飼うべきだった。
ナナカならきっとこう言う。
『えー、じゃあワンチャンあるじゃん! 良かったねアイリちゃん!』
そうだ、ワンチャンあるのだ。
あるったらある。ワンチャンはある。
「……ねえ、お姉さん」
「なぁに?」
高負荷のストレスに晒された脳は、通常では取り得ない選択肢をとった。
「私、お姉さんが好きです」
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