第一話 はじまり


 この世界が、この鳥籠が僕達人間の最終戦線。


 約二千八百人が詰め込まれた鳥籠の中。僕達は滅亡の道を歩み進んで行っている。それは子供の目から見ても火を見るより明らかだった。

 倒壊したまま改修すらされず朽ちていくだけの木屑になった家屋、政府から配給と称して与えられた林檎の芯や肉の骨をしゃぶり、野良犬のように塵を漁る浮浪者の群れ。路傍に落ちる死に慣れて、親子すら片割れの死を嘆くこともない。

 人としての尊厳を欠いて尚、生きることにしがみ付く彼らは世界人口の八割を占めている……所謂民衆だ。彼らは人としての最低限の権利さえ失い、現実に屈してやがて血反吐の中に伏すのが当然とされた存在だ。民衆の生命はいつどこで尽きようとも、それは決して絶望ではない。必然だ。死は異常ではない。日常だ。

 しかし、そんな民衆達を非人道者に貶めたのは、彼ら当人ではない。民衆にそのような凄惨な本能的生存を強いたのは、《政府》と呼ばれる有権者の群れ………。この世界で唯一にして強権を持つ統治機関に属し、鳥籠の中の生き物に一銭の価値も持たぬ法律を振り翳す、汚泥の味を知らぬ者達だ。彼らはこの滅びかけの世界で利益を独占し、飢え苦しむ民衆達を無視して統治とは名ばかりの圧政を奮い、民衆の中に辛うじて残っていた人道すら奪った。

 そして民衆となることを逃れ、政府に従属し商売活動を行うことで金と言う名の利権を手にして民衆を蔑む醜悪。世を我が物顔で闊歩する、民衆よりも余程醜い、愚かな《貴族》。

 この鳥籠の中では、大きく分けて民衆・政府・貴族の三つに分かれてそれぞれの終焉に向かい突き進んでいた。

 そして、政府の人間は生まれ落ちてから死ぬまで政府の人間であり、貴族の人間は生まれ落ちてから死ぬまで貴族の人間。この世界はそうやって分かたれて均衡を保ってきた。ならば、当然民衆もそうだ。民衆も民衆として、死ぬまで惨めで、飢えにもがき苦しみ、生まれてから死ぬまで一日たりとも救われない日々を送って終わっていくのだ……。

 と、言いたいところだがそうではない。

 民衆の内ほんの一握りの人間の話だが、高い能力、政府への忠誠さえあれば、彼らは退廃した町でまともな食事すら取れず一日中塵を漁り地を這いずる生活から脱出することを許される。通信機器もなく荒れ果てた土地で暮らす民衆達は隣人の名前さえ知らず、まともな情報網を持ってはいない。その為民衆達の大半はその組織の名を知らず、救済の存在を知らない。だがしかしそこには、確かな漏れ出る光芒がある。……その一握りの民衆の集いの名を。

 警葬監視操行部隊と、呼ぶ。

 それは政府直轄の民衆と貴族、そして政府の間に決定的な壁を築き権威の差を知らしめ、政府の障害となる存在に鉄槌を下す正義の執行人達。過酷な生活を送りながら生き延びることへの壮絶な努力を要する民衆を出自とする為、彼等には並外れた体力と運動神経、他人を出し抜く明晰な頭脳がある。そして民衆として泥水を啜った経験がある為、彼らだけは民衆や政府に犬畜生と蔑まれる彼らに救いの手を差し伸べられる。まさに彼らは世界の安全と秩序の維持を守るに相応しい、正義の徒である……。

 と、声を大にして喝采を叫びたいところだったが、現実はそうもいかない。

 この警葬監視操行部隊というものは表向きは優れた人材を民衆から引き出す救済措置とされていて、確かにその在籍する顔触れからは「優れた人材を引き出す」という目的は実直に果たされているように感じる。

 ……しかし、真の目的はそうではない。……そう、政府の人間にとって民衆というのは「蔑むべき土臭い家畜の集まり」のようなもの。決して救い助けるべき無辜の民ではない。民衆は、ただ処刑装置の手入れをするだけの資源に余裕がないために殺されていない、ただそれだけに過ぎないのだ。彼らは「生きている」のではなく、民衆区という広大な処刑装置の中で、「死んでいない」だけなのだ。

