第39話 アルコーブ

 スパからすぐの所にある湯治治療院は、以前は国王家の別荘だった建物で、広々とした玄関ホールが現在は待合室となっていて長椅子が並べられている。


 そこには怪我人の家族が駆けつけていた。


 小さな子供を抱き抱えた女性は泣き出して、この施設の看護修道女が肩を撫でて慰めている。


「大丈夫です。治療院の医師も治療にあたっています」

 その女性だけではなく待合室にいる全員に言い聞かせるように告げたのはクルーガー夫人だった。


 総支配人の妻として、動揺している従業員の家族を安心させるように、穏やかだけれどもきっぱりと断言した。


 自身が一番不安でたまらないはずなのに。


 彼女は入口のアデル達に気づき、驚いてお辞儀をした。


「アデル様、どうしてここに……?」


 アデルがここにいることに困惑するのも無理はない。

 だが、経緯の説明は後にした。


「ここにいるのはサンゼイユ侯爵家専属の魔術師で、治癒魔術が使えます」


 それだけ言えば充分伝わるので、修道女にアリダ先生の案内を頼んだ。


 待合室の重い空気が少しだけ軽くなった。



 ここに運ばれるような怪我をしたのは五人。

 そのうち四人は火傷や打撲、足首の捻挫などで、専門外だが湯治治療院の神経内科の医師の治療で対応できた。


 だが、クルーガーは火傷と骨折をしているのでアリダ先生が治療にあたっている。


 手当の済んだ者から次々と診察室から出てきて、家族と共に治療院を出て行ったが、未だ残っているのはクルーガー夫人と付き添いの家政婦、そしてアデルだった。


「姉さん!」

 ほとんど人のいない吹き抜けの待合室にスターレンスの声が響いた。


 振り向くと、セドリックもいる。


 弟の姿を見て気が緩んだのか、クルーガー夫人は双眸から涙が溢れでた。


 スターレンスはその細い体を抱き締めて、不安を担おうとする。


「よく戻ってくれたな、アデル」

 アデルは兄に促されて待合室を出て、廊下の途中にあるガラス窓のアルコーブに入った。



 そこで今までのことと、アリダ先生は診察室に入ったまま出てこないことを話した。


「……そっか。あのストラップ、そんなに離れてても反応するんだな」

 すごい発明だな、とセドリックは疲れを滲ませていながらも感心していた。


 そして、上着の内ポケットから貸与されている黒い熊のストラップを出した。


「すごかったぞ。別館は宿泊客ほぼ全員と支配人達が持っていたから、朝っぱらから別館の丘が揺れるくらい響いてな」


 たとえは少し大袈裟かもしれないが、別館の客はセドリックを含めて(ティエリには貸与前だったので)三組七名、支配人は五人。その分の咆哮があったのだから、相当な音量だっただろう。


 朝早かったから客は全員ホテルにいて、支配人達も夜勤から引き継ぎをしている時だったそうだ。


 とにかくラウンジに宿泊客と従業員全員集められ、事態が明らかになるまで外出は制限された。


 総支配人と副総支配人、警備担当支配人が持っているものは発信元がわかるようになっているので、本館の総支配人のクルーガーから一斉緊急通報だと判明し、その後に本館の従業員が駆けつけて事態を知らせた。


 別館からも消火に駆り出されて、セドリックとティエリも行くと申し出たそうなのだが、危険なのでお客様は待機を願いますと一度は断られたという。


「でも、ティエリが『僕は騎士で、国と国民の安全を守るのが仕事だ。そのための筋肉だ!』て言ってさあ。まあ、退役してるけど説明する必要ないしな。で、俺も便乗してついてったんだけど、途中何度も泣きそうになったよ」


 最後の一言が脳筋っぽくていまいち決まらないが、あの病弱だった弟がそんなことを口にするなんて、あのティエリが、とアデルも目頭が熱くなった。


「今は警察の検分も終わって、火元はリネン室で全焼、隣にある洗濯室と厨房の一部が損焼したそうだ。でも客や客室は無事で、宿泊は問題ないみたいだ」


 本館の副総支配人が対応するので、湯治治療院の方を見てきてほしいと言われたので、スターレンスと一緒にセドリックも来た。


「途中でお前の送迎をしてくれた御者が、ここにお前と先生がいるって教えてくれたからさ」


 ティエリはまだ後始末を手伝っているという。


「今日は別館に泊まれ。ティエリのこと、頼むよ」

 力仕事を率先して引き受けていたので、もう帰ったら何もできないだろうから、と。


 アデルも素直に頷いた。


「お兄様は?」

「多分、先生は魔力切れになるまで施術するだろうから、俺はこっちにいる」


 魔術師が魔力を使い果たすと、指一本動かせない状態になると聞いたことがある。


 こつこつと足音がして、兄妹は話をつと止めた。

 アルコーブに寄ってきたのは、看護の修道女だった。


「サンゼイユ侯爵ギレム家のセドリック様とアデル様ですね。アリダ魔術師が途中で倒れて……」


 腰掛けていた出っ張りから腰を上げて、修道女の後に続いた。


 すると、すぐに看護師に担架で運ばれているところに行き合った。


「アリダ先生」

 声を掛けると、首から上は動くようで、頭を上げて兄妹を見つけた。


「まだ途中なんですが、魔力切れです」

 こうなると半日くらいはこの状態が続くという。


「お疲れ様でした」

「ゆっくりしてください、先生」

 セドリックとアデルは労いの言葉を掛けた。


 明日、何か甘い美味しいものを作って持ってこようとアデルは決めた。

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