第2話 妻の座っていた席
博多駅ビルのエスカレーターを上るたび、啓介の胸にはかすかな緊張が生まれる。この歳になって、新しい場所に通うこと自体が特別だった。慣れないことをするたび、心のどこかで「自分には向いていない」と思いそうになる。それでも、先週の教室で焼いたパンの温かみが、啓介の足をこの場所へと運ばせていた。
教室の扉を開けると、すでに数人の生徒が集まっていた。若い母親や定年退職したばかりの男性、そして会社帰りらしいスーツ姿の女性。それぞれがエプロンを身に着けながら、軽い会話を交わしている。その様子を眺めていると、川村優子が近づいてきた。
「津田さん、おはようございます。今日はちょっと特別なパンを作りますよ」
「特別?」と啓介が聞き返すと、優子はにっこりと笑った。
「ベーグルです。ちょっと手間がかかりますが、きっと楽しんでいただけると思います」
ベーグル――その言葉を聞いた瞬間、啓介の胸が軽く跳ねた。それは、芳江が特に好んで焼いていたパンだった。丸くつややかな表面、茹でてから焼く独特の作り方。そして、芳江が嬉しそうに差し出してきた香り高いあのベーグル。教室でまさか同じパンを作ることになるとは思っていなかった。
作業台の前に立つと、川村優子がさりげなく声をかけてきた。
「実は、芳江さんがベーグルを焼くのがとてもお上手だったんですよ。この教室でも、いつもみんなにアドバイスをしてくれていました」
啓介は一瞬、作業台に置いた手を止めた。教室の片隅にある窓際の席を見つめる。そこに芳江が座って、他の生徒たちと談笑している姿がふと頭に浮かんだ。
「そうか……あいつ、そんなに張り切ってたんですか」
「ええ。生地を茹でる時間なんか、秒単位でこだわってましたよ。『啓介さんが好きなんです』っておっしゃってました」
「俺が?」
啓介は首をかしげる。確かに芳江はよくベーグルを焼いてくれたが、それが自分のためだったとは思っていなかった。ただ黙って出されたものを食べていただけだったのだ。
生地をこね始めると、その手触りが啓介をじわじわと過去に引き戻していった。芳江がキッチンでエプロンをつけ、軽やかに手を動かしていた姿。まるで自分だけが知る秘密を楽しむように、時折振り返って微笑む顔。その表情の意味を、啓介はようやく理解しつつあった。
生地をこね終えると、今度は茹でる工程に入る。大きな鍋に湯を沸かし、成形した生地をひとつずつ湯の中へ沈めていく。まるで儀式のようなこの工程に、啓介は妙な緊張感を覚えた。鍋の湯気が立ち上る中、生地がぷくりと膨らんでいくのを眺めながら、芳江の手つきを思い出す。きっと、彼女もこの瞬間を楽しんでいたのだろう。
茹で上がった生地をオーブンに入れ、待つ時間。教室内にはパンが焼ける香ばしい匂いが漂い始める。啓介はその匂いに包まれながら、教室の窓から見える景色をぼんやりと眺めた。
「津田さん、焼き上がりましたよ」
優子の声に振り返ると、そこにはつややかなベーグルが並んでいた。芳江が焼いていたものほど完璧ではないが、初めてにしては悪くない。啓介は小さくうなずきながら、ひとつ手に取った。軽く触れるだけで、焼きたての熱がじんわりと伝わってくる。
「どうぞ、食べてみてください」と優子が促す。
ベーグルをちぎり、口に運ぶと、小麦の素朴な甘さとほんのりとした塩気が広がった。その味は、確かに芳江が焼いていたものに似ている。しかし、それだけではなかった。啓介の中には、芳江の作ったベーグルに込められた気持ちが、ようやく少しずつ分かり始めていた。
帰り道、教室で焼いたベーグルを袋に詰めて持ち帰りながら、啓介はふと立ち止まった。駅ビルの高層階から見える夕焼けが、博多の街を柔らかい橙色に染めていた。その光景を眺めていると、不意に芳江の声が聞こえるような気がした。
「また焼いてみなさいよ。何度でも練習してね」
その声に後押しされるように、啓介はそっとベーグルをひとつ取り出し、もう一度かじった。温かさは失われていたが、その味はしっかりと彼の中に刻まれていた。
芳江が座っていた席に、自分も座っていたのだ。その事実が啓介の胸をじんわりと満たしていく。
啓介が料理教室に通い始めて一か月が過ぎた頃、家の中にほのかな変化が生まれ始めていた。芳江のままだったキッチンに啓介の手が少しずつ加わり、置きっぱなしだった粉の袋や木製のボウルにようやく新しい役割が与えられた。彼自身、気づかないうちに、料理教室で得たわずかな自信が日常に影響を及ぼし始めていたのかもしれない。