 そんなことを考える彼らの目的が「民衆の救済」などと言う民衆の目線に合わせた慈しみに満ちた行動原理の筈は勿論ない。この取って付けたような押し付けがましい原理は敵を欺く為の欺瞞でしかないのだ。この世界に生まれ落ちたなら赤子でも分かる。あれは真っ赤な嘘だ。民衆は、彼等に救われない。

 ……そう、その真相は人情の皮を被った、最も単純で馬鹿らしくて実直な、自己利益の究極的追求の産物だ。

 政府には、敵が多い。……もっと分かり易く言えば、「仮想敵が多い」のだ。貴族は政府に逆らうと明日の立場や物資の供給を失くし、そして民衆は明日の食糧さえ不安な身であって、政府に逆らう暇などありはしない。だがしかし、政府は恐れた。叛逆の幻想を見て、自らの栄華の崩落の幻想に惑わされて、在りもしない未来の幻覚を「存在しないもの」に貶める為に政府は自らを守護する番犬の存在を強く望んだ。

 だから首輪を繋げたのだ。表向きには有能な人材の救済という目的で声を上げ、表をうろつく野犬の中からとびきり優秀な犬を取り上げ、賢く聡い………具体的には、「政府に逆らおうなどとは考えない」犬だけをしっかりと躾け忠誠と言う名の首輪を付けさせる。そうして政府は、所謂番用の、自分達の立場を揺るがす存在に迷わず噛み付いてくれる従順な犬に彼らを仕立て上げたのだ。

 ……そしてその犬達は、政府の望み通り、絶対に政府に抗わない。

 何故なら民衆として生まれ落ち、絶望をその身に宿して生を得たのにも関わらず、彼らはこの世界の「全」である政府から人間として生きる事を認められるから。まともな食事を取り、知識を持ち、そうして生きる事を否定されないから。

 犬は、従順でいる。

 そんな彼らを………世は負け犬と呼んだ。

 浅ましく醜い民衆のカーストのトップに立つ彼らは上へと上り詰め、政府に認められ……とうとう、犬と成れた。薄汚れた何とも知れぬ恥辱に塗れた生き物であった民衆の中で、彼らは漸く、負け犬である事を許されたのだ。それはとても幸せな事で、喜ばしい事。安寧だ。祝福すべき事だ。永遠に飼い殺されて、彼等は幸福で居る。

 だが、忘れてはならない。

 犬という動物は元来、賢いのだ。人という違う生物の感情をも汲み取って動く様に、飼い主の習性を覚え、玄関でその帰りを待つ様に、芸を覚える様に。彼等は透明の瞳で、静かに飼い主を見つめている。そうして政府に逆らった民衆を斬り殺すという芸を覚えた負け犬の一匹。その一匹は小さな身体をまぁるく撓め……。


 牙を静かに、研いでいる。



***


 するり、とひじりは黒地の制服に袖を通した。ほつれもない、破れもない、擦り切れていない厚い生地……。着慣れない堅苦しい格好ということに変わりはないが、最初の頃よりは板に付いてきただろうか。そう思いながら手に取ったワインレッドのネクタイは、民衆区ではお目に掛かれない艶を持って輝いている。

 警葬監視操行部隊。

 僕は友人が死んでから、風の噂で聞いたそこへ入隊することを目指した。

 聖の目的は、鳥籠の外に出ることにある。だがしかし、民衆に生まれた以上聖が鳥籠の外へ出る方法は、際限なく限られる。鳥籠の外へ出ることはこの世界では国家転覆罪に相当する……それ以上に値する重い罪で、聖は貴族なら少額の罰金刑、政府の人間なら物によっては罪にすら問われない軽い罪の窃盗ですら死刑になる、軽い命の民衆だ。鳥籠脱出の成功確率は今のところ、民衆の十歳までの生存率より低いだろう。そのため、元より僅かな可能性を少しでも広げる為にはこの世界の事をもっと知る事が必要だと聖は以前より勘付いていた。

