第4話 繋がる手のひら

発表会が終わった翌日、啓介はキッチンのテーブルに座り、芳江のレシピノートをゆっくりと開いた。これまでの自分では考えられないほど、この小さなノートが生活の一部になっている。かつてはただの「妻の趣味」として見過ごしていたものが、今では啓介にとって大切な宝物のように感じられていた。


ページをめくる手がふと止まる。そこには、芳江がこまごまと書き込んだ「次回へのメモ」がびっしりと並んでいた。

「塩を少し増やすと甘みが引き立つ」

「焼き加減はあと30秒短く」

「啓介さん、今日もおいしいって言ってくれるかな?」


最後の一文を見た瞬間、啓介の目頭が熱くなった。芳江のパン作りは、自分のためだったのだ。仕事から疲れて帰る夫のために、いつも笑顔で迎える準備をしていた。その思いが、このノートには詰まっていた。


教室が終わり、発表会も一区切りを迎えたことで、啓介の生活は再び静けさを取り戻しつつあった。だが、以前の「空白」のような静けさではない。パンを焼く時間が日常の中に自然と溶け込み、少しずつだが、啓介自身が変わっていくのを感じていた。


そんなある日、教室で仲良くなった若い母親の美咲から電話がかかってきた。彼女はシングルマザーで、小さな娘のためにパン作りを始めた女性だった。発表会で啓介のベーグルを食べ、「こんなふうに誰かのことを思いながら作るパンが焼きたい」と話していたのを思い出す。


「津田さん、突然ごめんなさい。実は、娘がどうしても津田さんのベーグルをもう一度食べたいって言っていて……もしよかったら、教えていただけませんか?」


その言葉に、啓介は驚いた。誰かに自分の焼いたパンを教えるなど、考えたこともなかった。しかし、美咲の声にはどこか切実さがあった。小さな娘のために少しでも良い母親でありたいという思いが伝わってきたのだ。


「俺でよければ、喜んでお教えしますよ」と答えると、美咲は嬉しそうに「ありがとうございます!」と声を弾ませた。


翌週の休日、美咲と娘の彩夏が啓介の家を訪れた。キッチンで小さなエプロンをつけた彩夏が「よろしくお願いします」と頭を下げる姿に、啓介は思わず微笑んだ。かつて芳江が小さな孫にパンを教えていた情景が、頭の中にふっと蘇る。


「じゃあ、まずは生地を作るところからだな。彩夏ちゃん、手を洗ったら粉を混ぜてみるか?」


彩夏が「うん!」と元気よく答え、小さな手で粉を混ぜ始める。粉が飛び散り、キッチンが少し散らかるのを見ても、啓介は不思議と腹が立たなかった。むしろ、その光景が微笑ましく、温かい気持ちが湧き上がった。


「ここが一番大事なんだ。生地をこねるとき、手の中でどんな感じがするかをちゃんと覚えておくんだよ」


啓介の説明を受けながら、美咲も真剣な表情で生地をこねていた。その姿はかつての自分のようであり、また芳江の姿とも重なる。パン作りを通じて、こうして人が繋がっていくことが、啓介には少しだけ分かり始めていた。


生地を茹で、焼き上がったベーグルがキッチンのテーブルに並ぶと、彩夏は歓声を上げた。「わたしが作ったベーグルだ!」と小さな手を広げて喜ぶ姿を見て、啓介の胸が温かく満たされた。


「どうだ、味見してみるか?」


彩夏がベーグルをひと口食べると、「おいしい!」と目を輝かせた。その姿に、美咲も微笑み、「津田さん、本当にありがとうございます。こんなふうに娘と一緒に何かを作る時間が持てるなんて、思ってもみませんでした」と感謝の言葉を述べた。


啓介は、「俺も最近ようやく分かったんだ。誰かのために作るパンってのは、作った人自身も幸せにしてくれるもんなんだな」と小さく笑った。


その夜、啓介は久しぶりに芳江の夢を見た。夢の中で、彼女はキッチンに立ち、楽しそうにパンを焼いていた。その背中を見つめながら、啓介は「ありがとう」と小さく呟いた。夢の中の芳江は振り返らず、それでもどこか満足げな表情を浮かべていた。


目が覚めると、キッチンには昨日焼いたベーグルの香りがまだ残っていた。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、啓介は心の中で静かに呟いた。


