第32話 湯船
ラストダンスの一曲前でアデルはさり気なく席を立ち、バックヤードに入った。
「お疲れ様です、アデル様。裏に馬車を用意してあります。今日はどうぞこのまま別館にお戻りください」
セドリックはすでに馬車で待機していると、スターレンスは歩きながら告げた。
着替えはすでに別館に届けてあり、今着ているタキシードもホテル側からモロー商会に返却する手筈になっているという。
ホテルの従業員用通路を辿り、出入り口の前には馬車が横付けされていた。
「よう、色男。お疲れさん」
妹に労いをかけているのか、感情を逆撫でしたいのかわからない言葉で出迎えた兄を軽く睨み、アデルは馬車に乗り込んだ。
「今夜は色々ありがとうございました。お礼は後日に申し上げたいと思います。本日はゆっくりお休みください」
スターレンスはそう言って深々とお辞儀をした。
「お礼なんていいよ。こっちもわがまましたんだから。君もあと少し頑張ってね」
「本当に色々ありがとうございました、スターレンスさん。あとのことはよろしくお願いします」
あまり留まっていると誰に見つかるかわからないので、スターレンスはまたと言って、御者に出立をお願いした。
F&Aホテル周辺の大通りは街灯があったが、そこを抜けると暗闇が広がる。
だが満月に近い月があり、別館のある丘の麓から先の上り坂には道の両端に光の魔鉱石のランプが等間隔で設置されていた。
「はあ、さすがに疲れたな」
ホワイトタイを外し、襟元を広げたセドリックは背もたれに体重を預けて溜息を漏らした。
「すみません、お兄様。あれだけブチ切れるなと言われていたのに、結局我慢できませんでした」
アデルも背中を預けて、ブラックタイを外した。
「いいよ。あそこでカマしてやんなきゃ、あいつらがいい気になるだけだからな。俺達だけじゃなく、F&Aホテルもなめられたままじゃ、せっかくのお祝いが台無しだ」
侮辱を受けたアデルはそれを逆手に取って最終的にあの夜で一番話題をさらい、身長のことなど誰も気にはしなくなった。
そして侯爵令嬢が今夜の主役のためにピアノ演奏をすることは、サンゼイユ侯爵とホテルとの間には並々ならぬ関係性があり、社長の婚約者のフーケと踊ったことは更にそれを印象付けた。
宿屋夫婦と副町長の鼻をあかしただけではなく、きちんと仕返しができたのだ。
「お前はよくやったよ」
そう言われて、ふっと肩の力が抜けた。
「お兄様にも色々お手数かけました。ありがとうございます」
セドリックの肩に頭を載せて寄りかかると、兄も頭を突き合わせた。
「お前の成長した姿を見られて、俺あ嬉しいぞ。立派な紳士になって……うん? いいのか? これで」
腕組みをして考えだしたので、セドリックも疲れているのだと見える。
「どっちでもいいですよ、もう」
アデルも面倒くさくなってきたので投げやりに答えた。
馬車は別館に到着し、夜間勤務の従業員がランプを持って出迎えに来てくれた。
事情を知っているのか、従業員達は丁重に応対をしてくれ、コテージではソフィーが部屋の明かりをつけて待っていた。
「お疲れ様でした、アデル様、セドリック様」
エナメルの靴を脱ぐと一気に解放感が増す。
それとは反対に、着ている服が妙に重量を感じるようになった。
早く脱いで温泉に入りたい。
「遅くに済まないね、ソフィー。こいつの着替えを手伝ってやってくれ。その後でいいから風呂の用意も」
セドリックは自分のことは自分でやるからアデルをお願いすると言って、寝室へ向かった。
アデルも部屋へ行き、ソフィーに手伝ってもらってタキシードを脱いだ。
ソフィーも色々聞きたいことはあるだろうが、アデルを慮って無駄口を叩かずに手を貸してくれる。
お風呂の用意ができたら、遅くまで起きて対応してくれたソフィーに感謝を述べて事務棟へ帰した。
湯船に肩まで浸かると、ここ数日で蓄積された重荷がやっと下ろせたことを実感して、思わずおっさんのようなうめきが出た。
◇
寝室に戻ると明かりが点いており、一応足を踏み入れる前に部屋の隅々まで見回す。
何も感じなかったので一歩踏み入れた。
「おかえりなさいませ」
ドア脇から声がして、咄嗟に内ポケットに手を入れた。
だが、家庭教師だと認めてすぐに息を吐く。
「もうちょっとわかりやすく居てくれよ」
いつも気配もなくそこにいる家庭教師は、自分を試しているのだとわかってはいるが、毎回だと心臓に悪い。
「夜会、お疲れ様でした」
お願いをさくっと無視して、上着を脱ぐのを手伝う。
「いたのか?」
「はい。前半はセドリック様もアデル様も侯爵家の子女らしい立派な振る舞いで、ご幼少の頃より見てきた私は大変感慨深いものがありました」
この男なら変装して紛れ込むことなど造作もないことだ。
一部始終を見ていたのだろう。
セドリックが脱いでいく服をハンガーに掛け、皺にならないようにクローゼットに吊るす。
「あの宿屋夫婦と副町長はいかが致しましょうか」
「何もしなくていいよ」
ああいう輩は程度が知れており、いつかまた同じことを繰り返す。
人にしたことは自分に返ってくるので、こちらが手を下さなくても、今日の報いはいつか必ずある。
「かしこまりました」
差し出されたコップには炭酸水が入っており、熱くなっている口の中でしゅわしゅわした刺激が心地良かった。
「これを飲んだらお風呂へどうぞ。ローズマリーとペパーミントのアロマオイルも入れてあります」
立ちっぱなしで足が疲れているので、血行促進と清涼感で癒すブレンドにしてあると、家庭教師は告げた。
さすがによくわかってくれている。
「今夜はゆっくりお休みください」
湯船に入ると、ちょうどいい温度と爽やかな香りで強張っていた全身が緩むような心地がした。
慣れないことをすると疲れるが、それも終わった。
軽い達成感が湧き起こり、体の奥からおっさんのような溜息が出た。
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