第3話 ベーグルがつなぐ記憶
ベーグルを焼き上げたあの日以来、啓介の生活には少しずつ、けれど確実に変化が訪れていた。芳江のレシピノートを参考に、自宅で何度も挑戦を繰り返し、失敗するたびに、妻が遺した言葉や教室で学んだ技術を思い返した。焼き加減が強すぎた日もあれば、発酵がうまくいかなかった日もある。それでも、啓介は初めて「挑戦することの楽しさ」を感じていた。
キッチンに立つ時間が増えるにつれて、芳江がいつもパンを焼いていた理由が少しずつ分かるようになってきた気がした。時間をかけ、丁寧に手を動かし、形になっていくものを見る。それは、ただ食べ物を作るだけの行為ではなく、心を整えるための大切なひとときだったのだ。
その日、料理教室の帰り道、啓介はふとデパートに立ち寄った。芳江がよく通っていた製菓材料店がある。レシピノートに書かれていた「芳江お気に入りの粉」を探してみようと思ったのだ。店内は小麦粉やチョコレート、ナッツ類の香りに満ちていて、久しぶりに訪れたその空間に、芳江の姿が重なった。
「いらっしゃいませ」と、店員の若い女性が声をかけてくれた。啓介がノートを見せながら「この粉を探しているんですが」と尋ねると、彼女はにっこり微笑んだ。
「こちらの国産小麦ですね。よくお買い上げいただいてました。もしかして、以前よくいらしていた奥様のご主人様ですか?」
その言葉に驚いた啓介が頷くと、店員は懐かしそうに話し始めた。「奥様、とても熱心にパン作りをされていて、私たちにもたくさんアドバイスをしてくださったんですよ」と。その言葉に、啓介は芳江がこの場所でも自分の居場所を見つけていたことを知った。
「ありがとう」と礼を述べて店を出たあと、啓介は小さな袋を大事そうに抱えながら思った。芳江が遺した記憶は、自分の知らないところでもたくさん息づいているのだ、と。
翌週の教室では、川村優子が生徒たちに「卒業イベント」について話し始めた。
「来月で今期のクラスが終了します。その最終日には、皆さんが一番自信のあるパンを持ち寄って、発表会を開きたいと思います」
教室内がざわつき始めた。若い母親が「私はまだ自信ないです」と笑い、定年後に通い始めた男性が「人に食べてもらうなんて緊張するなぁ」とつぶやく。啓介もまた、不安を抱えながらその話を聞いていた。
しかし、ふと芳江のレシピノートのページが頭に浮かんだ。あのベーグルをもう一度焼き上げる。それが、自分にできる精一杯の答えではないだろうか。そう考えると、胸の中に小さな決意が芽生えた。
発表会に向けて、啓介は日々ベーグル作りに取り組んだ。何度も試行錯誤を繰り返し、少しずつ芳江の味に近づいていく感覚があった。その過程で気づいたのは、パン作りには「完成」という境地がないことだった。芳江が何年もノートに工夫を書き加え続けていたように、啓介もまた、パンと向き合うたびに新たな発見を得ていた。
一週間前の教室の日、啓介は川村優子に相談をした。「このベーグル、発表会で出したいんですが、どう思いますか?」と。
優子は目を細めて頷いた。「素晴らしいです、津田さん。きっと芳江さんも喜ばれると思います。でも、せっかくですから、もうひと工夫加えてみませんか?」
「ひと工夫?」
「例えば、中に何か具材を入れてみるとか。津田さんのオリジナル要素を少しだけ加えるんです」
そのアドバイスに啓介は驚いたが、同時に興味が湧いた。芳江のベーグルを守るだけでなく、自分の手で新しい一歩を加えてみる。それは、彼自身のパン作りの物語を始めることなのかもしれない。
発表会当日、教室には生徒たちが焼いたさまざまなパンが並んでいた。形も味も十人十色で、それぞれが一生懸命に作ったことが伝わる。啓介が持ち寄ったのは、芳江のレシピを基に、中にくるみとクリームチーズを詰めたオリジナルのベーグルだった。
発表の時間になり、啓介は少し緊張しながら前に立った。「これは、亡くなった妻のレシピを基にして作りました。彼女が大切にしていた味を、少しだけ自分なりにアレンジしてみました」と語ると、教室中から温かい拍手が送られた。
試食した生徒たちは、「優しい味ですね」「くるみがいいアクセントになってる」と口々に感想を述べてくれる。その姿を見た啓介の胸には、静かで確かな充実感が広がった。
帰り道、夕焼けに染まる博多の街を眺めながら、啓介は袋の中のベーグルを見つめた。芳江の記憶と、自分の手で焼いた新しい味。その二つがひとつに重なった今、啓介はもう少しだけ前に進めるような気がしていた。
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