 民衆には、教科書など無い。聖に辛うじて言葉が喋れるのは、瓦礫の山をふらふらと彷徨く者達は皆一様に「忘れて堪るか」と自分に唯一ある教養に必死にしがみつくようにぶつぶつと知っている単語を呟いて言葉を発しているからだ。気が狂ったように傍らに落ちる積み重なった絵本の内容を暗読する目の虚な老婆から、聖は言葉を得た。その為自分はたまたま言葉を知っているだけに過ぎず、この世界のことはまだ何一つ知らない。政府がどれだけ鳥籠の脱出に対して危機感を持っているのか、その防止の為にどのような対策を講じているのか。

 ……自分は、まだ何も知らない。聖はぐっと手を握り締め、前を向いた。

 聖は幸い頭の回転はそこそこ早く、運動神経も悪くはなかったのでそれほど大きな行動を起こさなくても政府に拾って貰えた。第一関門は、無事クリアだ。そうして僕は齢十七にして、警葬監視操行部隊の一員となった。

 ……後はもう、成すべき事を成すだけだ。僕は必ず鳥籠の外へ出る。その為なら、どんな障害にだって躓いていられない。どんなことだって乗り越えて、自らの糧としてやるのだ……!!

「……えっと」

 と、いうここまでは良い。襟を立て、ネクタイを首の周りに掛けるまでは良い。そこまでは覚えている。だが……。

「ここから……どうすれば……?」

 警葬監視操行部隊、新人……聖。彼の心には並々ならぬ想いと夢が抱かれている……が、しかし。入隊してからこの一ヶ月間、聖は思わぬ難敵に早速足を取られ、思い切り躓いていた。

 ……ネクタイの結び方は、未だに分からない。



***



「あの……申し訳ないんですがちょっとお願いが……」

「……」

「ネクタイの結び方がまだ分からなくてですね」

「……」

「あ、こう……?です、か。あれ?違う?」

「……」

「あぁ!!なるほど、ありがとうございました!!」

 と、ここまで声だけを聞いていると聖の滑稽な一人芝居に思えるが、虚空に話し掛けている訳でもましてや道端の草に話し掛けている訳でもない。聖が話し掛けていたのは警葬監視操行部隊に於いて聖の先輩にあたる、永久とわという男だ。

 しかし、先程の様子を見ても分かる通り、彼はとにかく無口な男。表情の変化にも乏しく、顔から感情を読み取るのがとても難しい。

 そこに見惚れるような鋭い印象を齎す涼やかな目元の美青年と来るのだから、まるで彼は人形だ。淡い紫の艶やかな長髪を一束に纏め上げ、猫のような黄金の瞳を持っている彼に初めて会った時は、思わず緊張したものだ。そしてその上に頭に巻いた包帯を、氷柱のような鋭い顔構えに似合わず何のつもりなのか可愛らしく蝶々結びにしている。

 蝶々結びの包帯に関しては、聖は敢えて何も聞くまい、と口を固く閉ざした。

 そして喋らない事を差し引けば永久は極めて善良な人間で、困っていればすぐにその原因を見極めて手助けをしてくれる。稀にその見極めが途轍もなく的を外すことや取っ付き難い雰囲気もあるが、いざ関わってみれば「とても良い先輩」と言えた。

「やぁやぁ!!君達はまだネクタイの結び方なんぞに手を焼いているのだね?僕なんてそんなもの七秒で覚えた!!いやぁ相変わらず愚鈍な脳味噌だねぇ」

 出たな「とても良いとは言い難い先輩」め。と結い上げた藤納戸色の髪が視界にちらついた瞬間、心の中で聖は心の中で盛大に舌打ちをした。そんな聖を他所に、永久が口に手を当てぽそりと呟く。

「……ラッキーセブン」

 そうだね。

 着眼すべきはそこではないと思うが、敢えて何も言うまい。と無理矢理笑顔を作り、聖はその見下した態度の男を振り返った。

「おはようございますかすり先輩、申し訳ありません、お茶もなくて」

「いやぁ結構結構、先にそれを断っておく謙虚さも必要だよ、馬鹿で傲慢って、救えないからねぇ……」

 そう言って高らかに笑う絣。実はこの彼、こう見えても民衆………否、この世界の中で最も優れた脳細胞を持つとすらされる、世紀の天才だ。その頭脳は法律とやらを盾にして僕達民衆に罪を押し付ける貴族や政府の人間を、僕達民衆に不利な内容しかない法律を逆に利用して論破してのけたという程の実力。

 頭脳明晰とは自分の事だ、と前にドヤ顔で言っていたがそれも間違いではないのが本当に口惜しい。この絶妙なウザささえなければきっと、聖は絣を真っ直ぐに尊敬できていただろう……。今となっては死んでもごめんだが。

「おいおい、その辺にしとけよ、角が立つぞ」

「角が立とうが削れば良いだけの話だ。問題ない、僕を誰だと思っているんだい隊長殿」

「ホントお前なぁ……」

 そう毅然として言い返す絣に呆れた表情を向けるのはくさび。警葬監視操行部隊で最も古株である二十九歳………まだまだ若者で通せる筈、と時の流れに怯えている最高責任者である。花色の髪に深闇の瞳の大人びた顔立ちで、その佇まいはどこか見るものを安心させるところがあり、部隊の指揮を取るだけでなく自らも戦場に赴く。

 その剣技は目を疑う早業で、恐らく真剣で彼と対峙するとあれば抜刀する間もなく首を飛ばされるであろう……。と、誰かしらが言っていたのを聞いた覚えがある。

「どうだ、聖。皆の名前は覚えたか?……まぁ十五人も居るし覚えるのは楽じゃないだろうが……」

「僕の時は二十一人居ましたが七秒で覚えたよ」

「うん分かった分かったえらいえらいお前に聞いてねぇんだ」

 そう楔は絣が自慢気に言ったその「褒めて!」とでも言いたげな言葉を切り捨てると、聖に笑いかけた。

「まぁ、ウチの奴らは優秀なのと引き換えにか全員どっかしらちょっとおかしい強個性だからな……普通の奴らよりは覚えやすいだろ」

 そう苦笑いする楔、その横で絣が一方的に喋り倒す七秒論争を始めようとしている二人。確かに皆が皆、一般的民衆よりは覚えやすい性格をしている気がする。一人を除いて、残りの十一人も一度顔を合わせる機会があったが、一人として群衆に紛れる凡庸さを欠片たりとも持ち合わせていなかった。

 それに、警葬監視操行部隊はそれなりに頭が回る賢さと、民衆が反逆を起こしたとして一日以内に沈静化させる事ができる強さを前提として組み立てられている。個人差はあるだろうがいずれも強者揃い、と言う訳だ。

 常識を遥かに上回る知力の絣、非常に質の高い戦力となる楔、そして味方でさえ戦い方の分からない永久は情報戦の上では大きなアドバンテージとなる。これがあと、聖を除いて十二人も居るのだ。国家を容易く覆せるだけ人材が揃っている。これが味方になるのなら、これ以上に心強いことはない。

 ……だが。

「楔さん、今日の僕の職務は何ですか?」

 警葬監視操行部隊の主な職務は、一つの大きな指針の下に行われている。

 そうだなぁ、と楔は一度顔を上に向け、それからこちらへ戻した。

「まず、うちの奴らに慣れてもらう。この仕事はチームワークが大切だ。何せ鳥籠ん中をぜーんぶ俺達で見廻るんだからな。それと、基本的なことの確認。あとはウチの存在意義だな」

 そしてその存在意義は、この部隊の通常職務が果たされることによって同時に果たされる。

 ……政府に仇為す敵の、徹底的排除。即ち民衆が敵であるとするならば、鳥籠の外へ出るような素振りを見せた者の……。

 鏖殺。

「拾ってもらった命だ。恩義は果たさないとなぁ」

 そう謳うように言い、楔はさ、ちゃっちゃと行こう。とせかせかと歩き出した。そんな後ろ姿を、聖はぼんやりと見ていた。

 聖。彼の夢は、この鳥籠の外への脱出。友人の死を目にして入隊を決意。現在、警葬監視操行部隊に所属。警葬監視操行部隊の他の十五人より僅かに運動神経の面では劣っている。

 そして警葬監視操行部隊の通常業務こそが、警葬監視操行部隊そのものこそが、聖の目的と真っ向から相反する、聖の天敵。つまり世界を壊せる十五人が同じ空間に居れば、その十五人が………。


 敵。

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