第29話 バックヤード

 その音は大波のように襲いかかってホール中に満ちた。


 誰もが会話や食事を中断し、流れる旋律に耳を傾ける。


 その音源に吸い寄せられた耳目はそこで釘付けになる。


 細身の美貌の青年……かと思っていたが違和感があり、既視感もある。


 正体に気づく者もいるが、圧倒的な音の威力に飲み込まれて口を開けることができないでいる。


 二分にも満たない曲を弾き終え、余韻が引いた後にアデルは姿勢を正し、席を立ってお辞儀をした。


 湧き起こる拍手の中には、それが先程までドレスを着て踊っていたアデル・ド・ギレムであることが判明して驚いている者や、歓声を上げる者もいた。


 だが、すぐにまた座り直し、有名なワルツが始まる。

 ピアノ、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ビオラ、チェロの五重奏だ。


 ホールの中心で再びフェルトゲンとフーケが踊り始めた。



「あそこにいる夫婦とあの口髭の男は?」

 バックヤードの小窓からホールを覗いているセドリックは、先程アデルを揶揄していた三人の素性をスターレンスに尋ねた。


「ティユーに以前からある定食屋兼宿屋のアナン夫妻とティユーの副町長のコラール氏です」


 スターレンスがアデルに対する揶揄の裏側にある彼らの思惑を説明すると、セドリックはふうんと顎を摘んだ。


「アナン夫妻は来年、宿泊業から撤退予定です。街の発展と共に新しい業態の宿屋やホテルが台頭してきて、ここ数年はかなり客足が遠のいていたようです」


 それまでは宿屋があまりなかったので、多少料理や設備がそれなりでも需要はあったが、対抗勢力が増え、設備も最新、サービスも充実している他のホテルチェーンも参入してきたので、格差が生じて等級ランクが出てくる。


 老舗の良さを出せば活路はあったのかもしれないが、彼らは損切りをした。


「商売の世界も厳しいもんだな。まあ、どこでだって、精進を怠れば追い抜かれるのは当然なのかもしれないけどさ」


 既得権益という言葉があるが、それが永劫だという保証はない。

 先に始めただけというだけで、たゆまぬ努力を継続しなければ、後から追い抜こうとしている気鋭の輩に越されるのは時間の問題だ。


 時間は流れ、流行は変わり、あらゆるものは刷新されてゆく。


 それは今勢いのあるF&Aホテルにも自分にも置き換えられるので、スターレンスはセドリックの言葉を忘れないようにしようと決めた。


「副町長は何でお宅を目の敵にすんの? 街が発展すれば税収も上がるから役人としては嬉しいんじゃないの?」

「実は、町長の秘書と……親密な関係で、逢い引きに使っていたのが……」

「あの宿って訳か。廃業されると会いづらくなっちまうんだな。そりゃ、恨むなあ」


 王都に妻子を残して単身赴任している副町長は、独身の町長秘書と不倫関係になり、恐らく昔からそういう目的で使用されたこともあるアナン夫妻の宿を利用していたのだ。


 訳あり客の取り扱いをよく心得ているから、気がおける場所だったのかもしれない。


「どこで恨みを買うか、わかったもんじゃねえな。でも、これはお宅にしてみりゃ逆恨みだよね」


 大変だね、とセドリックは他人事なので無責任に笑うが、そんな私情で恨まれた方はたまったものではない。


 その時、拍手が起こり、曲が終わったことを知った。


 二曲目も五重奏で、今度は主役だけではなく踊りたい人々が入り混じる。


 ホール全体を見回して、参列者の半分くらいは歓談やケータリングに舌鼓を打っている。


「あそこでやたらと食ってる二人は?」

 ケータリングのテーブルの前に立ち、新しい料理が運ばれてくるとすかさず手に取る騎士隊の礼服の男性と魔術師の礼装用のローブを着ている女性を差した。


 あの二人が宿屋夫妻と副町長に何か言った後、随分と神妙になった。


 何を言ったのかが気にならなくもない。


 スターレンスは二人がルヴロワの泉質管理事務所の職員で、魔術師の女性は防犯グッズの立案者だと教えてくれた。


「これの?」

 セドリックが胸ポケットに入っている黒い熊を出すと、スターレンスは頷いた。


「そうだよな、これは女性ならではの発想だと思った」

「今、お持ちの物は魔術庁が製作しているものですが、彼女が初期に製作したものは、スパの立て籠り事件の解決にも一役買いました」


 昨年起きたルヴロワのスパで起きた脱走囚の事件について説明すると、興味あるのかないのか、セドリックはふえ〜と変な相槌を打つ。


「私達も早鐘を聞いて駆けつけました。その時のものとは仕様が変わったようですが、なぜか熊のデザインということだけは継承されているようです」


 別に熊でなくても、うさぎでも猫でもいいと思うのだが、きっと何かのこだわりがあるのだろう。


「可愛いからいいんじゃないか」

「そうですね」


 今までで一番中身が薄い会話だと双方思ったせいか、変な間が空いた。


「よし、熊でも何でもいいけど、取り敢えず救済に行くか」

 セドリックは背筋を伸ばし、上着の裾を引っ張って整えた。


「え? ですが彼らは平民ですし、身分差があり過ぎます」

 いきなり何の繋がりもない侯爵子息が話しかけては、周囲も違和感を覚えるだろう。


「フーケ嬢に紹介してもらうよ」

「確かにあの二人は友人ですが……。よろしいのですか? セドリック様はこれ以上関わらなくても大丈夫ですが」

「アデルも顔出しでやってるからな。俺もちょっとばかり出しゃばってやる」

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