第6話 パンの香りが届く場所

冬の冷たい風がますます強くなり、街は少しずつ年の瀬の雰囲気に包まれていた。啓介はキッチンに立ち、ベーグルの成形に集中していた。その手つきは、かつての不器用さが嘘のように滑らかで、生地は自然に形を作っていく。キッチンの窓からは薄曇りの空が見え、芳江がよく「こんな日はパンがよく膨らむわ」と言っていたことを思い出した。


芳江のノートの隣には、啓介自身が作り始めた「ベーグルノート」が置かれていた。最初は恥ずかしさもあり、簡単なメモしか書き込んでいなかったが、今では「くるみの割合を増やすと風味が豊かになる」「茹でるときに少し砂糖を入れると焼き色が美しくなる」といった工夫が細かく記録されている。


その日の午後、啓介は美咲と彩夏の家を訪ねる約束をしていた。クリスマスが近いので、一緒にパンを焼こうという話になったのだ。ベーグルの生地を朝から準備し、冷蔵庫でゆっくり発酵させていた。キッチンに立つたびに、誰かのためにパンを焼くという行為が啓介にとって自然なものになっているのを感じた。


約束の時間になると、美咲の家から聞こえる彩夏の元気な声が啓介を迎えた。


「おじいちゃん、今日はどんなパン作るの?」


「今日は特別だぞ。クリスマスのパンだ」


彩夏の目が輝いた。「クリスマスのパンって、どんなの?」


「秘密だよ。でもな、みんなで作ったらもっと楽しいパンになるはずだ」


彩夏と美咲が笑顔で頷き、早速キッチンに立つ準備を始めた。


その日焼くのは、芳江がかつてクリスマスに作ってくれた「リースベーグル」だった。プレーンのベーグル生地に、ドライフルーツやナッツを織り込み、リング状に成形する。焼き上がりにはアイシングで模様を描き、仕上げに赤や緑の砂糖を飾る。彩夏が「これ、お菓子みたいだね!」と嬉しそうに叫ぶたびに、啓介の心にも静かな充実感が広がった。


「芳江も、こんなふうに楽しんで作ってたんだろうな」


ふとそう呟くと、美咲が手を止めて「お母様もこんなパンを?」と尋ねた。啓介は頷きながら、少しだけ思い出を語った。


「クリスマスには必ず焼いてくれてたんだ。俺は食べるだけだったけどな。でも、これがあると家が華やかになったよ。芳江のパンは、ただ食べ物を作るだけじゃなくて、家の雰囲気を変えてくれる力があった」


その言葉に、美咲は優しく微笑んだ。「津田さんのパンも、きっとそうですよ。私も彩夏も、津田さんのベーグルを食べるたびに気持ちが明るくなりますから」


その言葉に、啓介は少し照れながらも「そうか」と静かに頷いた。


パンが焼き上がると、家中に甘い香りが広がった。リースベーグルの焼き色は美しく、彩夏がアイシングで模様を描くと、見事なクリスマスリースが完成した。彩夏は「これ、飾りたくなっちゃうね!」と嬉しそうに声を上げた。


「飾ってもいいが、食べるのを忘れるなよ」と啓介が笑うと、美咲と彩夏も楽しそうに笑い声をあげた。


その日の夕方、美咲が言った。「津田さん、このパン、今度はもっとたくさんの人に見てもらえるといいですね。マルシェだけじゃなく、もっといろんな場所で……」


啓介はその言葉に少し驚きながらも、心の中に何かが灯るのを感じた。


数日後、啓介は川村優子に相談を持ちかけた。


「俺が焼いたパンを、もっといろんな人に食べてもらう方法って、何かないだろうか?」


その問いに、優子は少し驚きながらも、すぐに笑顔を見せた。「津田さん、それはとても素敵なことですね。実は、今度地域の老人ホームで手作りパンを届けるボランティアを募集しているんです。もしよかったら、参加されませんか?」


