第5話 ベーグルの行方

季節は冬に近づき、博多の街にも冷たい風が吹き始めていた。啓介のキッチンでは、芳江のレシピをもとに焼き上げたベーグルが、静かに蒸気を上げている。かつては自分のためだけに焼いていたパンが、今では誰かと分かち合うものへと変わりつつあった。


「このパンを、もっといろんな人に食べてもらえたらいいのにな」


啓介はつぶやきながら、ふと思い立った。先日の料理教室で、川村優子が「地元のマルシェで手作りパンを出品する話がある」と言っていたことを思い出したのだ。啓介にとって、それは大きな挑戦のように思えたが、不思議と心が動いた。芳江のレシピと、自分がアレンジを加えたベーグルを、もっと多くの人に届けたい――そんな気持ちが胸の中で膨らんでいった。


翌日、啓介は思い切って優子に相談してみることにした。


「優子さん、この間話してたマルシェって、まだ参加できるんですか?」


優子は驚いた顔をしたが、すぐににっこりと微笑んだ。「もちろんです。津田さんが出してくださるなんて、きっと皆さん喜びますよ」


「ただ、俺なんかが焼いたパンで、本当にいいのかどうか……」


「津田さんのパンには、津田さんにしか作れない温かさがあります。それは、多くの人に伝わると思いますよ」


その言葉に背中を押され、啓介はマルシェへの出品を決意した。


初めての準備は予想以上に大変だった。どのベーグルを焼くか、何個作るか、ラッピングはどうするか――ひとつひとつが新しい挑戦だった。芳江のレシピを基にしたプレーンベーグル、そして自分が考えた「くるみとクリームチーズのベーグル」、さらに彩夏が気に入っていた「チョコレートチップ入りのベーグル」の3種類を出すことに決めた。


キッチンで生地をこねるたびに、芳江の姿が頭をよぎる。「あいつもこんなふうに、楽しみながら準備してたんだろうな」と思うと、自然と手が動く。ひとつひとつの工程に集中しながら、啓介は次第に心地よいリズムに乗っていった。


マルシェ当日、啓介は朝早くからベーグルを並べる準備を始めた。小さなブースには、焼きたてのベーグルがずらりと並んでいる。隣のブースでは、若い女性がジャムを売っており、「パンとジャム、ぜひ一緒にどうぞ」と声をかけてくれる。その気配りが嬉しくて、啓介は少し緊張が和らいだ。


最初の客は、小さな女の子とその母親だった。「おじちゃん、これ作ったの?」と目を輝かせて聞く女の子に、「そうだよ。どれがいい?」と問いかけると、「チョコレートのがいい!」と元気な声が返ってきた。その場で食べ始めた女の子が「おいしい!」と笑顔を見せると、啓介の胸の中にじんわりと温かいものが広がった。


その後も、次々と人が訪れ、啓介のブースは賑わいを見せた。地元の常連客から「こういう素朴なパンが食べたかった」と声をかけられたり、若いカップルが「このベーグル、家でも作ってみたい」と興味を示したり。人々の反応を間近で見るたびに、啓介の心に少しずつ自信が芽生えていった。


マルシェが終わる頃、啓介のベーグルはほとんど売り切れていた。片付けをしながら、ふと芳江の言葉を思い出した。「パンを焼くっていうのは、誰かに幸せを分けることなんだよ」。その言葉が、今になってようやく実感として胸に響いてきた。


帰り道、博多の街の灯りが闇の中にきらめく。啓介はマルシェで余った最後の一つのベーグルを手に取り、静かにかじった。焼きたての味ではないが、それでもどこか誇らしさがあった。それは、芳江と一緒に作り上げたパンだったからだ。


「芳江、俺、やっと分かってきたよ。お前がパンに込めてた気持ちが」


その言葉は、夜の冷たい空気の中にそっと消えていった。


マルシェから一週間後、啓介は再び静かな日常へと戻っていた。キッチンに立つ時間は変わらず心を満たすものであり、芳江のレシピノートにはさらに自分のメモが書き加えられていた。「茹で時間を5秒短く」「生地にほんの少し砂糖を加えると味がまろやかになる」など、小さな発見の積み重ねが楽しかった。何か新しいものを生み出す手応えが、啓介を支えていた。


