第6章 研究所 5

「たまにだけど、洗脳が一つ解けると連鎖的にいくつも解かれてしまうことがあって困るわ」

 ふんわりとした髪に手を添え、無邪気に話す彼女は女神のように美しい、

……、ふと頭に思い浮かんだ陳腐な文言に思わず失笑しそうになる。

夜遊びに浮かれ耽ったあの街でぽっこりと腹の突き出た中年男性に言われた台詞が頭の隅に残っていたのだ。

「君は女神のようだ!」

私を眩しそうに見て彼はそう言ったのだ。

悪い気はしなかった。

でも私は女神を知らないし会ったこともなかった。

所詮は脳内の創りものでしかない。

人間は創造物に目がない生き物らしい。

 それはともかくとして、この手の女性は女神とかではなく才媛とかいうのではないか……。

挨拶がわりに手渡された経歴書を見ると、彼女は20歳で博士号の称号を与えられていた。

若くして才能を開花させた彼女は、世界でも指折りの生態学者として見い出され、この研究所の専属として引き抜かれたのだろう。

でも彼女は、私の世界の存在を知らない。

今いる場所は青い惑星だと信じているに違いない。

自分自身も洗脳されているとは思いもしないだろう。

非人道的な実験に加担している自覚もまるで無さそうに見える。

当然自責の念に駆られることなどまずないだろう。

却ってこの仕事に従事していることを誇らしく思っている節が見られる。

でも、そんな彼女を見ているとなんともいたたまれない気持ちになる。

そう思った途端、反射的に自責の念が頭の中で声となる。


おまえは偽善者だ……、

おまえも操り人形にすぎない……、

自分を誤魔化しながら生きるのか……、

事の真相を話すべきだ……、

もうひとりの自分の声がこだまのように鳴り響く、

看守がいない今がチャンスだ……、

彼女を解放してやれ……、

お前は本当に人間なのか……、

それでも生者といえるのか……、

自分自身に問われ、為す術もなく詰め寄られる。

一際大きく、

己を知れ!

という一言がびりびりと体全体を貫き、その瞬間私の肚は決まった。

 全身の肌が粟立ち、頭の周りに纏わりついていた靄のようなものが消え、視界も鮮明に感じられた。

これまで目の当たりした看過できない所内の光景……、

遊戯のように気軽に行使される洗脳の数々……、

時が流れても払拭できない心に刻まれた疑問符……、

人間モルモットとして扱われている囚人たち……、

声が聞こえる……、

彼女がまた話し始めている。

彼女の声がさざ波のように聞こえる。

話しの中身は私の耳には入らない。

目の前のテーブルに置かれたティーカップをじっと見つめたまま内なる声に耳を澄ます。

集中する……、

魂の声のみに。

 ……、そう、これは私自身の問題なのだ。

上からの命令に従うだけなら入力した通りに動くアンドロイドと同じだ。

自分で思考し意志を貫き、行動を起こせるかどうかだ。

それこそが生身の人間のあるべき姿に違いない。

彼女に私の知っていることを伝えよう。

彼女がアンドロイドでも構わない。

とにかく話そう、真実を。

そう自分を鼓舞し、椅子から身を少し前にせり出す。

テーブルを挟んだ彼女に顔が近づく。

何かを話し続けていた彼女は一旦話を止め、私の顔を注視する。

身を乗り出した私に向けられた問いかけるような瞳は、近くに寄ると美しさが一層際立った。

まるで南国の美ら海に吸い寄せられるようにして彼女の瞳に焦点が合う。

彼女もまた私の目を覗き込んでいる。

目と目が合い、意を決して口を開きかけた瞬間、

まるで遮るかのように一瞬早く彼女が言葉を発した。

「深層心理や潜在意識の領域に楔を打ち込むことが大事なの」

「そうすれば夢の中でも一生涯地獄の猟犬に追われ続ける羽目になる」

「まるまる24時間365日支配してみせるわ」

 決意表明のような彼女の語気の強さに出鼻をくじかれた私は、叱り飛ばされた子供のように意気消沈してしまい、その後は彼女と視線を合わせられなくなった。

出来ることといえば、せいぜい彼女の話に黙って相槌を打つことだけ……。

 鬼の首でも取ったかのように話し終えた才媛は、自己満足と自己陶酔の境におり、恍惚とした表情の上にはあきらかに狂気という名の薄化粧が張り付いていた。

その時、私は皮肉にも彼女は紛れもない人間だと確信したのだった。

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