8階のパン教室

湊 マチ

第1話 空席になったテーブル

津田啓介が最後に芳江の手作りベーグルを口にしたのは、亡くなる二日前の朝のことだった。

まだ少しだけ温もりを残していたそのベーグルは、彼が毎朝食べていたものとなんら変わりはないはずだったのに、どこかしっくりとこなかった。塩気が足りないのか、それとも焼きが甘かったのか。思い返しても、もう確かめる術はなかった。


あれから三か月。家の中は、芳江がいなくなった日からほとんど変わっていない。キッチンには、彼女が愛用していた粉だらけの秤や木製のボウルがそのまま置かれている。冷蔵庫の中には、芳江が買いだめしていた強力粉が今も眠ったままだ。片付けなくてはと思いながらも、啓介は手を伸ばす気になれなかった。それらを動かしてしまえば、芳江が二度と戻らないことを改めて突きつけられるような気がしてならなかったからだ。


このところ、啓介の朝食はスーパーで買った食パンになっていた。トースターで軽く焼いてバターを塗るだけ。芳江が隣にいた頃は、これで十分だった。しかし今はどうしても物足りない。食べている間、口の中に広がるのは芳江のベーグルの記憶。つややかな表面、適度な弾力、ふわりと香る甘さ。それを二度と味わえないという事実が、食卓をますます味気ないものにしていた。


そんなある日、娘の由美が訪ねてきた。台所の椅子に腰かけるなり、カバンから一枚のチラシを取り出し、啓介の前に置いた。

「お母さんが通ってたパン教室、まだやってるみたいなの。ほら、博多駅ビルの8階にあるって言ってたでしょ? 体験レッスンがあるみたいだよ」


啓介はちらりとチラシを見ると、すぐに視線をそらした。そこに書かれていた「初心者歓迎! パン作りで心をほぐすひとときを」という文字が目に入る。

「こんなの、俺には無理だよ」

「そんなこと言わないで。お母さんがあんなに楽しんでたんだから、きっとお父さんも好きになると思うけどな」

由美の声にはどこか強引さがあったが、それ以上に、父親の背中を押したいという必死さがにじんでいた。


その晩、啓介はチラシを机の端に置いたまま、じっと見つめていた。行くつもりはなかった。それでも、芳江がここで習ったパンを焼いては、「次はもっと美味しくなるかしら」とつぶやいていた姿が脳裏をよぎる。芳江の口癖だった「パン作りは心を込める時間なのよ」という言葉も。


行かないと決めたはずなのに、啓介は翌日、駅ビルの8階へと足を運んでいた。


博多駅ビルの8階に到着した津田啓介は、エスカレーターを降りるときに思わず深呼吸をした。静かなフロアに広がるパンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。芳江もこの匂いを嗅いでいたのだろうか。そう思うと、啓介の心の奥底が小さく揺れた。


教室の扉を開けると、思いのほか広々とした空間が目に飛び込んできた。壁には大きな窓があり、午前中の柔らかな日差しがキッチン全体を包み込んでいる。調理台がいくつも並び、その上には色とりどりのエプロンが掛けられていた。どこか温かみのある空間に、啓介は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「いらっしゃいませ! 津田さんですね?」


明るい声が聞こえ、振り向くと40代半ばの女性が立っていた。肩までの黒髪に、柔らかな笑顔を浮かべたその女性は、講師の川村優子だった。


「今日は体験レッスンということですね。まずは簡単な丸パンを作ってみましょう。初めてでも全然大丈夫ですよ!」


「いや、私は全然こういうの、慣れてないもんで……」


啓介はおずおずと返したが、優子は「失敗も楽しみのうちですから」と軽やかに笑った。その一言に少し救われるような気がした。


作業は意外と複雑だった。材料を量り、粉を混ぜ、水を足し、生地をこねる――その一つひとつが、啓介にとっては新しい経験だった。川村が説明しながら手本を見せるのを、啓介はじっと見つめた。教室には他にも何人か生徒がいて、皆それぞれの作業をしながら和やかな雰囲気を楽しんでいる。


啓介の手元では、生地がなかなかまとまらない。力を入れすぎると硬くなり、手を抜くとべたつく。芳江が「パン作りは生地との対話よ」と言っていたことを思い出し、苦笑いを浮かべた。あの言葉の意味が少しわかった気がする。


「力の入れ方はこれくらいで大丈夫です」と川村が手を添えてくれた。その手の温かさに少し戸惑いながら、啓介は生地に再び向き合った。次第に、手の中で生地がしっとりとまとまり、柔らかな感触が生まれる。発酵のために生地を置き、時間を待つ間、啓介は初めて少し達成感を覚えた。


発酵が終わり、焼き上がった丸パンは、思った以上にふっくらとしていた。啓介が自分で焼いたものとは思えない出来栄えに、少し照れくさくなる。


「初めてとは思えないくらいおいしそうですよ!」と川村が声をかけると、啓介は小さく頷いた。隣のテーブルの若い母親が「本当にふわふわですね」と微笑む。その瞬間、教室全体にほんのりとした連帯感が生まれた気がした。


パンを口に運ぶと、かすかな塩気と小麦の甘さが広がった。食パンや冷凍食品とはまるで違う、手作りの温かみがある味だった。その味を舌の上で転がしながら、啓介はふと考える。芳江はこの場所で、どんな気持ちでパンを焼いていたのだろう、と。


「津田さん、今日の感想は?」と川村が尋ねた。


「……不思議なもんですね。こんなふうに、自分の手で作ったものがちゃんと形になるなんて、考えてもみなかった」


そう答える啓介の顔には、いつの間にか少しだけ柔らかな表情が浮かんでいた。


教室を出ると、博多の街が眼下に広がっていた。少し風が吹き、駅ビルの高層階に差し込む光が啓介の背中を照らす。その光の中で、啓介はそっと手に持った丸パンを見つめた。


妻が最後に焼いてくれたベーグルまでの道のりは遠い。だが、啓介はこの小さなパンを眺めながら、少しだけ前に進めたような気がしていた。

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