第35話 失恋話
客室メイドのソフィーは、定時で業務を終えて日誌を上長であるセルヴェに提出したところだという。
その日誌を読み終え、スターレンスはセルヴェに返した。
「以前にも似たようなことがありましたから、ギレム様のことですし、大事にはならないとは思いますが、念のために報告だけは上げておきます」
セルヴェの判断は妥当だ。
前例があるからとはいえ、相手は貴族なので一番上にも報告する慎重さは重要だ。
「わかりました。夜勤にも引き継ぎをしておいてください。私もこれから挨拶がてら様子を見てきます」
お疲れ様でしたと二人を見送ってから、スターレンスは夕闇の廊下のガラス窓に映る自分の姿を見て襟元を整えた。
一応、フロントには用向きを伝えてからドアマンにコテージへのドアを開けてもらった。
夜間はコテージまでの道の足下に光の魔鉱石のランプが点され、ポーチにも常夜灯があるので迷うことはない。
だが、日誌では三人はキッチンにいるとあったので、スターレンスは玄関まで来たら建物の脇へと回り、庭へと入った。
弟との再会(あまり感動的ではなかった様子だとセルヴェから聞いている)があって、久し振りに兄妹弟三人揃ったのでワインを開けていると日誌には記してあった。
しかも、調理コートを着て酔っ払いながら酒のつまみを作っているという。
ギレム兄妹弟ならできそうな気もするが、取り扱うものが火や刃物なので、万が一があってはいけないので注意喚起もしなくてはならない。
大分暗くはあるがまだ目視できる明度だったのでふらりとキッチンに向かい、勝手口の前に来た時だった。
ドアが突然開いた。
開けたのは、セドリックと同じ髪の色をしたアデルによく似た面差しの日に焼けた筋骨逞しい男。
従業員から特徴を聞いていたので、彼が誰だかすぐにわかった。
ティエリ・ド・ギレムだ。
なるほど、これは一目瞭然だと、今までの報告に納得した。
だがいくら似ているとはいえ、こちらを睨めつける突き刺すような眼光はアデルには真似できないだろう。
そして、右腕は背中に回しているが、その先に何を隠し持っているのか、スターレンスは鳩尾のあたりがすっと冷えた。
「その人はこの別館の総支配人だよ」
キッチンの奥からセドリックの声がして、ティエリの緊張が抜けるのがわかった。
奥を覗き込むと、アデルとセドリックが作業テーブルの椅子に座っており、セドリックはアデルの少し前に体を傾け、片手に持っているテーブルナイフを置いたところだった。
「こんばんは、スターレンスさん」
兄の肩越しからアデルが挨拶してきた。
「こ、こんばんは、ギレム家の皆様。突然訪問しまして申し訳ありません」
よく考えてみたら、薄暗い中何の先触れもなく裏口から訪れているのだから警戒されてもおかしくはない。
以前にも来たことがあるからといって、毎回通用するとは限らないのだ。
義兄が別館にいたら注意される案件だろう。スターレンスは自己の認識の甘さを改めて思い知った。
「ティエリ様が今日からご宿泊と聞きましたので挨拶に参ったのですが、お邪魔のようでしたら日を改めます」
「ああ、わざわざありがとう。ほらティエリ、お前がいたんじゃ、スターレンス君が入れないだろう」
岩石のような体が脇へずれて、沓脱場まで入ると、テーブルには芳しい料理の数々が並んでおり、そしてすでに数本の酒瓶が空いている。
ギレム兄妹弟は全員コテージに備えてある調理コートを着ており、酒のせいか頬が上気している。
日誌にあった通り、酔っ払いながらおつまみを調理しているようだ。
スターレンスは、調理コートの肩の部分がぴちぴちに張って袖丈が足りていないティエリ・ド・ギレムに向いて挨拶をした。
「この度はF&Aホテル・リゾート・ティユー別館をご利用いただきありがとうございます。私は当別館総支配人のスターレンスと申します。アデル様、セドリック様にはこちらも大変お世話になり……」
挨拶の途中だが、美味しそうな匂いが充満しているせいか、腹の虫が鳴いた。
鳴り響いたので、そこにいる全員に聞こえてしまった。
「お腹空いてる? なら、食べてきなよ」
もう仕事終わりだよね、とセドリックにはなぜか終業の時間を知られてしまっている。
「兄と弟が作りたいだけ作るから、食べきれないのです」
「そう言ってるけど、姉上だって結構作ってるよ」
上がって上がってと手招きで促されたので、スターレンスも断りきれず靴を脱いだ。
何だか、以前にも似たようなことがあった気がする。
椅子が用意され、グラスにワインが注がれた。
だが、素面のうちに言うべきことは言わなくてはならないので、乾杯の前に調理の際はくれぐれも注意するように申し伝えた。
「あ、大丈夫、大丈夫。怪我したり火事を出したら、賠償は家族に頼らず自己負担だって誓約してるからさ」
身銭を切る覚悟でやっているから、包丁を持ち、火をつける時は細心の注意を払っていると、酒くさいセドリックが説明する。
乾杯をして、ワインは一口だけ飲んだ。
冷めたワーテルゾーイ・ア・ラ・ゲント(鶏肉と玉ねぎ、人参の煮物。卵黄と生クリームが入っている)を温め直してくれたのでいただいたが、酔っ払いが作ったとは思えない程ちゃんとした味付けだった。
「ねえ、総支配人さん、聞いてよ。兄上も姉上も冷たいんだよー」
隣に座るティエリが泣きついてきた。
「放っておいていいですよ、スターレンスさん。人妻にフラれた愚痴ですから」
「姉上酷い! それに何度も言うけど、人妻じゃないよ。未亡人だよ」
「再婚相手が自分の上司じゃあなあ。ま、お前もいい勉強になったんじゃないか」
セドリックはグラスのワインを飲み干し、ティエリは兄上も酷いとスターレンスに同情を求めた。
それから数時間、ずっとティエリの失恋話を聞かされて、夜は更けていった。
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