第9章 帰郷 2
私たちの世界は収容所の10倍以上の面積を有している。
収容所内と同じように陸地があり、海があり、大小の島があり、川や湖があり、標高の高い山もある。
高層ビルが建ち並ぶ大都会はないけれど、大自然と調和がとれた美しい街が各地に点在している。
広大な領地の割に総人口は1億人弱といったところで、収容所内の人口の80分の1にも満たない。
それ故に、あり余るほどの天然資源の恩恵を受けることができ、食糧難などもまず起こり得ない恵まれ過ぎた環境でもある。
野鳥が勝手にばら撒いてくれる種子が糧となる稲や麦や野菜や野草を無作為に生い茂らせ、色とりどりの果実をたわわに実らせる。
散歩がてらに日々の食材がいくらでも穫れるのだ。
飲み水にしても、濾過や煮沸せずに飲むことができる湧水や清らかな河川があり、街中の至る所に掘り井戸も整備されている。
浄化施設など必要なく、塩素やフッ素の入った水に依存する必要もないのだ。
また労働時間に関しては1日3時間以内と決められていて、それ以上の長時間就労は特別な場合を除いて許されていない。
働きすぎると罰則の対象となるのだ。
逆に、働きたくなければ一生涯仕事に従事しなくてもいいとされている。
無職であっても誰からも咎められることも蔑まれることもない。
働きすぎることの方が却って疎まわれる要因になる。
恥ずべきことは無職ではなく、無知なことであると周知されている。
そうした価値観が反映されているのだろう、各種専門分野の講義が大きな街に限らず、小さな町や村のどこかしらで毎日開講されている。
何かの知識を得たいと思う人は講義が行われている(学び場)と呼ばれる場所に出向いて行き、興味のある分野の講義に出席して自主的に学んでいくのだ。
(学び場)では自分のレベルに合ったクラスを自由に選択することができ、年齢不問で誰でも参加することができる。
教える側も自主的に活動している。
教師になる人は各分野の現場で実績を積んでいる現役のエキスパートだ。
自分の知っている専門知識を分け与えるという献身的な観点から教壇に立っている。
教師になるのに教員資格は必要ない。
そもそも資格制度というものが無いからだ。
教える側に必要なのは実体験で培った知識と見識だ。
教えを乞う側に必要なのは貪欲な好奇心と飽くなき探究心だ……、と若かりし頃の私は自負していた。
その点は今も変わらない。
希望する講義が遠方の場合は鉄道やリニアバスと呼ばれる公共交通機関を利用するか、もしくは自家用のリニアカーに乗って通うことになる。
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