10 『シャングリラ』『アーミーナイフ』『セミの鳴き声』

 夏休みも残すところあと数日という時点で宿題を全部終わらせたのは初めてだった。分からなかった答えがちゃんと出て清々しい気分。

 夕方になってもまだ外は明るい。遠くで鳴くセミの声が聞こえてきて、リビングがいつもより広く感じた。

「このセミの鳴き声さ、ちょっと哀愁漂うよね」

 私は隣に座る女の子に言う。

「ヒグラシ」

 文庫本に目を落としたまま、返事はそれだけ。もともと口数が少ないことは分かっている。そして、細かいところが気になるタイプということも。

 私の発言に対して今みたいに訂正してくることが結構ある。他の子にはそんなことしないのに。勉強を教えてくれる時以外は大目に見てほしい。

 お母さんはもうすぐ帰ってくるはずだ。宿題を終わらせることができたのはこの子のおかげだと早く報告したいけれど、そうなると二人だけの時間が終わってしまう。どのみち、泊まるわけではないから残された時間は多くない。このもどかしい私の気持ちをそれとなく伝えたい。

「今この空間にいるのは私達だけだから、シャングリラって感じする」

「理想郷」

 試しに最近覚えた言葉を使ってみたらこれだ。会話にすらなっていない。さすがにカチンと来る。いやいや。きっと私の会話の導入が下手なだけ。うまく会話につなげられないだけで、会話したくないわけではない……はず。

 辺りを見回し、何か会話のネタになるものはないか探す。壁に飾られた家族写真のうちの一枚が目に留まる。キャンプに行った時のものだ。よし、これにしよう。

「えっと。最近お父さんがキャンプにはまりだして、たまに家族で行くんだけど」

 本から目は離さないけれど、訂正されることもない。順調な滑りだしだ。

「お父さん、すごく不器用で今までそういうことやったことないから失敗ばっかりでね。でもその失敗も楽しかったっていうか」

 いいぞ。こっちが話してばかりでまだ会話にはなっていないけれど。

「この前なんか、せっかく買ったアーミーナイフの機能が多すぎて全然使いこなせてなくて笑っちゃった」

「十徳ナイフ」

 私は叫びそうになるのを我慢した。

 これに関してはもう訂正というか、ただ別の言い方をしたいだけ。もし私が『十徳ナイフ』と言ったら『アーミーナイフ』と言い返してきただろう。

 つまり天の邪鬼なのだ。

 オーケー。分かった。そっちがその気なら私にだって考えがある。今まではこのまま泣き寝入りしていたけれど、これからは違う。今日宿題が終わった後から、私は違う。

「私達の関係って……恋人?」

 本から離れた視線が私へ向けられる。でもそれは一瞬で、すぐにまた読書に戻ってしまう。

 返事はない。会話にならない。でも、私の勝ち。

 気分が高揚してきて少し熱い。私は立ち上がって冷蔵庫まで行く。

「アイス食べる?」

 冷凍室から出した青いパッケージを掲げて見せる。

「氷菓、食べる」

 本から外された視線はしっかり商品を把握していた。いや普通『アイス』って言うでしょ……。冷凍室を閉めながら思わず笑ってしまう。

 訂正するのは私にだけ。照れ隠しであることはお見通しだ。

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