カルボナード

第37話 ストラップ

 次の日の朝、八時にはホテルの用意してくれた馬車に荷物を積み終え、お見送りに来てくれたホテル従業員達に挨拶をした。


 中でもソフィーは眦に涙を浮かべて別れを惜しんでくれた。


「そろそろ時間です、アデル様」

 名残は尽きないが、出発がこれ以上遅くなるとサンゼイユに着くのが真夜中になってしまう、と促したのはアリダ先生だった。


 昨日、兄弟と一緒にコテージに現れたのは兄の家庭教師だった。


 休暇を取っているとは聞いていたが、隣のルヴロワでスパ三昧だったそうだ。


 ティエリが案の定、先輩の所でうざ絡みしていたそうで、セドリックと先生二人掛かりでティユーに連れ戻したのだ。


 アリダ先生は、アデルがサンゼイユに帰ると聞いて用事があるので一緒に帰ると申し出てくれたのだが、男装してどう見ても女性には見えないがやはり妹一人で帰すのは心許ないので兄がお願いしたのではないかと思われる。


 馬車に乗り込む前に、スターレンスがバスケットを差し出した。


「クリームチーズを使ったパウンドケーキと焼き菓子の詰め合わせです。アデル様には大変お世話になりましたので心ばかりのお礼です。道中でお召し上がりください」


 厨房でできたばかりのものなのか、甘い香りと温かさが伝わってきた。


「ありがとうございます。大事にいただきます」


 目を合わせてお礼を言うと、親しみの籠った優しい眼差しがあった。


 客商売だから当初から親切丁寧な応対だったが、それでも業務マニュアルに沿った通り一遍のものだった気がする。


 それがいつからか、心のあるものに変わっていた。


 だからアデルも、去ることになった今、寂しさが胸の奥底から湧き上がってくるのかもしれない。


 再度、アリダ先生に促されて馬車へ乗り込んだ。


 動き始めたら、もう窓の外は見ないと決めていたのだが、最後にもう一度だけ覗いてみた。


 短い間だったが、親切にしてくれた人々が徐々に小さくなっていく。


 いい滞在だった。


 まるで、ご褒美をもらったような日々だった。


 限りがあるとわかっていたが、こんなにも切なくなるものだとは思ってもみなかった。



 馬車がルヴロワを抜け、南西部へ向かう街道に入る。


 山間の両側を木々に囲まれた道から、等間隔に街路樹のある幅の広い道に変わる。


 ティユーを朝早くに出立すれば、休憩を数回挟んでも夜にはサンゼイユへ着く。


 ホテルが馬車を出すと提案してくれたのも、往復で数日のことたからだと考えている。


 がたんと馬車が揺れた時、膝の上に載せているバスケットから甘い匂いが漏れた。


「パウンドケーキと焼き菓子と言っていましたね」

 向かいに座るアリダ先生が尋ねてきた。


 黒髪で茶色の瞳の家庭教師は、出会った頃からほとんど相貌が変わっていない。

 四十代になっているのだろうが、童顔のお陰で半分以上若く見える時もある。


 バスケットの蓋を開けると、フィナンシェとクッキー、そして蜜蝋でコーティングされた布にはパウンドケーキがあり、食べやすいように切り分けられている。


 甘党の先生が瞳をきらきらさせて見ているから、アデルはパウンドケーキを一切れ取り、先生にもバスケットを差し出した。


 朝食は軽く済ませただけだったので、ちょうど小腹も空いてきている。


「お、外はさっくりと香ばしく、中はふんわりと柔らかい。バターとアーモンドプードルの香りもしっかりしてます。さすが、一流ホテルですね」

 フィナンシェを手に取った先生は、うっとりと目を閉じていながらもしっかりと感想を言う。


「パウンドケーキはしっとりして、チーズの味も絶妙です。濃厚で香り高いのに、後味はそれ程もたれませんので、また次が食べたくなります」

 パウンドケーキを頬張ったアデルもつられて述べる。


 今度はアデルがフィナンシェを、先生がパウンドケーキを食べる。


「あれ、これは違う人が作ったのでしょうか」

「うん? そうですか」


 フィナンシェも美味しいのだが、パウンドケーキとは何かが違う。


 パティシエも複数人在籍しているので、分担して作ったのだろうとは思うが。


 言うなれば、フィナンシェは王道、パウンドケーキは基本に忠実ではあるがそこに妙味が加わったような味わいがある。


「でも、両方美味しいから、いいですよ」

「そうですね」


 先生とアデルは、美味しいものを前にして小理屈を述べるのは無粋だということで同意し、まずは堪能することを優先した。


 だが、次のフィナンシェに手を伸ばした時だった。


 突然、獣の鳴き声が響き渡った。


 それもごく身近で、アデルは思わず耳を塞いだが、その音の元が自身の上着のポケットからしていることに気づき、手を突っ込んでそれを出した。


「あ、これ、返し忘れていました」


 宿泊して間もない頃に貸与された防犯グッズの熊のストラップだった。


 咆哮を放つ口は牙が覗き、まん丸だった刺繍の目が吊り上がり、立体的縫い合わされている鼻は咆哮によって皺が寄っている。


 可愛い熊の面影はなくなって、勝手に名付けた通り『狂戦士ベルセルク』の形相になっている。


 音に馬が驚いたのか、馬車が停車した。


 その拍子にアデルの手からストラップが落ち、先生が拾って腹部の魔法図形をしばらく見てから、アデルにお腹を押下するようにと手渡してきた。


 言われた通りにすると、『狂戦士』は咆哮をやめ、しゅるしゅると元の可愛い熊に戻ったが、今度は外で鳴り響く咆哮が聞こえてきた。


 それは、御者二人が持っているストラップから発せられていた。

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