第28話 タキシード

 アデルがスターレンスと共にホールを出たのを見送って、セドリックはクルーガー夫人から紹介された商工会の会長夫人と社交のために歓談をしていたが、やはり気になって三階へ足を向けた。


「アデルは大丈夫か? ブチ切れてないか?」


 スイートルームのリビングでは所在なげな様子でスターレンスがうろうろしていて、セドリックが入ってくると駆け寄ってきた。


 ノックもなしに入ってきたことも気に留めてないようだった。


「アデル様はお着替えの最中で……でも、あの、ブチ切れているかもしれません……」


 どうしましょう、と涙目になりながら訴えてきた。


 ホールを出てからのことを聞こうとしたが、閉ざされている寝室のドアの向こうから歓声のようなものが聞こえてきた。


 ドアが開き、出てきたのは新品のタキシードを見事に着こなしている手足の長い美青年……いや、アデルだった。



   ◇

「お兄様、どうしたのですか。エスコートはもう必要ありませんが」


 ドレスの時はなくてはならないが、この格好では誰も令嬢だとは思わないのでどこへだって行ける。


「最早、ドレス姿よりこっちの方が落ち着くな。あれ? ヅラは?」


 当初はカツラを被って前髪を下ろし、アデルとわからないように変装して演奏する予定だった。


 だが、今は自毛の前髪を(オールバックにしようとしたが額が目立つため)七三に分け、胸ポケットには髪に挿していたラナンキュラスを飾ってある。


 これでは正体が丸わかりだ。


「予定変更です。似合いませんか?」

「いいや、我が妹ながら立派な紳士に見えるぞ。何だか誇らしくなってきた」


 褒められているのか、いないのかよくわからないが、スターレンスやモロー、商会の社員までうんうんと頷く。


「それよりもう時間がありません。行きましょう」


 モロー夫人に相談しながら変更を指示していたので、予定より時間がかかってしまったのだ。


 部屋を出る時に、モローと商会の社員の臨機応変な対応に感謝を述べた。


「ありがたいお言葉です。お嬢様の役に立つことができて何よりでございます」

「きゃあーっ、アデル様ー!」

「素敵ですー!」

「しっかりー!」

 背中に黄色い声援を受けながら見送られた。



 ホールの脇にあるバックヤードに着くと、次の演奏を控えている楽団員もいた。


 したいことがあるので楽曲の変更があると相談したら、彼らも快く了承してくれる。


「いいですよ、ギレム様」

「あいつら、見返してやりましょう」


 彼らにもあの嫌味は聞こえていたようで、腹が立っていたそうだ。


 演奏順の変更や、前半で使用したピアノなしの曲を差し替えたりして、兄も含めて変更内容を打ち合わせると、そこにクルーガーが入って来た。

 スターレンスが呼びに行ったのだ。


「ギレム様、この度はまことに……」


 まずは陳謝を述べようとするクルーガーを手で制した。


「あなたが謝る必要はありません」


 時間がないので、進行に少し変更があるので了承をもらいたいと変更内容を説明し直にお願いすると、クルーガーは眉間にくっきりと皺を寄せた。


 用意周到に準備を重ねてきたのに本番で変更してくれというのだから、そういう顔になるのも無理はない。

 対応に困惑するのは当然だ。


 クルーガーはただでさえ順序に重きを置き、その上この場の責任者でもあるので答えを慎重にしなくてはならないのだろう。


 身内の晴れやかな舞台だ。

 失敗があってはいけないのだ。


 クルーガーは逡巡しながらも顔を上げてアデル達を見回した。


「止めても無駄、なのですよね」

 溜息と諦めが混じる呟きだった。


「あなたの了承がなくても、成し遂げるつもりでした」


 アデルは侯爵令嬢であり、兄を除けばここにいる誰よりも身分が高い。


 貴族の令嬢が所望すれば、彼らは従わざるを得なくなる。


 クルーガーに事前に確認を取らずとも変更を実行することはできるが、そうしなかったのは彼の立場を慮り、尊重したからだった。


「……お嬢様のご随意に。責任は私が取ります」

 その言葉は諦念を滲ませている。


「了承ありがとうございます。ですが、責任はあなただけが背負うものではありません」


 アデルは右手をクルーガーに差し出した。


 クルーガーははっとしてその手を取り、上背を屈めて手の甲に唇を寄せる。


 タキシードと燕尾服の二人なので傍から見たら変な光景だが、これで序列が明確になり責任の一端をアデルも担うことになる。


「無理言ってすまねえな。でも、こいつのやることは俺にも責任あるんで」


 協力ありがとう、とセドリックとは握手を交わした。


 いよいよ時間もなくなってきたので、ホテル従業員が総支配人を探してバックヤードまできた。


「では、よろしいですか?」

 クルーガーはアデルと楽団員に問いかけたので、全員揃って頷いた。


「わがまま通すんだから、しっかりやれよ」


 出て行く直前でセドリックは、アデルの跳ねている髪を耳にかけて直した。


 アデルは軽く頷き、口元を引き締めた。


 楽団員が楽器を手に配置に戻り、最後にアデルが出る。


 ピアノはカバーが取り除かれており、準備はできていた。

 

 アデルはジャケットのボタンを外して椅子に腰掛け、調音であるA音を出す。


 楽団員のチューニングが済むと、第一ヴァイオリンの男性が軽く顎を引いたのを合図に鍵盤に指を下ろす。


 ホール全体に響き渡ったのは、練習曲エチュードながら高度な技術を要することで有名な曲だった。

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