第17話 俺をハニーと呼ばないで!
いまさらだけど、普通、ダンジョンには管理人なんていない。
つまりコハクは、世界初にして唯一の、ダンジョン側の知的生命体だ。
世界に突如現れた、物理法則を無視した正体不明の巨大構造物でありながら、世界情勢を中枢を担うダンジョンの正体が、目の前にあるかもしれないという状況に、俺は好奇心を抑えきれなかった。
でも。
「それは知らないかな。マスターだって、自分がいつどこで生まれたかなんて知らないだろ?」
言われてみればそれもそうだ。
誰だって、生まれた瞬間のことは覚えていない。
以前、とある少年漫画の台詞にもあったけど、人は誰しも他人から教えられた誕生日を信じるしかないのだから。
コハクは声のトーンを落として、ややはかなげな表情を浮かべて静かに語り始めた。
「目を覚ました時、ボクはあのエントランスの中央に立っていた。どこで誰に教わったわけでもないのに、ダンジョンと自分の役割は知っていて、あのドアが開かれるのを待っていた。ずっと、ずっと、時間の感覚もわからないくらい長い間、待ち続けたんだ」
遠い日に思いを馳せるような、セピア色の声音はどこか物悲しくて、彼女の背負った運命の重さが伝わってくるようだった。
「何百年、何千年、どれだけ待ってもドアは開かなくて、いつか開くのはわかっているのに、そのいつかはまったくわからなくて、でもあの日、ドアは開いた。そしてキミがボクを見つけてくれた」
漂白された眼差しは徐々に熱を持ち、彼女の口をふんわりと笑みを結んだ。
「最初は信じられなくて、幻かと思って、だけどキミは徐々に近づいてきて、キミの足音と匂いが、これが現実だと教えてくれた。あの時、ボクの時間は動き出したんだ」
思い出を抱きしめるように目元を緩ませると、コハクはフォークを置いた。
白く繊細な指先が次に求めたのは俺の手で、彼女はテーブルに置いた俺の手と、指を絡めて手の平を合わせた。
彼女の熱い体温が手の平を通じて体に流れ込むような感覚に合わせて、彼女のぬくもりに満ちた声が耳に響いた。
「そしてキミはボクに名前をくれた。キミに名前を呼ばれるたび、ボクは生きていること、ここに存在していることを実感する。だからこれからもボクの名前を呼んで欲しい。キミがボクにくれたボクの名前をずっと、いつまでも、ね」
あまりに純な願いに、俺は複雑な感情が溢れて止まらなかった。
だけど、この感情をあえて一言で説明するなら【彼女を幸せにしたい】だ。
けれど、この感情をどう形にしようか迷っていると、次のデザートが届いた。
ハチミツタップリのハニートーストがテーブルに置かれると、甘い香りが鼻腔をくすぐってきた。
俺はコハクと絡めていた手を離すと、お皿を彼女の前に置いた。
「どうぞコハク。甘くておいしいぞ」
「うん、ありがとう、マスター♪」
コハクはハニートーストを手に持ってかじると、また頬をほころばせた。
「あまぁい♪」
「そりゃよかった……」
俺も頬をほころばせると、囁き声が聞こえてきた。
「ねぇ、あの席、ますたーって、何? そういうプレイ?」
「あんな美人の彼女にマスターって呼ばせるのってどうなの?」
それは、俺の背後のテーブルに座る女の子たちの声だった。
みんなはコハクがダンジョン管理人で俺が所有者なんて知らないわけで、言われてみれば奇妙だろう。
俺は前のめりになって、声を潜めた。
「なぁコハク、俺のこともマスターじゃなくて、名前で呼んでくれないか?」
「ん、いいよ。じゃあイクオ……なんかしっくりこないなぁ」
コハクは眉根を寄せてへの地口になった。
「イクオ様、イクオさん、イクオ殿、イッ君、イクオ君、イクオちゃん、奥さん?」
「俺を奥さん呼びしたのはコハクが初めてだよありがとう」
俺は渋い顔をした。