だが、その日常の中で、啓介の胸にまた一つ、ぽっかりとした空白が生まれていることに気づいた。マルシェで初めて、自分のパンを他者に食べてもらった。その反応がどれだけ嬉しかったか。だが、それは一過性の喜びでしかなく、自分が次にどこへ向かえばいいのかが分からない。


その日、啓介は久しぶりに町を歩くことにした。博多の街は冬の寒さが増し、人々の足取りもどこかせわしない。商店街を抜けると、小さな公園の前で子どもたちが追いかけっこをしていた。その様子をぼんやり眺めながら、啓介はポケットに手を入れた。


「芳江だったら、こういうとき何を考えただろうな」


自然とそんなことを思ってしまう。芳江はいつも自分より一歩先を見ていた。パン作りも、ただの趣味ではなく、それを通じて人と繋がることを楽しんでいた。啓介はまだ、その「次の一歩」が見えていない気がしていた。


川村優子から連絡があったのは、その日の夕方だった。


「津田さん、急なお話で申し訳ないんですが、今週末、教室で小さなイベントを開くことになりまして。もしよかったら、津田さんも参加していただけませんか?」


教室のイベントと聞いて啓介は少し迷ったが、「あなたのベーグルをぜひ皆さんに教えてほしい」と言われ、了承した。教室の生徒たちと再び交流する機会が持てることに、啓介はどこか心が弾むのを感じた。


イベント当日、教室に足を踏み入れると、懐かしい顔ぶれが啓介を迎えてくれた。若い母親の美咲、定年後に趣味として通い始めた橋本、そして以前イベントで出会った学生たち。皆が楽しそうにエプロンを身につけ、準備を進めている。


「津田さんのベーグルを教えてもらえるなんて嬉しいです」と美咲が声をかけると、啓介は少し照れくさそうに微笑んだ。「いや、俺なんかが教えるほどのもんじゃないけどな」と言いつつも、自分の手で焼き上げたパンが人々を集めていることに、静かな誇りを感じていた。


イベントでは、啓介がベーグルの作り方をデモンストレーションし、生徒たちが実際に生地をこねたり、成形したりする場面が続いた。教室内には笑い声が響き、生地が茹でられる湯気の中で人々の手が忙しなく動いていた。


「ベーグルの形を整えるのが難しいですね」と学生の一人が苦笑すると、啓介は「形なんてどうでもいいさ。大事なのは、誰かに喜んでもらいたいって気持ちだよ」と答えた。その言葉に、生徒たちは顔を見合わせて笑い、ますます作業に熱中していった。


パンが焼き上がると、教室全体に香ばしい香りが漂った。焼きたてのベーグルを手にした生徒たちが嬉しそうに味見をし、「これ、売り物みたいですね!」と声を上げる。啓介はそんな彼らの笑顔を見て、再び自分の手で作るパンの力を実感していた。


その後、啓介は窓際の席に座りながら、川村優子と話をした。


「津田さん、本当に素敵なパンですね。奥様がこの場所で作っていたものと、きっと同じくらい素晴らしいです」


「いや、芳江にはまだ追いつけないよ」と答えながらも、啓介の表情には柔らかな笑みが浮かんでいた。


その帰り道、教室からの帰り道の夕焼けは特別美しかった。博多の街が朱色に染まり、啓介は手に持った袋の中のベーグルを見つめた。その中には、教室の生徒たちが一緒に焼いたパンがいくつか入っていた。


ふと、啓介は立ち止まり、袋の中の一つを取り出した。道端に座っている若い女性が、凍えたような手をしているのが目に入ったのだ。


「これ、温かいうちに食べるといいよ」と声をかけると、女性は驚いた表情を浮かべた。「え、いいんですか?」


「俺が作ったパンなんだ。味見してくれると嬉しいよ」


女性がベーグルを手に取り、そっと口に運ぶ。「おいしい……本当においしいです」と彼女は目を潤ませながら呟いた。その反応に啓介の胸がじんわりと温かくなった。


その夜、啓介はキッチンで新しい生地をこねながら思った。パン作りは、自分のためだけではなく、誰かと繋がるためのものになってきている。それが、自分が次に進むべき道なのかもしれない、と。


「芳江、俺、もう少し頑張ってみるよ」


啓介の手のひらには、柔らかなパン生地の感触が心地よく広がっていた。

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