第38話 ルヴロワ
馬車から降りて御者の様子を見にいくと、二人は手にあのストラップを持っておろおろしている。
「お腹の図形を長押ししなさい!」
アリダ先生の忠告で咆哮は止み、ようやく辺りに静寂が戻った。
御者台から降りてきた二人はお礼とお詫びを口にした。
「いいえ、謝る必要はありません。私の持っているものも鳴りましたから」
アデルはストラップを出して見せた。
ホテル従業員である御者の二人は、送迎中に何かあった時のために携行するよう指示があったという。
だが、二人共今まで上着のポケットに入れていて、鳴動するまで触らなかった。
アデルも返すのを失念していたくらいなので、今までその存在すら忘れていた。
「この魔法図形を見ると、どこかの個体が押下されると紐付けされている個体も連動して鳴るようになっているようですね」
兄の家庭教師であり、侯爵家専属の魔術師でもあるアリダ先生がストラップの腹部を撫でながら告げた。
「でも、私達は特に何もありませんよね」
御者も頷いて、順調な道行きでもうすぐ最初の休憩地に到着する予定だったと言う。
「紐付けがどのようになっているかで、可能性は絞られてくると思います」
「オレ達は、無事にギレム様をお送りするようにって、上司から渡されたんです」
「何か不測の事態があった時に押すように言われました」
「私が貸与された時は、作動したら、警備を担当している部署にも鳴動作があったことがわかるようになっているので、すぐに駆けつけられるようになっていると言われました」
アリダ先生、御者二人、アデルはもやもやと嫌な予感が湧き上がってくるのを感じ、誰かがそれを言葉にしてくれるのを待っていた。
「……ホテルの警備、または統括している支配人クラスの人が押して、顧客や従業員に知らせたのかもしれませんね」
「『知らせた』というのは……?」
アリダ先生の推量が物足りなかったので、アデルは問い掛ける。
「ホテルで何か重大な事案が発生したのでしょう」
所持している全員に警告を発するような非常事態がホテルで起きた。
三人のストラップが同時に鳴動した理由は、他に見当たらない。
御者の二人の顔色が次第に悪くなる。
良くないことの知らせだとわかっているが、それがどういうものなのかわからないのが一番不安だ。
「戻りましょう」
アデルは申し出た。
「まだ出立してから二時間も経っていません。今なら引き返せます」
「で、ですが、何があるかわからないのに、お嬢様を連れて戻ることはできません」
「オレ達はギレム様を無事にご領地までお送りするのが仕事です」
まだ客であるアデル達を送り届けるのが彼らの仕事であり、不穏な場所は引き返す選択はできないのだろう。
仕事に忠実である証だ。
その職業意識は立派だと思う。
「ホテルで何かあったのなら、私も兄と弟のことが心配です。このまま領地に帰っても不安だけが残ります。何もなければ、また明日出立すればいいだけなので、一旦戻りましょう」
御者二人は顔を見合わせて逡巡している。
顧客の安全が第一であるが、身内の安否を確かめたい気持ちは同じだ。
「では、ルヴロワまで戻るのはどうでしょうか。隣町ですし、何かがあれば情報は伝わってくるはずです」
提案したのはアリダ先生だった。
隣接した町で、非常時の提携もしているので何かあればルヴロワにも伝達がある。
その情報如何でティユーに戻るかどうか判断すればいいのだ。
御者二人はその提案にようやく頷いた。
「大したことがなければ、それに越したことはありません。なぜ引き返してきたのかと上司に叱責されたら、私の命令に逆らえなかったからと答えてください」
まだ客であり、侯爵令嬢の命令には逆らえなかったといえば、多少の免責になるだろう。
御者達は帽子を取って、貴族に対するお辞儀をした。
道幅の広いところで方向転換をし、馬車は来た道を戻ることになった。
ルヴロワの馬車の停留所はスパの前の広場しかない。
いつもならティユーへ行く周遊馬車が一、二台停まっているだけなのだが、今日は四台も停まっている。
広場の端に馬車を停め、御者の一人とアリダ先生が降りて問い合わせに行く。
スパの人の出入りが多い中、紺色のローブを着ている魔術師が出てきて、アリダ先生が声を掛けた。
アデルは、兄がスリを捕まえた時にストラップの説明をしてくれた人物であるとすぐに思い出した。
「随分と騒がしいけど、何かあったの? クラネ君」
駆け寄ってきた魔術師にアリダ先生が尋ねると、ああ良かったと言って魔術師は神様への感謝の言葉を口にした。
「アリダ先輩が戻ってきてくれて良かったです。実は、ティユーのホテルで火事があって、すでに消火はしてますが怪我人が出ています」
アデルともう一人の御者も馬車を降り、経緯を一緒に傾聴した。
魔術師の説明によると、F&A ホテル本館で火事があり、教会の三点鐘がルヴロワまで鳴り響いた。
消防団や従業員が連携して消火にあたり、宿泊客の避難もできたのだが、消火にあたった従業員数人が怪我をして湯治治療院に運ばれている。
「本館の総支配人が焼けた木材の下敷きになって重傷です。治癒魔術を使える魔術師の派遣を魔術庁に要請しようかと協議していたところでした」
アデルは息を呑んだ。
重傷を負ったのは、クルーガーだ。
「わかりました。私がが行きましょう。湯治治療院は?」
「すぐ近くです。徒歩で五分とかかりません」
「私も行きます。クルーガー氏にはお世話になったことがありますし、奥様とも顔見知りです」
治癒魔術を使えるアリダ先生のように直接何かはできないが、心細いだろうクルーガー夫人の側にいることはできる。
「オ、オレ達、ティユーに戻ります」
「クルーガー総支配人をどうぞよろしくお願いします」
御者の二人は深々とお辞儀をして馬車へと乗り込んだ。
アデル達も見送りする暇もなく、湯治治療院へと向かった。
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