「老人ホームか……」


啓介の中で、少しの迷いと同時に静かな期待が広がった。自分が焼いたパンが、これまで接点のなかった人々の手に渡る。それは、芳江がいつも目指していた「パンで繋がる」という言葉の実現かもしれない。


ボランティア当日、啓介は早朝からパン作りに取りかかった。今回は、リースベーグルと定番のプレーンベーグルを中心に焼き上げた。キッチンに漂う香りは芳江がいた頃の温もりを思い出させるものであり、啓介は一つひとつのパンに心を込めた。


老人ホームに到着すると、職員たちが笑顔で迎えてくれた。啓介が焼いたパンは、昼食後のおやつとして提供されることになっていた。ロビーに並べられたパンを見た入居者たちが、「なんておいしそうな香りだろう」と口々に言う。その反応に、啓介の胸が静かに温まるのを感じた。


食事後のティータイム、啓介は職員に促され、入居者たちの前で少し話をすることになった。


「このパンは、亡くなった妻のレシピをもとに作っています。最初は自分のためだけに焼いていましたが、今ではこうして誰かのために焼くのが何よりも楽しくなりました」


その言葉に拍手が送られ、啓介は少しだけ照れくさそうに頭を下げた。


パンを食べた入居者たちが一様に笑顔を見せ、「こんなにおいしいパンは久しぶりだよ」と口々に感想を述べてくれた。その姿を見て、啓介は静かな感動を覚えた。芳江が遺したレシピは、こうして新しい命を吹き込まれながら、多くの人々に届いているのだと実感した。


帰り道、啓介は穏やかな夕暮れを眺めながら、自分がどこに向かうべきかを考えていた。そして、ようやく答えが見つかった気がした。


「芳江、俺、もっとパンを焼いてみるよ。お前がそうだったように、俺も誰かの心に灯りを届けられる人になりたいんだ」


その言葉と共に、博多の街に一つの新しい灯りが灯ったような気がした。


料理教室の最終日、啓介は早めに家を出た。博多駅ビルのエスカレーターを上りながら、今日がこの教室に通う最後の日だということを改めて実感する。最初にここを訪れたときのことを思い出すと、少し不思議な気持ちになった。


あの頃、キッチンに立つことはおっくうで、妻・芳江のいた場所に踏み込むのが怖かった。それが今では、この場所が自分にとって心地よい居場所になり、パン作りが日常の一部になっている。そして、そのパンを通じて新しい人々と繋がり、過去の自分では想像もできなかった景色を見ることができた。


啓介は自分が焼いたパンを入れた袋を手に、エスカレーターの音に耳を傾けながら静かに目を閉じた。


教室の扉を開けると、そこには懐かしい顔ぶれが待っていた。若い母親の美咲、シングルファーザーの橋本、発表会で出会った学生たち。そして川村優子が、変わらない笑顔で迎えてくれた。


「津田さん、おはようございます。今日は皆さんが集まる最後の日ですけど、どうぞ楽しんでくださいね」


教室内は温かな雰囲気に包まれていた。調理台にはさまざまな材料が並び、窓の外には柔らかな冬の日差しが差し込んでいる。この場所が、啓介にとってどれほど特別なものになったのかを、今さらながらに感じていた。


その日の課題は自由制作。生徒たちはそれぞれ、自分が一番好きなパンを焼くことになっていた。啓介は、芳江が最後に焼いた「くるみとレーズンのベーグル」を再現しようと決めていた。


川村優子が「津田さんのベーグル、楽しみにしてますね」と微笑むと、啓介は少しだけ照れくさそうに「がんばります」と返した。


パン作りが始まると、教室は賑やかな笑い声と材料を混ぜる音で満ちた。啓介も集中しながら、生地をこねていく。その手つきには迷いがなく、粉の感触が心地よいリズムを生み出していた。


