第25話 ピアノ

 着替えが済んで一息つきたいと思っていたら、クルーガー夫人が至急というのでホールに足を向けた。


 中は雑然としているが、一際背の高いスターレンスがいたのですぐに見つけることができた。


「お兄様」

「おう、早かったな。お前これ弾けるか?」


 いきなり渡されたのは楽譜の束だった。


 めくると聞いたことのある楽曲もいくつかある。


「まあ、一度聞いたことがあればすぐに弾けますが、初見のものは練習してからでないと何とも」

「ダンスの曲ばかりだ。どっかで聞いてんだろう。社交界デビューはしてんだから」


 取り敢えず弾いてみろと言うのでピアノの前に行くと、背の低い男性が準備をしてくれた。


 弾いたことのある楽譜とそうでないものを分けて、弾いたことのない楽譜を譜面台に広げる。


 適当に鍵盤を叩いて音の広がりを確認してから、音符を追って指を動かす。


 懐かしい感覚がすぐに蘇った。


 見開きを終える瞬間に、脇に立っていた男性が譜面をめくったので続きを弾く。


 それを繰り返して結局最後まで弾いた。


 弾き終わったら、ホールにいる人々から拍手が沸き起こり、アデルも席を立って一礼した。


「素晴らしい。初見でここまで弾けるなら充分です。是非、お願いしたいです」


 隣にいて譜面をめくってくれた男性は拍手しながら褒めてくれた。


 セドリックは経緯を説明し、アデルも同情を示した。


「やってやれよ。この前、酔っ払った時にピアノ弾きたいって言ってただろう」

「いえ、ですが、ギレム様。お二人は貴賓ですので、そのようなことをさせる訳にはいきません」


 セドリックの後押しで進んだら、クルーガーの規制線が張られた。


「やります」


 だが、アデルは規制線をぶち破り答えを出した。


「困っているのですから、私にできることがあるならすべきです」

「ですが……」

「せっかくのお祝いの会です。あなたも相当前から準備をしてきたのでしょう」


 抜け目のなさそうなクルーガーのことだから、叔父のために周到にしていたはずだ。納得いくまで選び込んだのだろう。


 それを直前で変更をせざるを得なくなった時の焦燥は、完璧主義の彼にどんな重圧をかけるか。


「こいつがやるって言ってんだからいいんだよ。料理の腕はそこそこだが、小さい頃から母ちゃ……は、母の指導で楽器はいくつか弾けるから」


 セドリックはアデルの肩を抱き、空笑いで言葉遣いを誤魔化した。


 それを横目で睨みつつ、アデルは引き受けはするが条件があると申し出た。


「演奏もするとなると、ダンスはせいぜい二人までです」


「え⁈」

 声を上げたのはスターレンスだった。


 貴賓として二曲踊って、着替えをして演奏に入るようになると、演目の数から考えたらそれが限界だ。


 主役のフェルトゲンと主催者のクルーガーだけとなり、スターレンスとは予約をしていたがここは絶対ではないので反故になる。


 犬のような耳があったら、しゅんと垂れているであろうスターレンスの様子を見ると気の毒だが致し方ない。


「それと、あのドレスでは演奏できませんので、動きやすい礼服があればいいのですが」


 ホールの出入り口の辺りから甲高い声が上がった。

 よく見ると、そこにいるのは片手にシリアルバーを持っているモローと商会軍団だった。


 モローは食べかけのシリアルバーをお針子に預け、かつかつとホールを渡ってアデル達の所へ寄った。


「恐れ入ります、お嬢様。こんなこともあろうかと、特別に誂えました礼服がございます」


「え? あるの?」

 アデルの代わりにセドリックが尋ねた。


「はい。ご依頼があってから採寸を致しましたので、密かに製作をしてまいりました。まさか、こんなに早く報われる日がくるとは……」


 わずかに感極まったように言葉を詰まらせたが、モローはお針子に商会へ行って礼服を持ってくるように言いつけた。


「燕尾服ではなくタキシードですが、演奏者としてなら差し支えはないと思います」


 聞けば、アデルのドレスはほんの少し手を加えるだけで済んだので、せっかく採寸の機会を得たのだからそれを元にタキシードを誂えていたと言う。


 一号店から職人を増員して夜中まで製作していたというのは、主にこちらの方ではないかと思い至ってしまった。


「お嬢様のことですので、もしかしたらご入用になることがあるかもしれないと」


 初めてお会いした時からどうしても製作意欲がかき立てられたと、モローは熱く語った。


「そうとなれば、また衣装合わせを致しましょう!」


 アデルはモローに背中を押されて再び客室へと連行された。



   ☆

 クルーガー夫人が心配してその後について行った。


 呆気に取られていたホール内の従業員も仕事を再開し、残されたのは片隅のセドリック達だけ。


「ギレム様、この度は……」


 クルーガーがしゃちほこばってお礼を言おうとするのを手を上げて制した。


「いいって。あいつもやりたくなきゃ断ってるよ。まあ、スターレンス君には申し訳ないが」


 いいえ、とスターレンスは頭を振った。

「アデル様の演奏も楽しみです」


 そうは言うが、きっと犬のように尻尾があったらしょぼんと垂れているだろう。


「『お嬢様』?」

「『ドレス』?」


 怒涛の如く問題解決した後に、大いなる疑問が浮かべているのは楽団員の二人だった。


 改めてクルーガーがセドリックを紹介し、先程の方は侯爵令嬢だと説明すると、二人はオペラさながらに大袈裟に驚いた。

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