「芳江、俺も少しずつだけど、誰かのためにパンを焼けるようになったよ」


料理教室が一段落し、啓介の日常は静かに進んでいた。キッチンの棚には、自分で焼いたベーグルのレシピが数枚積み重ねられ、芳江のノートの隣にそっと置かれている。以前は「妻の場所」として触れられなかったキッチンが、少しずつ「自分の場所」に変わり始めていることを、啓介自身も感じていた。


しかし、それが心地よい変化である一方で、啓介の胸の奥にはぽっかりと空いた穴が残ったままだった。パン作りは確かに楽しいし、芳江との思い出に触れるひとときでもある。しかし、それだけでは埋められないものがある。自分が何を求めているのかはっきりしないまま、啓介は日々を過ごしていた。


その日、久しぶりに川村優子から連絡があった。次期の料理教室の案内だったが、そのメッセージにはこう添えられていた。


「津田さん、もしお時間があれば、教室にお立ち寄りください。最近、生徒さんたちと話していて、津田さんにぜひお見せしたいものがあるんです」


何だろう、と不思議に思いながらも、啓介は教室を訪ねることにした。駅ビルのエスカレーターを上るとき、かつて感じた緊張感は消え、代わりに少しだけ懐かしさが胸に広がった。


教室の扉を開けると、優子が笑顔で迎えてくれた。中には、見慣れた調理台やエプロンが並び、窓際の席には少人数の生徒たちが座って談笑していた。その中には、発表会で知り合った美咲の姿もあった。


「津田さん、来てくださってありがとうございます」と優子が言い、啓介を窓際の席へ案内した。そこは、かつて芳江がよく座っていた席だった。


優子が手にしていたのは、芳江が生前に教室で作っていたパンの記録だった。写真やノートのコピーがまとめられており、芳江の名前と共に「教室の思い出」として一部の生徒に配られていたという。


「奥様が残したものは、この教室の生徒さんたちの中にも確かに息づいているんですよ。芳江さんのアドバイスを今でも覚えていて、それを参考にしている方もいます。津田さんも、ぜひご覧になってください」


その言葉に促され、啓介は写真やノートを手に取った。芳江が笑顔でパンを焼いている写真、その横で他の生徒と談笑する様子。そしてノートには、芳江が他の生徒のために書いたレシピのメモもあった。


「これが芳江の……」


写真やメモに触れるたび、啓介の胸の中に静かで温かな感情が広がっていく。芳江はここで、ただパンを焼いていただけではなかった。多くの人と関わり、その場に自分の居場所を作り上げていたのだ。


その日の帰り道、啓介はエスカレーターに乗りながら窓の外を眺めた。街の灯りがちらちらと揺れる。ふと、芳江が「パン作りは人と繋がる時間」と言っていたことを思い出した。その意味が、ようやく分かりかけている気がした。


啓介は教室で受け取った写真をそっと見つめた。芳江が焼いたパン、その横で笑う人々。その風景は、どこか自分が新たに築こうとしている日々と重なっているように思えた。


翌朝、啓介はキッチンで粉を計りながら、ふと思い立った。これまでのベーグルではなく、芳江のノートにあった「フルーツ入りの特製パン」に挑戦してみようと思ったのだ。レシピには、芳江の手書きのコメントが添えられていた。


「これは少し手間がかかるけど、作ったらきっと楽しい気持ちになれるパン」


材料をそろえ、生地をこねている間、啓介の中には不思議な感覚があった。芳江がこのパンを焼きながら、自分のためにどんな気持ちを込めていたのかを想像する。パン生地を成形し、窓から差し込む朝の光の中で焼き上がったパンの香りがキッチン全体に広がったとき、啓介の心には静かな充実感が広がっていた。


そのパンを袋に詰めて、啓介は美咲の家を訪ねた。「この間、彩夏ちゃんが喜んでくれたから、また焼いてみたんだ。今度はちょっと新しいレシピだよ」と言うと、美咲は目を輝かせながら受け取った。


「津田さん、本当にありがとうございます。こうやっていただくたびに、私ももっと頑張ろうって思えるんです」


その言葉に啓介は微笑み、「俺もこうやって誰かのために作るのが楽しくなってきたんだよ」と静かに答えた。


その夜、啓介は芳江の写真を前に、そっと声をかけた。


「芳江、俺、少しずつだけどやれてるよ。あんたが繋いでくれたものを、俺も少しでも続けていけたらと思うんだ」


写真の中の芳江は、どこか誇らしげな顔をしているように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る