第13話 二日酔い
『5』のドアを開けると、さっぱりとした爽やかな沈丁花の香りが出迎えてくれる。
散り始めている白や紅紫の萼がコテージへと続く道の脇に落ちているので、朝の挨拶を済ませたら掃き掃除をしよう、とソフィーは頭の中の仕事メモに書き込んだ。
マスターキーは持っているが、コテージのドアを控えめにノックしてから失礼しますと言って中へ入る。
玄関先には先程の沈丁花とは違い、何とも形容しがたい異臭が漂っていた。
昨日はギレム様……アデル様(ミーティングでそう呼び分けるように徹底された)のお兄様が到着になり、昼日中から酒盛りが始まっていた。
二人とも酔っ払ってやたらと料理を作っていたのだが、まだ続きをしているのだろうか。
「おはようございます、セドリック様」
コテージに上がってから真っ先にキッチンへ向かったソフィーは、そこで鍋をかき混ぜている男に挨拶をした。
「おはよう、ソフィー。今日もいい天気だね」
臭いはその鍋からしている。
「結構臭う? これさ、ギレム家伝統の二日酔いの時に飲む汁なんだよ」
火は止めていて、かき混ぜて冷ましているようだった。
「ちょうどいいや。これ、アデルに持ってて」
コップに注いだその汁は何色とも言い難い色をしていて、飲んでもいいものなのかも疑わしく思えてしまう。
「あいつ、起きてるけど二日酔いでさあ。あと、風呂の手伝いもお願いね」
「かしこまりました」
主寝室のドアをノックして開けると、アデル様はベッドに腰掛けてぼーっとしている。
「おはようございます、アデル様」
「……ああ、おはよう、ソフィー」
いつもとは違い、銀色の髪が乱れてサファイアのような目が虚ろで、おまけに酒くさい。が、それはそれでどことなく退廃的な色気が漂っている。
華のある人は何をしても様になる。
こんな姿を見れるのは自分だけだと思うと、つくづく客室メイドになってよかったなあと噛み締める。
「こちらをどうぞ。セドリック様からです」
鼻に皺を寄せながら受け取り、飲む前から渋面をしているアデル様は何となく親しみやすい感じがする。
窓を開け、空気を入れ替えてからバスルームへ向い、湯船に湯を貯める。
赤いタイルが嵌め込まれた蛇口を捻れば配管を通して温泉が出てくるようになっているので、湯を沸かして持ってくるという手間がない。
「ありがとう、ソフィー。後は自分でします」
あまり構われたくない方だというのはここ数日でわかっていることなので、ソフィーもかしこまりましたと下がった。
キッチンへ戻ると、セドリック様が昨日の皿を洗っていた。
そんなことはメイドの自分がやると申し出ると、料理は片付けまでが仕事だと言って委ねようとはしなかった。
「朝食も自分達で作るから、今んところはいいよ。気い遣わせて悪いね。いつもありがとう」
多分、セドリック様も同じようにあまり構われたくないのだろう。
セドリック様は大丈夫そうだが、アデル様は二日酔いということもあるし、騒がしくしては差し障りがあるかもしれないので、ソフィーはお辞儀をしてコテージを後にした。
庭掃除も午後から様子を見てからにしよう。
事務棟に戻って業務日誌を出して書き出す。
また同僚から楽でいいわねと妬まれそうだ。
◇
「ギレンフェルド国は事の成り行きを静観する姿勢のようです。フォルランジア諸島も軍事配備されている様子もありませんでした」
「そうか。まあ、彼の国も矛先が向かなければ背後から下手に突くようなことはしないということだろうな」
レーゼルラント国とギレンフェルド国の国境を跨ぐようにして連なっている島々があり、フォルランジア諸島と呼ばれている。
両国の間に緊張が走れば真っ先に軍備が強化される場所だ。
「ギレンフェルド国は外洋というより、北洋を視野に入れているかもしれません。または内陸でも東進に」
「セドリックの報告でもレーゼルラント国はどうも新大陸に気が向いているようだし、我が国はしばらくは安泰なのではないかと思うのだが……」
それでも、レーゼルラント国の侵攻を憂慮する上の意向はどうなのかと眉を寄せる。
だが、向かいのソファに座る青年は、違うところに食いついた。
「え? 兄上、生きてたの?」
「ああ。新大陸に遣わしていたんだ。この間帰ってきたよ」
「ええーっ、そうだったの?」
妻にも娘にも言っていなかったし、末息子はその時療養に出ていたから、余計な心配をかけることにもなるし、話す機会もなかった。
「今どこにいるの?」
「アデルと一緒に温泉に行っている」
新しくできた温泉街のティユーだと言うと、眉を片方だけ上げた。
「ルヴロワの隣町ですね」
「なんだ、若いのにお前も温泉に興味があるのか」
末息子は膝に肘を乗せ、前屈みになった。
「姉上が兵役で勤務している時の上司が左遷されてゼーファールトに異動になったのは、父上もご存知ですよね」
ゼーファールトは、バルギアム国の北にある港町で第二騎士団の本部がある。
「実は、僕の先輩がその男に反発して、ルヴロワのグラン・フリブールの森の魔獣監視のために泉質管理事務所勤務になったんです」
今から三年前、志願して騎士団に入団し、ゼーファールトに配属された末息子は、帰省の際に何度かその先輩騎士のことを話に上げていた。
料理上手というので記憶に残っている。
「表向きはそうなんですが、実は……」
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