09 『千本ノック』『接近』『飽和』

「千本ノックしよ! キスの!」

 また私の彼女が変なこと言ってる……。

「勉強は?」

 私はテーブルに広げられた教科書とノートを指差す。誰のために休日にわざわざ勉強会を開いたと思ってるんだ。

「今解き終わったやつで一段落だし、いいでしょ? 家には他に誰もいないし」

 危機感が微塵も含まれていない声を出すから思わず反論する。

「でも明後日から中間テスト――」

「でも、そろそろさぁ」

 言いながら彼女がにじり寄る。勉強が終わるまで接近禁止と忠告しておいたのに。

 彼女はシャーペンを私の手から抜き取る。できた隙間を埋めるように細い指が滑り込んできて、恋人として手を繋ぐのとは違う形と感触に戸惑う。

「こっちの勉強もした方がいいんじゃない? 勉強っていうか、練習?」

 背の高い彼女にいつも見下ろされているけれど、お互い座っていて目線の高さは変わらないはずだったのに。今は少し体勢を低くして上目遣いで私を捕らえている。あまり見慣れないアングルに鼓動が速まり、目が泳いでいるのが自分でも分かった。

「まーたそうやって恥ずかしがる。付き合って三ヶ月だよ? 耳、もう真っ赤になってる」

 彼女の手が耳に触れて思わず目を瞑る。

「もっと近付いたらどうなっちゃうの?」

 耳元でささやかれ、吐息が当たる。勉強を教わっている時の彼女とは違う艶のある声。私の全身を支配する。

 知ってるくせに。

「怖い?」

 喉が詰まって言葉が出ない。でも気持ちはちゃんと伝えたいから、頭を左右に振る。

「じゃあ、恥ずかしいだけ?」

 うなずいて肯定して見せる。彼女が小さく笑うのが聞こえて胸の辺りがくすぐったい。

「目、開けてくれるとうれしいな」

 私の手の中で大人しくしていた細い指が動く。収まるべき場所を探すみたいに指と指の間に入ってきて、私の手を優しく握る。応えるように握り返して目を開けた。頬を染めて笑う彼女がいた。

「かわいい。好きだよ」

 こんなに素直に好きだと伝えてくれているのに、どうしたらいいか分からない。自分の体が熱いことしか分からない。

「キスしていい?」

 そんな上目遣いで聞かれたらうなずくことしかできない。恥ずかしさと天秤にかけるけれど、いつだって断れたことがなかった。ここまで迫ってもらわないとキスひとつできない自分が情けないけれど、そんな私を彼女は許してくれる。

 頬に添えられた手は熱く感じない。お互い熱を持っているから。彼女の顔が近付いてきて、焦点が合わなくなるくらいで目を閉じた。

 唇が柔らかく塞がれる。血流の勢いが増した気がして、めまいのような感覚に陥る。数秒もしないで唇は離された。

 彼女の目は少し潤んでいて、余裕があるようには見えない。私とキスをするために、接触の方法を考えている。いつもがんばって考えてくれている。私だけが恥ずかしいわけじゃない。

「好き。大好き」

 艶のある声が全身に響いたと思ったら、また唇が塞がれる。強引さの欠片もない静かな触れ方。私を気遣う優しさに背中が痺れる。

 今でさえ好きな気持ちが飽和状態なのに、愛おしいという想いが溢れて止まらない。それを伝えるには、こうやってキスしているのが一番だと思う。うまく言葉を返せない言い訳になってしまうけれど、これが今の私の精一杯。

 唇から熱が消えていく。名残惜しさを感じていると、彼女は潤んだ目を力強く開いて私を見た。いつもならはにかんで終わりなのに。

「いっぱいするから、覚悟してね?」

 絞りだすような声に、私は思わず唾を飲み込んだ。余裕のなさがよりなまめかしさを際立たせ、この体のあらゆる感覚を鈍らせる。

 『いっぱい』ってどれくらい? 千本ノックらしいから千回?

 私が緩慢にうなずいたのを確認すると、彼女は顔を寄せてくる。唇が触れて感覚が戻ってきて、心臓の鼓動が激しいことがよく分かった。

 ついばむような動きや、私の唇を舐める彼女の舌。初めてのことでどう応えたらいいのか分からないけれど、嫌ではないことが伝わるように彼女の背中に腕を回す。でもどうしよう。

 ずっと唇が離れないから、いつまで経っても千回に到達しないかもしれない。

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