「こうやって生地を触ってると、芳江が隣で笑ってるような気がするな」


そんなことを思いながら、生地を成形し、茹で、オーブンに入れる。焼き上がるまでの間、窓際の席に座ると、啓介はふと芳江の姿を思い出した。彼女もこうやって、パンが焼けるのを待ちながら外を眺めていたのだろうか。


パンが焼き上がり、教室内には香ばしい香りが広がった。啓介が焼いたベーグルは、芳江の記憶に残るものとほとんど同じように見えた。表面はつややかで、中にはたっぷりのくるみとレーズンが詰まっている。


「わあ、津田さんのベーグル、本当においしそうです!」と美咲が声を上げ、他の生徒たちも拍手を送った。その言葉に啓介は少し恥ずかしそうに「ありがとうな」と小さく頭を下げた。


パンを試食する時間になると、啓介は一つのベーグルを手に取り、そっと口に運んだ。芳江が焼いてくれたものとまったく同じではない。それでも、その味には彼女が残してくれた温かさが確かに宿っていた。


試食会が終わり、教室の片付けが始まると、川村優子が啓介のもとにやってきた。


「津田さん、今日でこの教室は最後ですが、これからもパン作りを続けていかれますよね?」


「もちろんだよ。これがなくなったら、もう俺の生活は成り立たないからな」


優子は満足げに頷いた。「津田さんのパン作りには、奥様の想いが生きていますね。それが、きっとこれからも誰かの心に届いていくと思います」


その言葉に、啓介は静かに微笑んだ。「芳江が残してくれたものを、俺も少しずつだけど次に繋げていきたいと思ってるんだ」


教室を出ると、博多の街は夕暮れに包まれていた。啓介は袋の中のベーグルを見つめながら、ふと立ち止まった。これまで歩んできた道のりが、頭の中に鮮やかに蘇る。


芳江が遺したレシピノート、料理教室での出会い、マルシェや老人ホームでのパン作り。すべてが繋がり、自分をここまで連れてきてくれたのだと感じた。


「芳江、俺、やっと分かったよ。お前がパンに込めてたのは、ただの味じゃなかったんだな」


そう呟いたとき、ふと空を見上げると、一番星が静かに輝いていた。


その夜、啓介はキッチンで新しいパンのレシピを考えていた。芳江のノートには、自分の手書きのメモがさらに書き加えられている。これから焼くパンが、どんな人のもとへ届き、どんな笑顔を生むのか。その想像が、啓介の胸に小さな希望を灯していた。


パンを焼く音が響く中、啓介はそっと芳江の写真を見つめた。


「芳江、ありがとうな。お前が教えてくれたこと、ちゃんと俺が次に繋げるから」


写真の中の芳江は、静かに微笑んでいるように見えた。


【完】


読者へのメッセージ


パンの香ばしい香りとともに始まったこの物語は、一人の男性が大切な人との記憶を通して新しい一歩を踏み出す姿を描きました。主人公の啓介が、亡き妻の遺したレシピと向き合いながら、その温かさを未来へ繋げようとする過程は、私たちに日々の営みの尊さや、人との繋がりの大切さを教えてくれます。


「八階のパン教室」を通じて、啓介が見つけたのは、料理やパン作りを超えた「心の再生」の時間でした。人生の中で失ったものは戻らないけれど、それを思い出として大切にしながら、新しい形で誰かと共有していく――そんな希望がこの物語には込められています。


この本を読み終えたあと、ぜひ身近な人のためにパンを焼いてみたり、心を込めた料理を作ってみてください。それがどんなに素朴なものでも、きっとその時間があなたと大切な誰かを繋いでくれるはずです。


最後まで物語を読んでくださった皆様に、心より感謝申し上げます。この物語が、皆様の心に小さな灯りを灯す一冊であれば幸いです。


湊マチ

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8階のパン教室 湊 マチ @minatomachi

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