しかし、それでも芳江の「ベーグル」を焼こうと思うとき、啓介の手は止まった。教室で習ったものとは何かが違う気がするのだ。思い出の中にある芳江のベーグルには、もっと奥深い味わいがあった。それが何なのか、どうしても分からない。
そんなある日、啓介はふと思い立ち、古いキャビネットの引き出しを開けた。芳江が残した料理関連の雑誌やノートがぎっしり詰まっている。普段は目を向けないその空間に、何か手がかりがあるかもしれないと思ったのだ。
キャビネットの中をかき分けていくと、古びたノートが出てきた。薄い水色の表紙には「芳江のパン記録」と手書きで書かれている。啓介は一瞬その手を止め、ノートを膝に乗せたまましばらく見つめた。
ページを開くと、そこには芳江が何年も前からつけていたパン作りの記録が並んでいた。材料の分量、焼き時間、発酵温度。そして、ところどころに「少し硬い」「啓介はもう少し甘いほうが好きみたい」といった小さなメモが添えられている。その文字を見た瞬間、啓介の胸に熱いものがこみ上げた。芳江はずっと、自分のためにパンを焼き続けてくれていたのだ。
そして、ノートの最後の方のページに、その「ベーグル」のレシピが書かれていた。材料と工程だけでなく、「茹でる時間は30秒きっかり」「仕上げに少量の塩を振ると味が引き立つ」など、細かな工夫がびっしりと書き込まれている。その横には小さな字で「啓介さんが喜んでくれますように」と記されていた。
啓介はノートを閉じ、しばらく視線を上げることができなかった。芳江が遺してくれたものの大きさに気づいたからだ。
翌日の料理教室で、啓介は川村優子に相談を持ちかけた。
「これが、妻が残したレシピです。でも、俺が同じように作れるとは思えないんです」
優子はノートを手に取り、静かにページをめくった。その目は真剣そのものだった。そして、優しく微笑みながら言った。
「このレシピには、奥様の思いがたくさん詰まっていますね。でも、大丈夫ですよ。一緒に作ってみましょう。津田さんならきっと、奥様が焼いていた味に近づけます」
優子のその言葉に背中を押され、啓介はもう一度チャレンジしてみようと思った。
次の週の教室は、特別な時間だった。芳江のレシピを使い、教室の設備を借りて「芳江のベーグル」を再現する試みが始まった。まずは生地作り。レシピ通りに進めるものの、どこかしっくりこない。生地の柔らかさやまとまり具合が、芳江のものとは違う気がする。
「奥様はきっと、生地を感じながら作られていたんでしょうね」と優子がさりげなくアドバイスをくれる。啓介はその言葉を胸に刻み、少しずつ力の入れ方を調整した。慣れない手つきではあるが、なんとか形を整え、茹でる準備に入る。
茹でる時間は30秒。芳江のレシピ通り、きっちりと時間を測りながら生地を湯にくぐらせる。その間、啓介はふと昔のことを思い出した。芳江がキッチンで「時間を計って」と笑いながら頼んできたことがあった。自分はそのとき面倒くさそうに時計を見ていただけだった。あの時の芳江の笑顔が、今では何よりも愛おしかった。
茹で上がった生地をオーブンに入れると、教室内にパンの焼ける香りが広がった。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、啓介は静かに目を閉じた。芳江もこんな気持ちでパンを焼いていたのだろうか。
焼き上がったベーグルを取り出すと、つややかな表面に芳江のものとよく似た輝きがあった。啓介はそっとひとつ手に取り、表面を撫でた。その温もりに、胸がじんと熱くなる。
「津田さん、どうぞ召し上がってください」と優子が促す。
ベーグルを口に運ぶと、小麦の優しい香りと弾力のある食感が広がった。芳江のものとまったく同じではない。それでも、啓介にはその味が愛おしかった。妻が残したレシピを使って自分の手で焼き上げたという事実が、何よりも大切なものに思えた。
その日、教室の帰り道、啓介は持ち帰ったベーグルを手に、小さく呟いた。
「芳江、俺にも焼けたよ……ありがとう」
博多の夕暮れが、啓介の背中を優しく照らしていた。
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