「う~ん、ボクとしてはやっぱりマスター呼びが一番呼びやすいんだけどなぁ。コレみたくもっと甘い呼び方がいい」
ハニートーストをかじりながら、コハクは声を濁らせた。
「コレって、ハニートーストな」
「ハニー、トースト?」
「うん、それの名前な?」
「……ふぅん、じゃあさ、マスターのこと、ハニーって呼んでいい?」
「はっ? なんで!?」
突然のハニー呼びに、俺は酷く狼狽した。
「だって、好きな人のこと、ハニーって呼ぶんでしょ? じゃあボク、キミのこと大好きだし、ハニーって呼んでもいいよね? ハニー。うん、なんかこの呼び方すっごくしっくりくるよ♪ 決定ね♪」
歯を見せながらニカニカ笑うコハクに、俺は食い下がった。
「いやいやいや、それは俺が困るって言うか、恥ずかしいって言うかっ」
「えぇ? そうは見えないけどなぁ?」
また、コハクはあの悪い顔をして、にやにやとこちらに流し目を送って来る。
人の心を的確に見透かしたような眼差しに、俺は何も言えなくなってしまう。
コハクの言う通り、俺の言う恥ずかしいは、照れに近い。
本当は、コハクにハニーと呼ばれたら凄く嬉しい。
だけど、それを受け止めるだけの度量というか、精神強度がいまいち足りない。
けれど、コハクは俺のそんな感情すらも機敏に読み取っているかのように、とびきり甘い笑顔を見せてくれた。
「えへへ、大好きだよハニー♪」
「ッッ~~」
コハクが可愛すぎて、俺はもう色々としんぼうたまらなかった。
「そうだ。ボクちょっとお手洗い言ってくるね」
「ん、うん」
けれど、コハクは何故か、今日買った服の紙袋を手に席を立った。
しばらくすると、トイレのほうが騒がしい。
顔を上げると、喫茶店の中の客が、みんな同じ方向を見ながら目を見開き、感嘆の声を漏らしていた。
なんだろうと俺も同じ方向を目にして、ぎょっとした。
そこには、帽子を脱いで、俺が買ってあげたゆったりコーデのコハクがモデル歩きで向かってくるところだった。
絶世の美貌を亜麻色の髪で引き立たせ歩く姿は、トップファッションモデル顔負けの輝きに溢れていた。
みんな、モデル? 芸能人? と囁き合っていた。
「コハク、その恰好は?」
「ふふ、せっかく買ったんだもん。帰りはこの格好でいいでしょ?」
あまりにも素敵過ぎる姿に、俺は心臓が鳴りやまなくて、黙って頷くしかなかった。
そこへ、若い男性が喫茶店に飛びこんできた。
「すいません! 私、芸能事務所のものなんですが! 業界にご興味はないですか!?」
飛び込み営業張りの熱意を込めた名刺を突き出してくるも、コハクは俺の隣に座ってくると、腕に抱き着きながら頬にキスをしてきた。
「悪いけどボク、ハニー以外に興味ないから♪ えへへ、ハニー、今夜もいっぱい仲良くしようね♪」
「お、おぉうぐぅ!」
誤解を招きそうな言葉に俺の頭はオーバーヒート。
周囲の女性客は黄色い声を上げて、スカウトマンの男性は悔しそうに歯噛みした。
目の前で、コハクが囁いてくる。
「帰りは声かけられないように、ずっとラブラブしながら帰ろうね」
その申し出にも、俺は黙って頷くしかなかった。
◆
それから、俺らは帰宅すると、家のドアの前で別れようとする。
「じゃあハニー、また明日ね♪」
そう言って、コハクは踵を返して、ダンジョンの入り口であるプレハブ小屋に戻ろうとする。
遠ざかるその背中に妙な寂しさを感じて、気が付けば俺は声を出していた。
「まだ、体、平気か?」
「え?」
振り返った彼女に、俺は息を呑んでから意を決した。
「外に出られるのは、24時間だよな? じゃあ、夕飯一緒に食べないか?」
俺の誘いに、コハクは大きく頷いた。
「うん♪」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます