第28話
ノックの音に、コハクは手で涙をぬぐい、一瞬で臨戦態勢を整えた。
あれほどボロボロだった心を一瞬で立て直すプロ意識の高さを尊敬すると同時に、俺は自分の無力さが空しかった。
俺は返事をせず、居留守を使った。
けれど、鍵のかかっていないドアはかんたんにスライド。
長谷山部長がビジネススマイルで立っていた。
「勝手に入ってきて何の用でしょうか? 警察、呼びましょうか?」
「これは失礼しました。インターホンは押したのですが反応がなくて。こちらかと。まずは先ほどの非礼を詫びさせてください」
言って、長谷山部長は軽く会釈をした。
「先ほどは奥井様の財産を売れなどと無礼極まりなかったと反省しております。ですので、レンタル、というのはいかがでしょうか? あくまでもこちらのダンジョンに、我が社の社員を派遣させてほしいと、そういう次第でございます」
ぺらぺらと淀みなく、活舌良く話しながら、長谷山部長は商談を進めた。
一歩でも中に入ってきたら追い返してやろうと思ったけれど、そこは弁えているらしい。
長谷山部長はあくまでも庭に佇み、ダンジョンの中には一歩も踏み込んでこなかった。
「レンタル料は一日100億円。さらに収益の1パーセントをお支払いしましょう。奥井様は戦わなくても毎日遊んでお金が入る仕組みです。億万長者の奥井様にお金など興味はないでしょうが、そうなると大切なのはお金よりも時間です」
長谷山部長は人差し指をたてて、ビジネストークを続けた。
「残りの人生を永遠に好きなことに使えるのは魅力的ではありませんか? ダンジョンへ素材回収に行く時間、換金する時間が惜しくはないですか? 我が社と契約すれば、互いにWINWINな関係を築けると確信しております」
曇りないまなこで、長谷山部長はこちらに澄んだ眼差しを注いでくる。
一見すれば、随分といい話に思える。
俺が失うものは何もない。
だけど、俺は嫌だった。
「断ります。お引き取り下さい」
「それは何故でしょうか? 差し支えなければ理由を伺いたく思います」
長谷山部長は嫌な顔一つせず、愛想よく尋ねてきた。
「これは感情の問題なんです。ここは俺の、俺だけの空間なんです。知らない人たちが自宅にずかずか上がり込んできて好き勝手して、金を払うからいいだろう、は通りません」
コハクのことは伏せるも、それが本音だった。
コハクはダンジョンの管理人。
多くの男たちが毎日ここに押しかけて、コハクはその相手をせざる負えないだろう。
それが、なんだかいやだった。
醜い嫉妬心と独占欲だと思う。
だけど、コハクには俺だけのダンジョン管理人であって欲しいと願ってしまう。
「なるほど、そういうことでしたか」
長谷山部長の視線が、俺の隣に姿勢よく立たっているコハクを一瞥した。
「愛する彼女さんとの遊び場、デートスポットにお邪魔して申し訳ありませんでした」
物腰柔らかく応対をしながら、だけど長谷山部長は「ですがね」と言葉を結んだ。
「彼女を愛する奥井様の気持ちは重々承知しておりますが、これは世界の、人類のためでもあるのですよ」
利益の話が通じないとわかるや、長谷山部長は攻め手を変えてきた。
愛想のよい声をやや硬くして、表情をビジネススマイルから緊張感のある面持ちにした。
「いま、世界中には難病やケガの後遺症に苦しむ人々が大勢います。彼ら彼女らを救うには大量のエルダーポーションとアークポーションが必要です。しかし、これらの流通量はあまりに少なく、値段も億単位です」
それは、俺も知っている。
だから、もう一生遊んで暮らせるだけのお金はあるけれど、俺はアークポーション作りを続けている。
アークポーションを競り落とした人々の喜ぶ顔が、今でも忘れられない。
「しかし、奥井様が納品するエルダーポーションの量は国内生産量を超えています。つまり、奥井様一人でも生産量は二倍以上となりました。以前とは比べ物にならない人々が助かり、頭が下がる思いです」
言いながら、長谷山部長は本当に頭を下げた。
「しかしながら、その一方で奥井様一人でどれほど苦労しても、助けられる人には限りがあります。世界にはエルダーポーションやアークポーションを求める人々がまだまだいます。こちらのダンジョンを我が社の優秀な冒険者たちで利用すれば、ポーションの生産量は数百倍。その分、値段も下がり世界中の苦しむ人々が巣くわれることでしょう!」
正義感に燃える力強い声で、長谷山部長は熱弁してくる。
「当然、話はポーションだけに限りません。スーパーレアメタルを含め、世界中でレア素材、レアアイテムは需要過多の供給不足が起きています」
浪々と語りながら声は熱量を増していく。
「これらが解消されれば人類文明は飛躍的に成長し、経済も発展! 世界中の貧困にあえぐ人々が救われ、全ての人々が豊かで文化的な生活を送れるのです! それができるのは奥井様だけではありませんか!」
いい年をした大人がガッツポーズまで作り、僅かに前のめりになった。
「彼女さんとの思い出の場所は大切だとは思います。ですがそのために世界中で苦しむ人々を放置して良いのでしょうか? どうか世界のため、人類のため、勇気あるご決断を!」
「…………」
たっぷり三秒の沈黙を経てから、俺は口を開いた。
「長谷山さんの言っていることは、たぶん正しいんだと思います」
「では!」
「それでも嫌です」
長谷山部長の表情が、僅かに硬くなった。
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